Kオジサンの気の向くまま

日々のあれこれ・・・・・思いつくまま

各務原歴史研究会  「各務原飛行場と飛行機工場の歴史」

2020年11月15日 22時58分20秒 | 各務原歴史研究会

各務原歴史研究会の11月定期講演会に参加しました。定期講演会と言っても、コロナ禍の時期でずーとお休みで、久しぶりの講演会でした。


今日の演題は、「各務原飛行場と飛行機工場の歴史」です。
かかみがはら航空宇宙博物館でボランティアを務めておられる小山澄人さんが講師でした。



今日の資料です。
各務原飛行場の沿革で最初は大砲場だった。
そして飛行場となり発展していきました。



今日の資料。
各務原と飛行機工場。
川崎重工の飛行機づくりの沿革です。



パワーポイントを使ってお話です。
各務原飛行場のかつての姿。
そして、今の姿です。



各務原飛行場の草創期。
そして、いろいろの会社のかかわりです。



各務原飛行場で飛んだ飛行機。
戦前戦中。そして戦後です。
色々の飛行機が飛びました。


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各務原歴史研究会  美濃(越前・加賀)白山信仰の歴史

2019年11月16日 23時53分42秒 | 各務原歴史研究会

各務原歴史研究会の11月例会に参加しました。今回は大乗寺住職で高校教員として勤めておられた高橋教雄氏の講演でタイトルは美濃(越前・加賀)白山信仰の歴史 となっていました。

 


開講前です。
多くの人が参加しています。




白山連峰を遠望する(白山三山と別山)。





講演をする高橋教雄氏。




今日の資料です。





白山には加賀馬場、越前馬場と美濃馬場が有りました。
加賀馬場は白山比咩神社で、越前馬場は平泉寺。美濃は長滝寺でした。
三馬場は,いずれも白山禅定道(ぜんじようどう)と称した白山を登拝する別々の道の起点でした。
白山信仰で白山へ向う人々のベースキャンプ的なところでした。




護命僧正の像。




護命が居たといわれる山田寺です。



私は山に登ります。
奥美濃で銚子ヶ峰、そして一の峰、二の峰、三の峰。続いて別山。白山の剣が峰。御前峰。大汝ケ峰。これらの山々を繋ぐ道が白山禅定道であることは知っていましたが、奈良の吉野のお寺話が入り、お話が少し難しかったように思いました。

 

 

 

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各務原歴史研究会  美濃に漂う出雲色  -岐阜は岐神の府-

2019年07月20日 23時27分50秒 | 各務原歴史研究会

各務原歴史研究会の7月例会に参加しました。今回は古代史の研究家、在野一生氏の講演でタイトルは美濃に漂う出雲色  -岐阜は岐神の府- となっていました。


講義の開始前です。
挨拶する瀬川会長。




講演に入りました。
講義する在野一生氏。
ご自分の説を述べています。




資料です。




こちらも資料。

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各務原歴史研究会  (11月)定期公演会

2017年11月18日 23時48分19秒 | 各務原歴史研究会

各務原歴史研究会の11月定期公演会が開催されました。その聴講に行って来ました。講師は尾関 章さんと言う方でした。会長が挨拶し、講師を紹介したのですが、他の事柄を喋ったりして講師のプロフィールをハッキリとは話しませんでした。高校の先生をしていた方のようでした。
参加者には、歴史に興味がある高齢者が多かったです。会場が満員になっていました。
演題が「壬申の乱の美濃と尾張勢」と言う講演会でした。


会長が挨拶。
そして講師の紹介へと続きます。
会場は各務原市産業文化センターでしたが、2階の会議室が満員になりました。




講演会の模様をケーブルテレビが取材に来ています。





尾関 章さんの公演が始まりました。





今日のレジメ。
「壬申の乱の美濃と尾張勢」。




講義が始まって始めの部分。
高校の教科書から引用し、パワーポイントを使ってのお話しです。
壬申の乱の紹介。
天智天皇が亡くなると、翼672年、天智天皇の子の大友皇子と天智天皇の弟大海人皇子の間で皇位継承をめぐって戦い「壬申の乱」が起きた・・・・・、と有ります。




高校歴史の副本で壬申の乱の部分です。
壬申の乱はいわゆる叔父と甥の戦いです。この段階から天皇と呼ばれるようになったそうです。それに「壬申の乱」と言うのは後日、学者が付けた言葉だそうでした。




2011年6月25日に鈴鹿山地の南部。油日岳へ登りました。
その時の登山道が東海自然歩道となっていて、こんな表示プレートを目にしました。
壬申の乱の折、大海人皇子が美濃へ向かった時に通ったと言うモノです。山に登った時はピンと来なくても、振り返ってあの時の道が大海人皇子が通った道だと考察できます。
学習した事と行ってきた場所が結びつく面白さが有ります。平地を通過したと特定するのは難しいですが、峠道を越えた。その確実性は高いと思います。


上手く纏めれませんが、全体の話しは尾関さんの学説でした。



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