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blog 福祉農園通信・龍神伝心

アジアモンスーンに吹かれて
共生の農業
見沼田んぼ福祉農園 

2008年2月17日 見沼・風の学校 2007年度総括合宿点描2日目

2008-02-19 | 様々な農
2日目のもメインテーマーは、事務局長提案の 同質の関係から、もっとゴチャゴチャした関係へ
社会人スタッフが農園活動を社会人として組織的に展開することを提案。
提案した社会人の職業は、公務員、ベンチャー企業職員、大学職員、大学講師、企業の研究員など
打ち上げは横浜らしく中華料理店で昼食会 美味し。

港町横浜をお楽しみながら帰路に着く

2008年2月16~17日 風の学校の年度末恒例総括合宿へ

2008-02-18 | 様々な農
風の学校の総括合宿に参加、若者たちの語り合いに、
昆吉則氏の「耕すは蒔(ま)く為に非ず」に関する考察を思い出した。

【「農業経営者編集長 昆 吉則 -profile 】

スガノ農機の総合カタログには、同社の企業理念である「積年良土」ととともに
「耕すは種蒔(ま)く為に非ず」
という禅問答ようなコピーが添えられてある。
僕は優れた経営者の生き様にふれる度に、この「耕すは種蒔く為に非ず」という句をいつも思い出す。
「広辞苑」で「耕す(たがやす)」の項をひくと(タガヘスの転)作物を植える準備として、
田畑を掘り返す」と解説がしてある。
漢和辞典で、漢字の「耕」の辞義をたどると「耕」の「すきへん」は「耒(ライ・すき)=鋤・耡・耜」に由来する。
そして、スキの作業目的である「土の反転」から「田返す(たがえす)」が「田返す」ことであるとされている。
ロータリ耕が一般化する以前の耕し方を思いおこせば、鍬であれ鋤であれ反転耕なのだから当然かもしれない。
しかし「がやす」という言葉に、次の様な意味を感じている、これは僕の「こじつけ」に過ぎないだろうか。
漢字の「耕」の意味はともかく、そもそも外国語である漢など知らぬはずの普通の人、
あるいは漢字伝来以前の日本人が「たがやす」あるいは「たがえす」の音を発していたのだとしたら、
それは「田を返す」ではなく「田へ返す」ことの意味ではないか。
「たがやす」は、
本来、田(土)から取り出したものは「田に返す」「土へ戻す」という
「農業の方法」を言い表した言葉なのであり、
「作業の方法」としての「田を返す」ではない。

言い換えれば「作業」や「技術」用語としての「田を返す」ではなく、
「喰い続ける方法」「き延びる方法」いうなれば「経営」の問題として「田へ返す」「土へ返せ」
そして「戻し続けよ」と語られてきたのではあるまいか。
農具の歴史からみても、スキやクワのレベまでに土壌の反転性が高い農具が使われる以前から、
人々が「たがやす」という言葉を使っていたのだとしたら、むしろそう考える方が自然だし矛盾も無い。
今ですら鋤を使っていた年配の人なら、土地それぞれの言葉があるが「スク」とか「起こす」とかいうのが普通であり、
「耕起」を意味する日常語として「耕す」なんて言葉は使わない。
昔から日本人にとって「たがやす」とは、「田を返す」ということでも、
ただ単に「作物を植える準備として、田畑を掘り返す」ことでもなく、
農業の基本原としての田から得たものを「田へ返す」「戻し続けよ」「循環を守れ」を意味る言葉であったのだと僕は思う。
人の思い通りにならない圧倒的な力をもつ自然。
その中で、継続的に安して生きる糧を得ていく農業という「自然を管理する方法」。
その基本原則が「循環を守る」ことあり「戻し続ける」ことであるからだ。
人が喰っていくことと同じ意味であったはずの「耕すこと」の本質として、
「田へ返せ」と語られていたのではないだろうか。
「喰うこと」とは「戻すこと」であったのだ。
話は変わるが、作ることに夢中になると、なぜ作るかを問わなくなり、
売ることに夢中にるとナゼ売るかを問わなくなる。
製造部長なら、営業部長なら、それで済むかもしれない。
しかし貴方は経営者なのだ。それでは足りないのだ。
いつの間に、我々は、春に始まり秋に終わる一連の作業の流れとしてしか農業が見えず、
そ作業消化に追われ様々に発生する障害への対症療法的な対策ばかりに気を取られ、
また当面の売上や利益の大小にばかり目を奪われてはいないだろうか。
「技術」や売上」あるいは「単なる帳簿面の利益や費用」や個々の作業という木にとらわれて
「経営」という森が見えなくなっているということはないだろうか。
「耕す」ということが、種まきや田植えの準備作業としてしか考えられなくなっているのではないだろうか。
むしろ、収穫に次の始まりを感じることができるだろうか。
我々はあらためて「耕す」を技術の問題として「田を返す」だけでなく、
経営の問題として「田へ返す」につながっているかを問うことが必要なのではないか。
そして、僕が行き会えた優れた経営者たちの践とは、
常に「戻し続け」「し続ける」という農業の原則を守ることであり、その「意志」を持ち続けることであった。
農業経営者だけでなく優れた仕事を成したあらゆる事業経営者たちもまた、
その規模の大小を問わず同じことを語る。
土を離れた事業者にとっての「土」とは顧客であり、市場であり、そして取引先であった。
それらの人々は、「田へ返す」「土へ戻」それも「取る前に戻す」ことを考えている。
「戻せなのは欲が足りないのだよ」という人もいた。もっとも、戻しても成功の保証などはない。
それでも戻す人が成功者たりえるのであり、戻せぬ者はやがて滅びるのだと僕は思う。
「耕すは種蒔く為に非ず」とカタログに謳うスガノという企業の経営と営業活動も、
この「へ返す」の精神なのあろう。
そして、この精神には、農業も他の産業も仕事の違いもなく、また人の一生もまた同じなのではないか。

晴耕雨読人類往来記

HONDA パワーストリー 福祉農園の今 その後の見沼田んぼ エピローグ

2008-02-07 | 様々な農

福祉農園の今 その後の見沼田んぼ エピローグ
2006年11月23日に行われた収穫祭に、
Hondaから2台の「こまめ」がやってきた。
 
11月に行われた収穫祭の風景
 「Hondaさんをはじめとして、あの事件では周囲の人との深い関わりを感じました。
地域に足をつけて生きていくということは、地域をより深く知ることになります。
かつての見沼では田畑があり、見沼代用水が流れるなかで人は暮らしていたといいます。
現在の見沼は都市と農村が交わるところでもある以上、
環境福祉地区としてのまだ見ぬ可能性もあるのかもしれません」
(風の学校・猪瀬浩平さん)
 '07年夏に「サバイバルキャンプ」が行われる頃、
畑にはロータリークラブの会員が育てた作物も実り始めた。
ナス、トマト、キュウリ、ネギ、パプカ、唐辛子……。
 農園に参加する浦和北ロータリークラブの古澤さんは、飲食店経営にも携わってきた。
「昨今の情勢にかかわらず、“の安全”は気になるところです。自分たちや信頼できる方が育てた作物なら安心して召し上がっていただける。そうした仕組み最初のところを、まずは体感したかったという面もあるのかもしれません」(古澤さん)
 ロータリークラブの会員が、福祉農園の作物を購入することも増えた。
地元住民が作業に加わることで、地域への密着度も格段にあがってきたという。
北極圏22,000キロ犬ぞり行を語る小嶋一男さん 2007年のサバイバルキャンプには、
北極圏を犬ぞりで走破した小嶋一男さん
も農園を訪れ、発電機から電源をとったホットプレートで作った本格派のリゾットに舌鼓を打った。
 同じHonda製品を使っている縁で、これまでも何度か農園を訪れている小嶋さんは、
自然を体感することの大切さを若者に伝えたかったという。
「大自然を肌で感じられる場所は、どんどん減っている。都会の近くにいならにして、福祉農園で自然に触れることが、いかに人間として大切なことか」と、自ら体験を交えながら、サバイバルキャンプ最終日、農園の恵みを肴に若たちとの語らいを楽しんだ。
  1999年に立ち上げられた見沼田んぼ福祉農園は、間もなく開園10年を迎える。
「桃栗三年柿八年」というが、何もなかった荒れ地に農作物を植え、地域に密着するために、やはり時間が必要となる。
 「作物も人も、時間をかけることで地域に馴染んでいく。地域に根ざす基盤もできて、ようやく立ち上げ当時から望んでいた形に近づいてきましたね」(猪瀬良一代表)
そしてその活動の中で、世代を、性差を、そしてコミュニティを超えた人間関係が作られていく。
パワー・ストーリー  都市と農村という不可分な自然のなかで、人と人とが交わりあう。
そこには大きすぎるほどの過剰なツールは必要ない。
自然への影響を最小限に抑える環境性能を持ち、人と人とが交わる場所で、求められる十二分な力を持つ。

Honda
汎用製品はそんな新しい交流を生み出す見沼田んぼの一角で今日も彼らの活動とともにある。

読売新聞1月20日社会面『人・物語』 読売新聞 1/20付け

2008-01-22 | 様々な農
 『人・物語』 
最初は渋々 『人つなぐ喜び』を知った10年≫  

作業着姿の猪瀬浩平さ(29)が足元をまじまじと見つめた。床板の所々に穴が開いている。
今月12日。さいたま市の「見沼田んぼ福祉農園」で、倉庫として使っている小屋の修繕作業が行われた。
全体が傾き、出入り口の戸も開けにくくなっていた。『こんなに腐っていたなんて』―。
そうつぶやいた浩平さんの後ろで、父、良一さん(58)の声がした。
『これほど長く続くとは思わなかったもんな』―。父が開いた農園は今年、10年目を迎えた。

浩平さんの兄の良太さん(34)には知的障害がある。
農業ジャーナリストだった父が、地元の農家から小さな土地を借りたのは20年前。
良太んに農作業を経験させるのが目的だった。  
浩平さんが小学校だった時は、週末ごとに家族と通った。深い森には別世界があった。
だが、中学に入ると、部活動や友人との付き合いが忙しくなって足が遠のいた。
家族との距離を感じ始めたのは、高校に進んだ頃からだ。
同級生から、父の仕事や兄について聞かれると、どう説明していいか分からなかった。
家族とほとんど口を聞かなくなり、生まれ育った土地から離れた大阪大の人間科学部への進学を決めた。

大学2年になった1999年5月。父は農場を1ヘクタールに広げて福祉農園を始めた。
それまでは家族けで農作業をしていたが、障害者やボランティアを受け入れるようになった。  
夏休みに帰省すると、『農園で草むしりをやれ』と父に言われた。
避けてきた相手だが、有無を言わせぬ口調に従うしかなかった。その後も帰省の度に農園の仕事を手伝わされた。
初めの何年かは苦痛でしかなかったが、渋々手伝ってるうちに、農業というものが少しずつ違って見えるようになっていった。  

 そんな自分を初めて意識したのは、大大学院に進むため埼玉に戻った2001年の春だった。  
ジャガイモを作ろうと、種芋を4分の1に切って植えた。
本当に芽が出るのかと半信半疑だったが、2週間、緑の葉がぽつぽつ顔を出し始めた。
畑が新芽で埋まったのは、その1週間後だ。あんな切れ端から、こんなに多くの芽が育つとは・・・。
生命の神秘を目の当たりにした思いだった。  
 失敗も繰り返した。雨の翌日に耕運機をかけ、すっぽりと泥に埋もれたことがある。
農薬を使わずに枝豆を育てようとして、新芽を全て青虫に食べられたこともある。  
そんな経験を重ねながら、苗が実った時の感動は何物にも代え難いと知った。  

 翌年の1月。子供らにも農業に触れてもらおうと、農園の一区画で農作業の体験教室を開き始めた。
しかし、教室の準備に追われるどして本来の農作業がおろそかになり、畑は雑草だらけになってしまった。  
 この時に意見したのは父だった。『知識も技術も十分じゃないのに、子供を受け入れるのは 早過ぎる。
 まずは地道に農業と向き合うべきなんじゃないのか』―。  その通りだと思った。
農業だけでなく、父を見る目も徐々に変わっていった。  
 農園から発電機や耕運機がごっそりと盗まれたのは一昨年5月のことだ。
揃え直す経済的余裕がなく、『もうダメかもしれない』と気持ちは沈んだ。  だが、思いがけないことが起こった。
地元の農家や企業から、中古品や現金を寄付したいという申し出が、約40件も寄せられたのだ  
 父とお礼に回り、地域の人々が障害者や若い農業者に向けるまなざしの温かさを実感した。
農園のことで、父と一緒に怒ったり笑ったりしている自分がいた。  
昨春からは明治学院大で『ボランティア学』を教えている。秋には学生を農園に連れて来て農作業を体験させた。
若い人に伝えたいのは、『人と人をつなぐ農業の素晴らしさ』だ。  
 
農園では今、約200人の障害者や若者が汗を流す。10年目を迎え、父にこう提案した。
『これから採算のとれる方法も考え、 農園を何世代にもわたって続けられる体制にしたい』―。  
 小屋の床板を張り替えた後、農園の釜戸でおでんを作った。具のジャガイモや大根は農園で採れたものだ。
汁をすすると、冷えた体がほんわり温かくなった。鍋から立つ湯気の向こうに、満足そうに笑う父見えた。               
~読売新聞 1/20付け 朝来野祥子~

見沼田んぼ福祉農園通信

2008年1月20日 福祉農園 読売新聞全国版社会面トップに

2008-01-21 | 様々な農
年明けからは相次ぐ事件、事故の取材に追われています。
8日から1週間の冬休みをもらったので帰省しましたが、
9日、八戸で事件が発生。
翌日から農園に行こうと思っていましたが、休みはなくなってしまいました。
毎日、早朝から深夜まで、氷点下5度の雪国を動き回っています。
埼玉も今日、雪が降るみたいですね。
本日の読売新聞社会面を読みました。写真がいいですね。
年明けてからは、事件や偽装、インサイダーなどで紙面をにぎわしているので、
社会面の半分を埋める福祉農園の記事を読んでうれしくなりました。

昨春、農園を卒業し新聞記者になった風の学校OBからの便り

2008年1月19日

2008-01-20 | 様々な農
本日の作業:
テーブル移動、設置、薪運び、堆肥場で焼却処分、道具小屋の整理

去年1年お世話になった女体さんのお札を焼き、見沼の大地にもどす
今日は作業の後半、焚き火を見ながら時間を過ごしました。
火っていきているんだなぁと感じました。なんだかいい時間でした。
(by植松)

見沼たんぼ・さいたま市&市民ネットワークの会長になりまた

2007-12-29 | 様々な農
見沼たんぼのホームページさいたま市ロゴ
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見沼たんぼ
さいたま市&市民ネットワーク


会長 猪瀬良一
アジア・モスーンに吹かれながら
 初めて訪れた、見沼の「野田の鷺山」には、鷺を観察するための展望台が立っていた。
鷺のコロニーは既に解体して、ただ広がった空に鷹が舞っていた、35年前の話ある。 それから見沼田んぼとのき合いが始まった。
 田んぼは水を浄化し、気を安定させ、酸素を供給し地下水を潤し、
連作障害を回避し、季節感を演出し、森林と同様に自然のダムになって私たちを水害から守ることを、見沼田んぼとの付き合いの中で学んだ。
 アジア・モンスーン民は、田んぼのわりを肉体の中で記憶し、
田んぼとの関わりの中で精神性を得とくし、それを信仰の対象とまでしてきた。
見沼田んぼの龍神伝説も、その一つである。
 私たちの団体は見沼への回帰と再生への道のりを福祉農園の実践を通じて始めており、
市民の方々へ、見沼への回帰と再生の道への参加を呼びかけています。
 このように見沼田んぼには様々な魅力があり、活動ができる場があります。
 見沼たんぼ・さいたま市&市民ネットワークは、
見沼たんぼのホームページを通じて魅力的な情報発信、市民参の機会を提供していきす。
| サイトマップ | ©2007 さいたま市

2007年12月1日 キムチの漬け込み準備、麦蒔き、読売新聞の取材

2007-12-01 | 様々な農
ぺんぎん村がキムチの講習会を明日の午前10時半から開催する。 明日に向けて、白菜の漬け込みのための準備が今日行われた。
立派に育った白菜
無農薬でここまで育てることは難しい。スタッフの工夫が伝わる出来栄えだ。
藤枝さんとニンニクの皮をむく良太氏明日に備えて白菜を塩漬けにする
麦蒔き全国紙の取材も行われた
息子さんと作業する隣の畑の清水さん
見沼田んぼ福祉農園通信