来週火曜日に植物観察会があるので下見をしてくると出かけたカミさんが、1時間もしないうちに帰ってきた。
おや、どうした?
う~ん、脚に不安が募って・・・、と珍しいことをいう。電車に乗っていて、何となく左足の太股が落ち着かない。痛いというわけではない。重いといえば重い感じ、疲れているかといえば、それとはちょっと違う。だが乗り換えをしているとき、ハテこのまま何時間かを歩けるだろうかと不安になり、戻ってきたという。
いや、よく帰ってきたねと、引き返す勇気を褒める。カミサンもそうだが、私たちの世代は、案外無理をする。なんのこれしきと、ついつい思ってしまう。痛いと思うことがあっても、これしきで痛いと言ってどうすると、つい我が身を叱咤激励してしまう。我慢すると言ってもいいが、こんなことで屁古垂れては、この人生は生きていけないと思うことに溢れていた。身が痛いだけではない。目に痛い、耳に痛い、舌に苦いことなど、心が痛むことに世の中には満ちあふれていた。そういう子ども時代を送ってきたから、たいていのことは我慢し、世界はそういうものだと身に沁みる経験を積んで生きた。
それが年をとると、予防的にブレーキをかける。とことんいってしまうと、往くも還るもできなくなって立ち往生する。これまた経験的に身に沁みている。高齢化というのは、障碍を抱えるのと同じだ。自分でできないことが多くなる。熊谷晋一郎という哲学者は、道路や階段や坂道などに思いを致し、障碍者は世界が利用できなくなるというが、逆にそれはヘルプを受けるほかない。それはコミュニケーション(を求めること)であると見て取って、健常者の自立を誇らしげにいうことへの疑念を提出していたっけか。そうだね、独りで生きていくというのはある意味ではフィクション。社会的動物としてのヒトとしての本性を否定すること。身に刻まれた自立精神が、逆に生き物としての存在の本源的なナニカを損なって行こうとする志向性を持っている、と言えるのかも知れない。
おおっと、また話が逸れてしまった。
脚の不安を抱えたままでは困るだろうと、2日後、私が車を出して北本自然観察公園へ向かい、3時間ほど「下見」をしてきた。「つまんないでしょう」とカミサンは申し訳なさそうに口にするが、深い森の中をぶらぶらと散策するのは、山歩きとは違うが、似たような環境に身を浸して溶け込むように感じられるので心地よい。
水溜まりを覗き込む。先月卵塊であったのがオタマジャクシに孵化して泳いでいる。ずいぶん数が少ないから、もうカエルになって水から上がったのもいるのかも知れない。水面がピチピチと跳ねるようにざわついている。水底から何かが水面へ浮いてきて呼吸をしているのか。泥鰌かと思ったらメダカが何匹も背びれを水面上に出して泳いでいた。
下見のカミサンは何やらメモをしながら、ときどき口にして指さす。へえ、これがアケビかと声にして返すと、それはドウダンツツジ、それに巻き付いて、ほらっ、その下のピンクっぽい茶色の花、その蔓のがアケビよと枝を押し上げて見せてくれる。
毎月、ここでの植物観察会をしている。ギャラリーは鳥のマニアたち。同じメンバーで昆虫観察会もしているから、ま、ここはお馴染みのホームグラウンドなのだ。でも毎回、下見をしてそのときどきの観察ポイントを代えてプリントをつくり、カミサンがご案内している。私は観察会には顔を出さないが、そのプリントをタイプするのを手伝ってるから、手を変え品を代え、もう何年も前からよく続いていると感心している。ネタが尽きてもいいはずと私は思っているが、カミサンは、この面々が私同様、話を聞いても右から左へとすぐに忘れてしまう。だから質問も、同じようなコトが繰り返される。けど、そんなものと(私をみて)しっているから、聞いてくれているだけでいいのよ。ただ同じことをしていたのではカミサン自身が成長しないから、手を変え品を代えるのも自分の(確認の)ためという風情をもっているようだ。
先月、ちょうど足元にタンポポが花をつけ、すでに受粉して横たわり、穂になって背丈を伸ばし、風に乗せて種を飛ばしてしまったのと、全部が一箇所でみられたから、小学生に話すようで悪いけどと断って説明したら、皆さんとても喜んでくれた。そういう話もする。私は、それってただ咲いているタンポポを見知っている人にとって、動態的に受粉し横たわり、穂になって花より背丈を伸ばして風を受けやすくするという、タンポポの一生を一目瞭然にとらえる視点が新鮮だったのではないかと思い、そういう新しい切り口は、一度聞けば記憶に残るし、オモシロイと興味が湧くよねと身の裡でクールに見つめる。
去年はあったのに、今年はまだ姿を見せないとか、浦和田島ヶ原の桜草自生地にはずいぶんあるのに、ここ北本にはジロボウエンゴサクが極端に少ないとか、3月に花咲いていたスミレが、今はほらっ、実をつけている、と地面に顔をつけるように覗き込んでみている。六十の手習いで始めた植物観察が二十年を経てこれだけ身につき、しかもまだ、三日に上げず出かけていても興味が尽きない、カミサンのお宝になっている。名前をきっちりと記憶するのもしっかりしているが、何より、あいまいなこと、知らないことは口にしない。わからないことはわからないと応える。そういう恬淡とした見切りの良さは、自然観察者としてとても大事なことだろう。それが軸になって、人との接触が生まれ、つづき、敬意を払った互いの存在を確かめる機会になっている。
ま、このようにお宝を大事にして皆さんと交わっていけるカミサンの現在は、八十路の婆ちゃんとしては、十分支えになっている。その在り様や、ヨシ、である。
おや、どうした?
う~ん、脚に不安が募って・・・、と珍しいことをいう。電車に乗っていて、何となく左足の太股が落ち着かない。痛いというわけではない。重いといえば重い感じ、疲れているかといえば、それとはちょっと違う。だが乗り換えをしているとき、ハテこのまま何時間かを歩けるだろうかと不安になり、戻ってきたという。
いや、よく帰ってきたねと、引き返す勇気を褒める。カミサンもそうだが、私たちの世代は、案外無理をする。なんのこれしきと、ついつい思ってしまう。痛いと思うことがあっても、これしきで痛いと言ってどうすると、つい我が身を叱咤激励してしまう。我慢すると言ってもいいが、こんなことで屁古垂れては、この人生は生きていけないと思うことに溢れていた。身が痛いだけではない。目に痛い、耳に痛い、舌に苦いことなど、心が痛むことに世の中には満ちあふれていた。そういう子ども時代を送ってきたから、たいていのことは我慢し、世界はそういうものだと身に沁みる経験を積んで生きた。
それが年をとると、予防的にブレーキをかける。とことんいってしまうと、往くも還るもできなくなって立ち往生する。これまた経験的に身に沁みている。高齢化というのは、障碍を抱えるのと同じだ。自分でできないことが多くなる。熊谷晋一郎という哲学者は、道路や階段や坂道などに思いを致し、障碍者は世界が利用できなくなるというが、逆にそれはヘルプを受けるほかない。それはコミュニケーション(を求めること)であると見て取って、健常者の自立を誇らしげにいうことへの疑念を提出していたっけか。そうだね、独りで生きていくというのはある意味ではフィクション。社会的動物としてのヒトとしての本性を否定すること。身に刻まれた自立精神が、逆に生き物としての存在の本源的なナニカを損なって行こうとする志向性を持っている、と言えるのかも知れない。
おおっと、また話が逸れてしまった。
脚の不安を抱えたままでは困るだろうと、2日後、私が車を出して北本自然観察公園へ向かい、3時間ほど「下見」をしてきた。「つまんないでしょう」とカミサンは申し訳なさそうに口にするが、深い森の中をぶらぶらと散策するのは、山歩きとは違うが、似たような環境に身を浸して溶け込むように感じられるので心地よい。
水溜まりを覗き込む。先月卵塊であったのがオタマジャクシに孵化して泳いでいる。ずいぶん数が少ないから、もうカエルになって水から上がったのもいるのかも知れない。水面がピチピチと跳ねるようにざわついている。水底から何かが水面へ浮いてきて呼吸をしているのか。泥鰌かと思ったらメダカが何匹も背びれを水面上に出して泳いでいた。
下見のカミサンは何やらメモをしながら、ときどき口にして指さす。へえ、これがアケビかと声にして返すと、それはドウダンツツジ、それに巻き付いて、ほらっ、その下のピンクっぽい茶色の花、その蔓のがアケビよと枝を押し上げて見せてくれる。
毎月、ここでの植物観察会をしている。ギャラリーは鳥のマニアたち。同じメンバーで昆虫観察会もしているから、ま、ここはお馴染みのホームグラウンドなのだ。でも毎回、下見をしてそのときどきの観察ポイントを代えてプリントをつくり、カミサンがご案内している。私は観察会には顔を出さないが、そのプリントをタイプするのを手伝ってるから、手を変え品を代え、もう何年も前からよく続いていると感心している。ネタが尽きてもいいはずと私は思っているが、カミサンは、この面々が私同様、話を聞いても右から左へとすぐに忘れてしまう。だから質問も、同じようなコトが繰り返される。けど、そんなものと(私をみて)しっているから、聞いてくれているだけでいいのよ。ただ同じことをしていたのではカミサン自身が成長しないから、手を変え品を代えるのも自分の(確認の)ためという風情をもっているようだ。
先月、ちょうど足元にタンポポが花をつけ、すでに受粉して横たわり、穂になって背丈を伸ばし、風に乗せて種を飛ばしてしまったのと、全部が一箇所でみられたから、小学生に話すようで悪いけどと断って説明したら、皆さんとても喜んでくれた。そういう話もする。私は、それってただ咲いているタンポポを見知っている人にとって、動態的に受粉し横たわり、穂になって花より背丈を伸ばして風を受けやすくするという、タンポポの一生を一目瞭然にとらえる視点が新鮮だったのではないかと思い、そういう新しい切り口は、一度聞けば記憶に残るし、オモシロイと興味が湧くよねと身の裡でクールに見つめる。
去年はあったのに、今年はまだ姿を見せないとか、浦和田島ヶ原の桜草自生地にはずいぶんあるのに、ここ北本にはジロボウエンゴサクが極端に少ないとか、3月に花咲いていたスミレが、今はほらっ、実をつけている、と地面に顔をつけるように覗き込んでみている。六十の手習いで始めた植物観察が二十年を経てこれだけ身につき、しかもまだ、三日に上げず出かけていても興味が尽きない、カミサンのお宝になっている。名前をきっちりと記憶するのもしっかりしているが、何より、あいまいなこと、知らないことは口にしない。わからないことはわからないと応える。そういう恬淡とした見切りの良さは、自然観察者としてとても大事なことだろう。それが軸になって、人との接触が生まれ、つづき、敬意を払った互いの存在を確かめる機会になっている。
ま、このようにお宝を大事にして皆さんと交わっていけるカミサンの現在は、八十路の婆ちゃんとしては、十分支えになっている。その在り様や、ヨシ、である。