昨日(4/11)ささらほうさらの月例会。キタムラさんが《広田輝幸『日本人のしつけは衰退してきているのか』を読む》と題してレポート。
江戸末期から大正時代、昭和戦前戦後を経て高度経済成長を遂げてきた流れに振り回されてきた「家族」と「しつけ」に焦点を当てて、表題のようなテーマに迫っている。著者の主張、レポーターの問題提起、それへの質疑も含めて、話の要点を次のように聞き取った。
江戸末期から大正時代、昭和戦前戦後を経て高度経済成長を遂げてきた流れに振り回されてきた「家族」と「しつけ」に焦点を当てて、表題のようなテーマに迫っている。著者の主張、レポーターの問題提起、それへの質疑も含めて、話の要点を次のように聞き取った。
(1)江戸期~明治期は、ほとんどムラのしつけ。ムラで暮らしていくための振る舞い方が「しつけ」であり、それは(村人の姿を見ながら)自然に学んでいくことであった。家庭で子どもを躾けるというのは、武家の習い。
(2)大正期になると、家業を継ぐのは少数となり、多くは外へ働きに出るようになった。産業化の進展に見合った労働力の形成という意味を含めて、(学校においては)理知的に学ぶための集団生活の規範が「しつけ」と考えられた。子どものしつけは家庭の責任と考えられるようになり、手に職を付けたり学問を学ばせる風潮が広まった。後に大正デモクラシーと呼ばれる教育熱も広まり、社会的規範に遵う振る舞いを「しつけ」と呼ぶようになった。
(3)戦後の高度成長期は、経済の変動に適応しようとする「しこう(嗜好・思考・志向)」が(子どもの)教育の主要テーマとなり、学校教育が重視された。学校での集団生活に適合する振る舞いや日常的生活習慣が「しつけ」とみなされ、それらも含めて平準化・均質化が進んだ。
(4)高度消費社会へ突入し、豊かな暮らしが広まるにつれ、価値観も多様化し、家庭観も学校観もさまざまになった。教育を巡る教師と親との齟齬確執が多くなり、問題や事件の報道も多くなった。学力主義的な価値観へ社会が斉一化されることへの反発が(子どもたちの身の裡で)内向し、非行や暴力、不登校となって暴発した。「学校崩壊」が取り沙汰されたのも、この時期である。
(5)上記の時代を経て「子どもへの共感的理解」が唱道され、「子どもの心の状態やその軌跡こそが理解されるべき」と主張されるようになった。これは現在もメインストリームとなり、それを不可能事であると言明することは学校現場でもどこでも口にできない。公理とみなされている。
(6)現役の教師時代に私はどう上記「生徒理解の公理」を取り扱っていたか。教師が生徒を理解することは限定的にしかできない。「子どもの心の状態やその軌跡こそが理解されるべき」というのは、机上の理念、実践的には不可能事である。だから逆に、学校という場に限定して教師を生徒に理解させるように努めた。そのとき、教師が生徒に対して「指導的に振る舞う」ことは、関係の絶対性において(学校というシステムにおいて)不可欠のことであり、にもかかわらず「生徒を理解することの不可能性」を抱えたとき、教師である自分を誤魔化さず、生徒の前に呈示することであった。もしそれが生徒との遣り取りに持ち込めれば、言葉を尽くしてその困難な壁を解くことを、共に考えたといえるかもしれない。
(7)フランスの「(学校への)児童の送り迎えは親の責任」という話が出る。アメリカの学校では授業担任の指示を聞かない生徒は校長室へ行かせて特別指導の対象となるというケースも話される。ごく最近、アメリカ・ミシガン州の高校で銃を乱射して多数の生徒を殺傷した少年の両親が禁固刑を受けたという報道が話される。これらの話題は、子どもを育てることと社会文化の深い関連を浮かび上がらせた。リョウイチさんは「学校というところは危険なところだと言葉にしていた」という。そう受け止めてみると、「しつけ」を学校教育に必要な振る舞い方の要件として考えるよりも、危ない学校というコミュニティで過ごすための身を護る方法を教えるって方へ、切り換える必要が出来する。みている角度を逆にすると、却ってわかりやすいかも知れない。
取り扱う時代によって「しつけ」ということが、変遷しているのではないかと私はまず考えた。(1)の時代に武家の習いであった「しつけ」とは、武家社会で生きていくための儀礼と作法など、いわば家業を受け継いでいくために大人が子どもに向けて行う意図的な振る舞い方の教育というほどのものであったろう。たいして農家は、村落共同体における振る舞い方としての子どものしつけは日々の暮らしそのものの中で子どもをそれなりに「つかう」ことで、子が自ら身に付けていくものと考えていたから、意図的に「しつけ」をしたワケではないと、この本の著者は考えている。だが、昔話とか、民話とか、言い伝えを物語りとして語り聞かせたりすることそのものが、村落共同体の規範を教えるものであったろうし、そこに生きるものとしてのアイデンティティの形成であったと思われる。
しつけは「しつけ」として(意図的に)取り出されることではなく、帰属する集団の暮らしそのものであった。逆に言うと、近代的産業社会の誕生は、資本の原始的蓄積と謂われる農村の解体によって、暮らしを、「家庭・家族内」と「世間・世の中・社会」とに分割するものであった。その結果、振る舞い方の基本形は「家庭・家族内」で行うものと考えられ「しつけ」として取り出される問題になった。
では、その「振る舞い方の基本形/しつけ」とは、何を意味したか。「世間・世の中・社会」に適用するに相応しい「振る舞い方の基本形」もまた、世の中の変遷につれて変わってゆくものではなかったろうか。
この本の著者は「しつけの衰退」と問うよりも、しつけはどう変わってきたかと問うべきではなかったかと思った。「しつけの衰退」と立論すると、何か不動の「しつけ」イメージが前提されているように感じる。すると、「しつけって日常的生活習慣」でしょうとありきたりの遣り取りになり、何ともつまらない「論題」となってしまう。だが、どう「しつけ」が変わってきたかというと、武家の習いを平民の家庭で行うようになったと考えればわかりやすい。
日常的な生活習慣というよりは、世の中の序列・秩序、我が身を置く位置、向き合う相手に応じた振る舞いの儀礼・作法、言葉の使い方、口の出し方、人としての嗜(たしな)みなど、人柄や性格として取り沙汰されるコトゴトを含めて、それまで無意識に暮らしの中で身に付け済ませていたものを、一つひとつ意識的に身に付けていかねばならなくなったといえよう。そういう視点で、「しつけの変容」を時代的に辿ってみれば、単に理知的な表現ではなく、人と人との関係の体温を感じさせるような「しつけ」が失われてきたことを見ることができたのではないかと思う。
切り口を代えるには、学校の教師という立場をさることが必要であったとワタシの場合はいえそうだ。