mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

コギトの根拠――生物はなぜ死ぬのか

2024-04-15 08:52:23 | 日記
 表題のようなタイトルの本『生物はなぜ死ぬのか』を見つけ手に取った。小林武彦著、講談社現代新書、2021年刊。著者は生物学者、生物の生と死を細胞の誕生から継承、進化とゲノム解析を通じてとらえたところを、読み物として書き落としている。門前の小僧にはもってこいの啓蒙書である。
 門前の小僧は、しかし、著者が丹念に辿る論脈(メカニズム)は記憶にとどめることができず、漠然とした印象と雰囲気で受け止め、理解したつもりで次の話題へと関心の傾きを移してしまいますから、ま、著者としては何とも読ませ甲斐のない、頼りない読者ですね。まず、ごめんなさい、だ。
 でも表題の「生物はなぜ死ぬのか」の要点はつかんだ(つもり)。生命体の新陳代謝だという。おっ、オモシロイ。新陳代謝というのは、死んだ古い細胞などを体内から排出して、謂わば循環が遂げられる。それが体内に残留すると、それ自体が病へとつながるという。ふんふん、老害ってヤツだなとヒトの世界に置き換えて得心している八十爺。
 私一個の死も、ヒトという動物の新陳代謝。ワタシという生き物が子や孫を残したかという狭い話ではない。ヒトという生き物が全体として、変化しながら進化し、環境に適応する選択をしたものが生き延びて、生命体を継承して現在に到っているという大きなスパンを視界に入れる。「生物学」というのは、生命体全体を視界に入れて世界をみるということを意味している。「いのち」と「わたし」を鳥瞰する気分を味わった。
 つまり、その世界観からみると、こうも言える。ヒトはハチやアリやネズミや、あるいはバクテリアや細菌と同じに居並び、どう進化してきたかと問えば、その一個一個の生命体の継承ばかりでなく、群れとしての、例えば女王ハチや女王アリの生殖だけに特化した生き方も働きハチや働きアリの社会的行動によって支えられていて、それも含めてハチやアリの生命体は継承されているとみてとれる。ヒトもそういうつかみで眺めると死の見方が変わってくる。
 なにがオモシロイか。この地上に生きとし生けるもの全体の中にヒトとワタシを位置づけて生き死にをみる。これは生き物としてのワタシの原点でもある。と同時に、進化(という変化を)してきた動態的変容を勘案すると、生命体の99.9%が死滅した生き残りがワタシだという奇跡のような存在だと(逆に)セカイ全体の位置をみてとれる。凄いぜ! ワタシってところだ。
 なぜ死ぬかと問うとき、なぜ生きているかという問いが裏に張り付いている。著者は二通りに分ける。捕食されて死ぬか飢餓・病で死ぬか。生きる目的的にみると、前者はアクシデント死を(自然と)する生き物。他の一つは老衰死、つまり寿命を全うして死んでいく生き物。
 前者は他の生き物に捕食されることを当然として生命を継承する。多産多死の進化を手に入れ、生き残った少数が種の継承を果たしていく。
 当然ヒトは後者に属する。飢餓・病だけでなく、戦争などによる事故死も含めて考えると、喰われるのではなくても捕食される死とどれほどの違いがあるかと、思わず考えてしまう。だが生物学的にはヒトは55歳くらいまでは(生命諸器官は衰えず)寿命があると著者はいう。
 経験的実感でそう言えるようになったのは、(これは著者ではなく私のそれで言うのだが)乳幼児の多くがきちんと育つようになった近代も、かなり後になってからである。二人姉妹だと思っていた母が、実は7人兄妹だったと知ったのは、私が大人になって後であった。病気や飢餓で育つことができず「七歳までは神の内」といわれてきたことを私は実感として感じたものです。
 「55歳まではほぼ死なない寿命をもつ」と生物学的に著者はいう。ということは今、平均寿命が81歳余、最多死亡数年齢が88歳という日本の男の寿命は、生物学的にも驚くほど例外的な長寿だということができる。それより4歳余も長生きする日本の女の寿命は、驚天動地のしぶとさだといわねばならない。
 では「なぜ死ぬのか」と問いを立てると、寿命であるといってしまえるのはなぜか。寿命って何だと、先ず思う。著者は進化するためには変化しなければならない。変化するためには遺伝子を通じて、身そのものが変わらなければならないと、生命体の種全体を見晴らすようにして進化を眺望する。つまり、生死のモンダイを、今ここのワタシ、つまり個体にとどめないスパンを引き入れる地点へ誘う。
 そう考えると、ヒトというのが社会的動物であると、まず実感する。ワタシは群れの中でどう生まれてきたのだろう。どう生きていくのだろう。どうヒトとしての新陳代謝に携わりながら死んでいくのかと、生命を紡いでいく在り様として、意味を考えることへつながる。進化ということも、「変化と選択」がDNAの継承を通して行われるスパンは、現代社会の早く手短に容易に因果を求めるのと逆に、寿命の長さを算入しなければならない。それは、ヒトの感性そのものが時代的な制約を得てきていることを避けられないと知らしめる。
 著者は生物学的な長大なスパンをベースにおきながらも、しかし、ワタシが抱く時代的な感性や思考や志向の傾きを組み込むべくか、人の死と生と「死ななければならない理由」とを取り出して、「ここからは私の考えですが」と断って、《子供のほうが親より「優秀」である理由》を解きほぐす。子どもの方が多様性に満ち、生き残る可能性が高い、と。《親は死んで子供が生き残った方が、種を維持する戦略として正しく、生物はそのように多様性重視のコンセプトで生き抜いてきたのです》と、結論的に述べている。
 でもなあ、これってわざわざ「私の考えですが」と断っていうようなことかね。専門家というのは何だかメンドクサイ作法をもってるのだなと受け止めた。
 余計なことがオモシロイと思った。
 その一、死なない生物がいるという。プラナリアというのは二つに分けると二匹になって生き続ける。小さく区切るとその数だけ個体数が増えていくというのだ。殺すには、踏み潰すしかないとこの著者は書いてある。へえ、オモシロイじゃありませんか。この世の有象無象のしぶとさを象徴するようで頼もしさを感じたりする。
 その二、産卵と共に死ぬ鮭、「ムレイワガネグモの母グモは生きているときには自分の内臓を吐き出して生まれたばかりの子グモに与え、それがなくなると自分の身体そのものを餌として与えます」という凄絶な生涯を送る生き物もいる。なんだか、後期高齢者としてボーッと生きているのが恥ずかしくなるような生き方ではないか。むろんヒトが子を産んでからも生きているのは、子を育てるというメンドクサイ養育期間が必要だから。手間暇が極限までかかるようにして、この地上の主のような顔をしていられるのですね、ヒトって。
 その三、同じ種のネズミは2~3年の寿命なのにハダカデバネズミは20年の寿命。というのは、地中で暮らすように特化して余計なストレスを排除する進化「選択」をしたからだそうだ。このハダカデバネズミのゲノム解析を通じて、長寿の研究もなされているらしい。もしそれをヒトに適用できるようになるとヒトは500歳くらいまで生きるようになると計算して弾き出している。理論上の想定としてもオモシロイ。どこかのアニメに500歳くらいの魔女の話があったっけか。トンデモばなしってワケじゃないんだと、これまたオモシロイと思う。
 この著者、死ぬことが生き続ける原動力とみている。と同時に今のご時世、AIがもたらすシンギュラリティを無視するわけにも行くまい。むろんそれにも触れ、こうまとめる。
《それではヒトがAIに頼りすぎずに人らしく試行錯誤を繰り返して楽しく生きて行くにはどうすればいいでしょうか?/その答えは、私たち自身にあると思います。つまり私たち「人」とはどういう存在なのでしょうか、ヒトが人である理由をしっかり理解することが、その解決策になるでしょう》
 う~ん、も一つ加えてほしいな。ヒトが人である根拠・理由は、あなた自身の身の裡にありますよ、と。我が身の不思議を照らし出して意識するようにしましょう。それこそが、ヒト。我思う(コギト)故に我あり。まさしくコギトです。