mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

お上のことは知らんよワシら

2024-04-28 10:00:50 | 日記
 今日(4/28)の新聞をみていて、四つの記事から一つのテーマが浮かび上がった。教育と統治ということ。読んだ順に上げると、こうなる。
 先ず一面の「折々のことば」。文化人類学者・松村圭一郎の言葉を引用する。
《コンセンサスによって意思決定をする社会では、採決は最悪の選択になる。》
 ふむ。その通りだ。どんな文脈で用いた言葉なのかな。
 引用した鷲田清一は、こうつけ加える。
《コミュニティにおける多数決での合意形成は、負けた側の「屈辱や憎しみ」を増幅し、当のコミュニティを破壊しかねない。……真っ先に求められるのは「多数決よりも高度な政治的技量」と「対立を煽らない思慮深さ」だと》。
 ふむふむ、これもその通りだ。松村がみている「合意形成」は、小さな規模の集団・コミュニティだろう。時間はたっぷりある「関係」のなかで、「合意をかたちづくる」というのは、どんなところでいつごろまで通用していたのだろうと、ふと、民俗学者・宮本常一「忘れられた日本人」の記述を思い起こす。
 民主主義社会というのは、モデルは「合意形成」をイメージしているのであろうが、リアルは「統治」である。「合意形成」を遠望しながら、「ハイ時間です」という現実の要請に応えて「意思決定」しなくてはならない。前者はという集団的意思集約という中味であり、後者はそのシステムを運用する手順形式である。「統治」ということばには、その両者を統合した意味合いが込められていたのであろうが、社会集団の規模が大きくなり、構成員の「利害」と「意思」が多様化すると、「ハイ時間です」という外部的な制限も加わって、後者の形式だけが優先することになる。
 デジタル化社会は、「ハイ時間です」を凄い速度でせっつくシステム要素だ。統治者はもちろん、もはや「合意形成」などと誰も思わず、声の大きい方が力になるという優勝劣敗の綱引きばかりが民主社会の舞台に残されているという状態なのかも知れない。文化人類学の知見は、現代社会では役に立たない考古人類学の書庫に収められてしまっていると言えるかも知れない。
    *
 もう一つの記事は8面、「社説欄」。「序破急」と題する準「社説」で、教育社説担当の増谷文生が、「学長にモノ言わせぬ国では」と書いている。
 国立大学が法人化されて20年になるというので全国の国立大の学長にアンケートを採ったところ、そこに記した「意見」について「匿名扱いにしてくれ」という学長が多く、中には、「コメントの活用を承諾してくれなかった」学長や、「別の有力大学の学長はコメントどころか、「学生教育」や「地域貢献・地域連携」の進み具合を尋ねる質問にどう答えたかも含め、37問の全回答について匿名を希望した」とあった。記事の趣旨は、国立大学の学長がアンケートに答えることにすら文科省の反発を気にして「モノ言わせぬ」様子をみてとっている。
 いやはや、「多様な時代の自由な意思表示」を一番に掲げなくてはならない大学の学長ですらが、すっかり「自由民主国家」の統治権力の影に脅えているの図である。文化人類学者が「合意形成」とことばにするのは、どこの国の話よって思ってしまう。日本の言論の自由って、同調圧力に抗して、個々人の自在な発想を重んじる時代に入っているのかと思っていたら、なんと、その最前線の国立大学においてすら、こんな状況なんだね。
 これって、いつぞやスガという名の宰相が、学術会議の委員の任用を拒否したとき、説明しないと居直った体質と同じだよね。政治家がそうだというだけじゃなく、政治家の陰に隠れたシンクタンク・官僚エリートの匿名性と同じで、依らしむべし知らしむべからずの、統治権力の質の問題ではある。
 けれども、ゲンロンの最高峰、最前線の大学ですらこうだということは、では日頃街で勝手にくっちゃべって言論表現の自由だって思ってるワタシらのゲンロンって、いったい何だ? 市井の民のお喋りは、ホントに屁のつっかえにもならない蝶の羽ばたきなのかね。
 つい、そう思ってしまう。
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 三つ目は23ページの教育面。《「不適切な授業」奈良教育大付属小の波紋》と見出しをつけて、国立大学附属の小学校で、文科省の指導を逸脱する教育を行っていることが報道されている。
 これは、私には驚きであった。国立大学の附属の学校は謂わば「実験授業」といって、どちらかというと「学習指導要領」を作成するベースになるデータを蓄積したり、検証したりする役目をもっていると思ってきた。つまり、「学習指導要領」を逸脱することを通して他の道を探る役割を持っていると考えていたから、それに対して文科省が「逸脱するな」と詰め寄っているとは思ってもいなかったのだ。
 小見出しを拾うと《「学習指導要領に沿わず」文科省、全国に点検通知/毛筆使わず・全校集会で道徳指導・・・》と逸脱指導のポイントをあげ、《文科省「特別な課程なら、透明性もって」研究者ら「教育の自由尊重を」「萎縮招く」》と、両論併記の報道をしている。国家百年の大計と謂われる「教育」の重箱の隅をつつくような、文科省の「指導」ではないか。これって、「おまえどちらが上位機関だと思ってるのか」と、力を振りかざして「お上の御威光」を見せつけてるって図柄じゃないか。
 つまんねえ役人たちだなと、先ず思う。ついで、こんなことに力を尽くしてなるんじゃあ、日本の教育も早晩腐っていくよなと、慨嘆する。これのどこに、「合意形成」とか「意思決定」というコミュニティの人びとの多様性を尊重し、それを集約していこうという基本動作が埋め込まれているのか。結局、手順手続き上の「選挙」という多数決しかないじゃないか。松村じゃないが、「最悪の選択」をしていて、恥じていない。
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 まあ、上記のように慨嘆して新聞を閉じようとしたら、一ページ全面をつかったコマーシャルが目に止まった。それが四つ目。科学雑誌Newtonと朝日新聞がコラボしたコマーシャルふうの記事、「地球大解剖」。「私たちの足元に広がる地球はこんなに謎だらけ」と小見出しをつけて読み手を誘う。面白そう。
 そうか、国家の統治とは別に、社会のというか、市井の庶民の知見は勝手に興味関心を紡いで広がり深まっているんだ。統治機関が旧習のままで腐っていっていても、市井の街の自在さが保たれていれば、それなりに文化は保持できるわな。ということは、文化人類学者・松村圭一郎の「最悪の選択」は、まだ統治機関止まりだから何とかなるか。
 お上のことは知らんよワシら。

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