今日は4月1日、エイプリルフール。月曜日というのが、コトの始まりに相応しく、何だかキリがいい。サクラも去年より12日も遅いとニュースになっているが、平年並みになって、新年度のスタートを言祝ぐ「自然(じねん)」の風情を感じられ、もう何にもスタートすることのない八十爺にもうれしい。
早朝に起きて、送られてくるメールマガジン(東洋経済オンライン)をチェックしていたら《大谷選手の記者会見が「成功」を収めた3つの理由》という記事があった。サブタイトルは《「自分の言葉」で話すことから生まれる真摯さ》。筆者は中川功一、「経営学者、やさしいビジネスラボ代表取締役」と肩書きもついている。
《率直なところ、大谷選手の記者会見をみて多くの方が「安堵した」のではないだろうか》
と書き始めているから、この方は大谷ファンなんだ。あるいは単なるナショナリストなのかも知れない。
サブタイトルにある「自分の言葉」に「真摯さ」を重ねて見ているところが、ふむふむ、肩書きの経営コンサルタントらしい響きをもっている。
だが子どもの頃、といっても中高生の頃から「自分の言葉で書きなさい」と、よく教師に言われて、「自分の言葉」って何だと、いつも疑問符がついていた私としては、無意識に同調してしまうことのできない引っかかりを感じている。何がモンダイなんだ?
「プレゼンの専門家」を自称するこの筆者は《経営学ではこれをオーセンティック(Authentic:自分らしく真摯であること)という》とカタカナと専門用語であることを強調して権威付けし、「大谷選手が、普段と変わらぬ調子で、自分の言葉を使って語ったこと」と噛み砕く。それをさらに《“オーセンティック”な語りがもつ力》として三つの要素を取り出している。
①素直な論理性がある。
②感情移入のしやすい、自然な情緒性がそこに生まれる。
③最大の強み、確証バイアス、聞きたいようにしか人の言葉を聞かないのに相応しい語り口。
①にあげる「素直な論理性」って何だ? 大谷の人柄が滲み出ているってこと? とすると、同義反復じゃないか? とワタシは素直じゃない疑念を浮かべている。
《私たちは大谷選手の語りによどみがなく、実に自然で、ストーリーに破綻がない様子を見て取った》
これは同義反復を示している。「よどみがなく、実に自然」というのは、聴き手の受信装置がもっている感知機能でそう受けとっている、実に自然な陳述である。それに、《嘘偽りがない》《入れ知恵を想起させるような難しい言葉や、何かを隠すようなあいまいな言葉が使われない》《誰もが追いやすい、素直な論理がそこに生まれてくる》と感じているのも、これまた受け取り手の感懐である。
オーセンティックという言葉の原義が「自分らしく真摯であること」と日本語に翻訳されるのと同じかどうか私にはワカラナイが、大谷ばかりでなく自民党の二階元幹事長の(次の選挙には出馬しないという記者会見の)語り口もオーセンティックとはいわないのかと、へそ曲がりに思っている。あれも「自分の言葉」だよ。あれが何かを隠し、最後に取材記者に「ばかやろう」と投げつけるのも、「自分の言葉」だね。あれは「真摯」なのかね。「嘘偽りがない」のかね。そこにも「感情移入のしやすい、自然な情緒性がそこに生まれる」のではないか。いや、生まれてないよと言うのなら、受け手の心中がそうは思っていないってことじゃないか。あるいは二階氏支持者なら、そうそうそうだよ、そんな質問を投げつけるヤツはバカヤローだと「感情移入しやすい」と、ワタシは感じている。つまり二階氏の発言もまたオーセンティックである。
自分が内心で思い期待していた言葉がこぼれるように自然に出て来るのをオーセンティックと呼ぶなら、たとえば銃撃に倒れた故安倍首相もまた、語り口はオーセンティックであったと私は思う。もっと前の元首相・小泉純一郎もそうであった。それがウケて高い支持率を得ていたのだと理解している。でもあれを「真摯であった」とは思わない。「素直な論理」とも「自然な」語り口とも思わない。
何故そんなことにこだわっているのか。
一つは先に述べたように、受け手の無意識がそう好感しているに過ぎないという事実を指摘したいということ。もう一つは、送り手がオーセンティックに語るとき、その土台にある人柄が滲み出ていて、それを「素直」とか「自然に」とか「真摯」と受けとるのは、送り手と受け手の相関的な感知装置の作用だと、これまた事実として指摘したいということである。
言葉を換えていうと、「自然に」「素直な」「真摯さ」は受け取り手の「しこう(嗜好・思考・志向)」と同調・同期しているということである。大谷がそうであることを好ましいと思っているワタシの受信装置が、あの会見のオーセンティックな語り口を好ましいと思ったのであるが、そう受け止めていることを意識しているかどうかによって、この後の展開がどう変わるかにも、影響してくる。
どういうことか。
大谷の記者会見を好ましく受け止めたのは、大谷ファンばかりではない。日本人ナショナリストも、ああいう素直な子に育ってくれるといいなあと願っている親たちにも、たぶん、国境を越えて似たような感触をもってみていると私は思う。
でもそれと同時に、もっとその奥に、メディアに登場するスーパーマン的な、ヒーローである、明るく素直で、金銭に煩わされず、恵まれたチームメイトに囲まれて生きている大谷翔平という偉大な実存在が、たぶんワタシの無意識に作用して、そう感じてもいると私はみている。つまりもし大谷のMLBでの成績が低落し、おおよそ平凡な成績しか上げられなくなったら、(今度の事件がきっかけとなって)たちまち彼を引きずり下ろしてバッシングする波風が起こるだろうと思う。それくらい危うい綱渡りを、大谷もその情報を手に入れる私たちも、共にしている。そういう危うい世界に、今私たちは身を置いていると思ったのでした。
早朝に起きて、送られてくるメールマガジン(東洋経済オンライン)をチェックしていたら《大谷選手の記者会見が「成功」を収めた3つの理由》という記事があった。サブタイトルは《「自分の言葉」で話すことから生まれる真摯さ》。筆者は中川功一、「経営学者、やさしいビジネスラボ代表取締役」と肩書きもついている。
《率直なところ、大谷選手の記者会見をみて多くの方が「安堵した」のではないだろうか》
と書き始めているから、この方は大谷ファンなんだ。あるいは単なるナショナリストなのかも知れない。
サブタイトルにある「自分の言葉」に「真摯さ」を重ねて見ているところが、ふむふむ、肩書きの経営コンサルタントらしい響きをもっている。
だが子どもの頃、といっても中高生の頃から「自分の言葉で書きなさい」と、よく教師に言われて、「自分の言葉」って何だと、いつも疑問符がついていた私としては、無意識に同調してしまうことのできない引っかかりを感じている。何がモンダイなんだ?
「プレゼンの専門家」を自称するこの筆者は《経営学ではこれをオーセンティック(Authentic:自分らしく真摯であること)という》とカタカナと専門用語であることを強調して権威付けし、「大谷選手が、普段と変わらぬ調子で、自分の言葉を使って語ったこと」と噛み砕く。それをさらに《“オーセンティック”な語りがもつ力》として三つの要素を取り出している。
①素直な論理性がある。
②感情移入のしやすい、自然な情緒性がそこに生まれる。
③最大の強み、確証バイアス、聞きたいようにしか人の言葉を聞かないのに相応しい語り口。
①にあげる「素直な論理性」って何だ? 大谷の人柄が滲み出ているってこと? とすると、同義反復じゃないか? とワタシは素直じゃない疑念を浮かべている。
《私たちは大谷選手の語りによどみがなく、実に自然で、ストーリーに破綻がない様子を見て取った》
これは同義反復を示している。「よどみがなく、実に自然」というのは、聴き手の受信装置がもっている感知機能でそう受けとっている、実に自然な陳述である。それに、《嘘偽りがない》《入れ知恵を想起させるような難しい言葉や、何かを隠すようなあいまいな言葉が使われない》《誰もが追いやすい、素直な論理がそこに生まれてくる》と感じているのも、これまた受け取り手の感懐である。
オーセンティックという言葉の原義が「自分らしく真摯であること」と日本語に翻訳されるのと同じかどうか私にはワカラナイが、大谷ばかりでなく自民党の二階元幹事長の(次の選挙には出馬しないという記者会見の)語り口もオーセンティックとはいわないのかと、へそ曲がりに思っている。あれも「自分の言葉」だよ。あれが何かを隠し、最後に取材記者に「ばかやろう」と投げつけるのも、「自分の言葉」だね。あれは「真摯」なのかね。「嘘偽りがない」のかね。そこにも「感情移入のしやすい、自然な情緒性がそこに生まれる」のではないか。いや、生まれてないよと言うのなら、受け手の心中がそうは思っていないってことじゃないか。あるいは二階氏支持者なら、そうそうそうだよ、そんな質問を投げつけるヤツはバカヤローだと「感情移入しやすい」と、ワタシは感じている。つまり二階氏の発言もまたオーセンティックである。
自分が内心で思い期待していた言葉がこぼれるように自然に出て来るのをオーセンティックと呼ぶなら、たとえば銃撃に倒れた故安倍首相もまた、語り口はオーセンティックであったと私は思う。もっと前の元首相・小泉純一郎もそうであった。それがウケて高い支持率を得ていたのだと理解している。でもあれを「真摯であった」とは思わない。「素直な論理」とも「自然な」語り口とも思わない。
何故そんなことにこだわっているのか。
一つは先に述べたように、受け手の無意識がそう好感しているに過ぎないという事実を指摘したいということ。もう一つは、送り手がオーセンティックに語るとき、その土台にある人柄が滲み出ていて、それを「素直」とか「自然に」とか「真摯」と受けとるのは、送り手と受け手の相関的な感知装置の作用だと、これまた事実として指摘したいということである。
言葉を換えていうと、「自然に」「素直な」「真摯さ」は受け取り手の「しこう(嗜好・思考・志向)」と同調・同期しているということである。大谷がそうであることを好ましいと思っているワタシの受信装置が、あの会見のオーセンティックな語り口を好ましいと思ったのであるが、そう受け止めていることを意識しているかどうかによって、この後の展開がどう変わるかにも、影響してくる。
どういうことか。
大谷の記者会見を好ましく受け止めたのは、大谷ファンばかりではない。日本人ナショナリストも、ああいう素直な子に育ってくれるといいなあと願っている親たちにも、たぶん、国境を越えて似たような感触をもってみていると私は思う。
でもそれと同時に、もっとその奥に、メディアに登場するスーパーマン的な、ヒーローである、明るく素直で、金銭に煩わされず、恵まれたチームメイトに囲まれて生きている大谷翔平という偉大な実存在が、たぶんワタシの無意識に作用して、そう感じてもいると私はみている。つまりもし大谷のMLBでの成績が低落し、おおよそ平凡な成績しか上げられなくなったら、(今度の事件がきっかけとなって)たちまち彼を引きずり下ろしてバッシングする波風が起こるだろうと思う。それくらい危うい綱渡りを、大谷もその情報を手に入れる私たちも、共にしている。そういう危うい世界に、今私たちは身を置いていると思ったのでした。