吉田修一『橋を渡る』(文藝春秋、2016年)を読む。
何だこれは・・・と思いつつ読み進める。日常が描かれているだけなのに、何となく不穏な気配を感じる。どこが? どうして? と思いつつ、ま、いずれわかると思って読みすすむ。春夏秋冬の四部構成。一つ季節が進行するごとに、飛び越えるハードルが高くなる。
平々凡々たる日常に、飽き足りないのか。不満というわけではないのに、どこか落ち着かない心持ち。それがポッと芽生える。日常性からはみ出す。飛び出すというほど飛躍はしない。いつでも元に戻れるようにほんの半歩、体重を移すだけ。浮気って、その程度の振る舞い。
それなのに、非日常な瞬間に身を浸すと、それをなかったことにして引き返すのは、そう簡単ではない。いや互いにそう思っていたことが、いつしかどちらかの心が変わり、かたちを変え、浮気は不倫になる。どこかでそれが重く心に伸し掛かる。作者がそう仕掛けているに違いないのだが、ひょっとするとワタシの身の裡の何かがそう反応しているのかも知れない。
この、伸し掛かっているのは何だろう。不誠実か。規範の然からしむる振る舞いに対する不誠実か。ってことは、自分に対する不誠実じゃないか。それだけで十分、逸脱してしまった罪障感が、心に残る。日頃我が身の一つのように感じていた人との関係を、ほんのちょっとした言動で傷つけたという「事実」が、我が身のなかで屹立して重い。桎梏となる。どちらが? 日常が? 非日常が?
徐々に踏み越えるグレードが上がる。橋を渡って向こうへ超える。不倫が、駆け落ちになる。二人が姿を消す。だが近隣の知り合いは、二人が・・・とはわからない。知っているのは・・・、知る人ぞ知る、だ。
さらに季節が進むと、結婚式を控えた二人の齟齬が浮き出してくる。相方の心移りが、理知的判断を踏み越えて狂気に見える。対するワタシも狂気に陥って、橋を渡る瞬間に「正義」が浮き上がる。命を奪う事件へと橋を渡る。追われる。逃げる。だが現代の情報化社会のシステムに捕捉されて捕まる。さあ、そこから何処へ飛ぶか。何処へ橋が架かっているか。
思わぬところ、70年の年月を飛び越えて飛ぶ。交通手段も社会システムも厳密に管理的に統治されている。ヒトの認証は即座に捕捉される。それだけではない。この70年の径庭が、果たしてヒトに住みやすさを提供しているかどうかと問いもする。それがわからない。生物学的な科学の進展が、世の人の序列を分ける。ああ、これはカズオ・イシグロの「私を離さないで」だと思いつつ、読む。そこから逃げる。橋を渡れるかどうか。思わぬかたちで、四季がつながってくる。
ああ、これは、人類史の自縄自縛の桎梏と自由への渇仰の物語りだと受けとった。そう受け止めて、腑に落とすと、胃の腑に溜まる重い苦汁が少し軽くなる。そうか、抽象化すると身に感ずる気分は軽量化されるのか。どこかで、他人事に転化しているのかも知れない。科学だ、普遍だ、客観化だというのは、コギト(我思う)を我れ感ずるから引き剥がして、身を軽くする生き物であるヒトが身に付けた知恵なのかも知れないと、20世紀までの地動説時代の人類史的な理念のクセを振り返っている。
何だこれは・・・と思いつつ読み進める。日常が描かれているだけなのに、何となく不穏な気配を感じる。どこが? どうして? と思いつつ、ま、いずれわかると思って読みすすむ。春夏秋冬の四部構成。一つ季節が進行するごとに、飛び越えるハードルが高くなる。
平々凡々たる日常に、飽き足りないのか。不満というわけではないのに、どこか落ち着かない心持ち。それがポッと芽生える。日常性からはみ出す。飛び出すというほど飛躍はしない。いつでも元に戻れるようにほんの半歩、体重を移すだけ。浮気って、その程度の振る舞い。
それなのに、非日常な瞬間に身を浸すと、それをなかったことにして引き返すのは、そう簡単ではない。いや互いにそう思っていたことが、いつしかどちらかの心が変わり、かたちを変え、浮気は不倫になる。どこかでそれが重く心に伸し掛かる。作者がそう仕掛けているに違いないのだが、ひょっとするとワタシの身の裡の何かがそう反応しているのかも知れない。
この、伸し掛かっているのは何だろう。不誠実か。規範の然からしむる振る舞いに対する不誠実か。ってことは、自分に対する不誠実じゃないか。それだけで十分、逸脱してしまった罪障感が、心に残る。日頃我が身の一つのように感じていた人との関係を、ほんのちょっとした言動で傷つけたという「事実」が、我が身のなかで屹立して重い。桎梏となる。どちらが? 日常が? 非日常が?
徐々に踏み越えるグレードが上がる。橋を渡って向こうへ超える。不倫が、駆け落ちになる。二人が姿を消す。だが近隣の知り合いは、二人が・・・とはわからない。知っているのは・・・、知る人ぞ知る、だ。
さらに季節が進むと、結婚式を控えた二人の齟齬が浮き出してくる。相方の心移りが、理知的判断を踏み越えて狂気に見える。対するワタシも狂気に陥って、橋を渡る瞬間に「正義」が浮き上がる。命を奪う事件へと橋を渡る。追われる。逃げる。だが現代の情報化社会のシステムに捕捉されて捕まる。さあ、そこから何処へ飛ぶか。何処へ橋が架かっているか。
思わぬところ、70年の年月を飛び越えて飛ぶ。交通手段も社会システムも厳密に管理的に統治されている。ヒトの認証は即座に捕捉される。それだけではない。この70年の径庭が、果たしてヒトに住みやすさを提供しているかどうかと問いもする。それがわからない。生物学的な科学の進展が、世の人の序列を分ける。ああ、これはカズオ・イシグロの「私を離さないで」だと思いつつ、読む。そこから逃げる。橋を渡れるかどうか。思わぬかたちで、四季がつながってくる。
ああ、これは、人類史の自縄自縛の桎梏と自由への渇仰の物語りだと受けとった。そう受け止めて、腑に落とすと、胃の腑に溜まる重い苦汁が少し軽くなる。そうか、抽象化すると身に感ずる気分は軽量化されるのか。どこかで、他人事に転化しているのかも知れない。科学だ、普遍だ、客観化だというのは、コギト(我思う)を我れ感ずるから引き剥がして、身を軽くする生き物であるヒトが身に付けた知恵なのかも知れないと、20世紀までの地動説時代の人類史的な理念のクセを振り返っている。