mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

人動説の起源

2024-04-24 09:13:02 | 日記
 ラファからイスラエル軍が撤退したあと、200人近い人が埋められていることがわかり、掘り返してきちんと埋葬する作業が続いているという。イスラエルは知らん顔をしている。でもね、かつてのホロコーストもかくあらんということを平気で行っているイスラエルは、こうなるともう、その(歴史的被害の)特権的位置を世界世論のなかで得ることはできない。なんだ彼らも、かつてのナチス同様、他の民族は人ではないとみているのだ、と。
 そうやって今起きているいろいろな事象を並べてみると、プーチンのロシアも、トランプのアメリカも似たようなエゴセントリックな(自己中心的な)振る舞いをしている。ヨーロッパなどでも右派政党が力を持ってきている。しかもそれが、その国民国家のそれなりに多数の支持を得ているところをみると、もはやヨーロッパやアメリカ民主党が背負っているような理念は、通用しなくなったと言える。いや、トランプ現象が一般化してきたのは、かつての欧米理念が建前的な上着に過ぎず、その衣の下に資本家社会的な市場の論理の暗黒さを覆い隠し、社会的な公平や公正を操作する偽善でしかないと人びとが感知し始めたからでもあった。
 それを私は、「人動説の時代」と名付けた。
 天動説の時代には、ヒトはカミの声を聴きつつ、振る舞いを探った。大自然の恵と脅威を「理解する」には、そのような物語で自らを位置づけ、大いなる自然、大いなる神の意に遵うことで己の存在を安定的に落ち着けようとしたのであった。それは自然の節理に遵うしかない動物としての(ひ弱な)ヒトの想念の生み出したせめてもの世界観であった。
 それが地動説の時代へと変転した。その原動力がまた、ヒトの想念の発展的延長上にあったことは、私たち現代人が学校教育などを通じて学んできたことで明らかである。経済的な発展がもたらした「せかい」への好奇心と冒険心、地球と宇宙への探究心とその観察を可能にした科学技術的な発展が、ルネサンスを呼び起こし、地理的な発見というヨーロッパの世界発見をもたらし、産業革命という社会の大きな展開へとつながっていった。
 カミはどこへ行ったか。大自然がとって代わった。デカルトのコギト(我思う)が起点を築き、ヒトの思念はカミの下を去った。人の外部に存在する大自然という認識が、人を超える存在として意識され、その節理に遵ってヒトの暮らしを構築していくことがへと踏み出した。物理、化学、生物などの理化学的な「法則」を解明し、それを産業化して暮らしに活かすことへ力が注がれ、ヘーゲルはその発展が真理へ到る歴史的な発展だと、ヒトの在り様を動態的に位置づけることさえした。
 では、いつ、どうして、それが「人動説」に代わったのか。つい最近読んだ本で教えられた。大澤真幸『この世界の問い方』(朝日新聞出版、2022年)。COVID-19のパンデミックが地球を襲い、ロシアのウクライナ侵攻が始まって後に出版されたこの本は、この著者がずうっと問い続けてきた現代の「正義」が、誰にとって何処にいて誰がみている「正当性/正統性」かをひとつの論題にしている。その中で大澤は、冷戦の終結後に表されたフランシス・フクヤマの「歴史の終り」論とサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」論を取り上げ、プーチンやトランプの登場を、ある種の必然とみなしている。これは、ちょうど私が「人動説」と呼んでいることと同じ事象を指しているとみえ、その論理が当を得ていると思えたのである。
 大澤は、こう展開する。
 フランシス・フクヤマは冷戦の終結を「歴史の終わり」と呼んだが、それはヘーゲルのいう真理に向かって歩んでいた「歴史」が、もっとも理知的な社会・政治形態、リベラル・デモクラシーへの到達とみた。もしそれをそのまま敷衍すれば、世界は緩やかにリベラル・デモクラシーの実現へと歩むと考え「歴史の終わり」と読んだのであろう。ところがフランシス・フクヤマの著述の一年ほどのちにサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」論が著された。これは冷戦の終結後の世界は、フクヤマの提起と異なり、七大文明が衝突する時代の幕開けだというものであった。
 この対立する(かに見える)二つの論を、大澤は両立する二つの側面として取り上げた。冷戦は、いわば理知的「正義」を巡っての人類史的理念の争いであった。それが終結したとき、まさしく「歴史は終わった」。が、それに代わって資本家社会的市場経済と国民国家というモメントが残った。
 前者は国民国家においてもリベラル・デモクラシーと相性が良く、いずれ後者の実現として世界を蔽うとフクヤマは期待した。だが事実の展開はそうはならず、中国のような権威主義的統治体制が前者を引き受けてリベラル・デモクラシーの最大国家・アメリカに拮抗するほどに経済的な大国へと成長し、覇権を争うようになった。資本家社会的市場経済の原理が、じつは経済的に発展した先進国と、収奪される立場を抜け出すことができずグローバルサウスとして捨て置かれる後進途上国との関係がますます格差を拡大しながら放置され続けるシステムとして機能している。それを補正する理念は、消えてしまった。
 もはや、資本主義とリベラル・デモクラシーの相性という物語りも崩れ、人類史的正義性を担保する理念はなくなってしまった。ここに到ってヒトは、ヒトそれぞれの置かれた共同性をベースにした「正当性/正統性」しか主張する土台はなくなった。せいぜいナショナルな枠を超えるものとしては(天動説時代に蓄積した)宗教的な傾きか、(地動説時代に蓄積した)自然の摂理に原理を求めるエコロジカルしかない。他はことごとくナショナルな利害、あるいはもっと卑近な日々の暮らしの都合に合わせて「好都合/不都合」を主張するほかに、「正義」を語る言葉を失ったというものである。
 そう、人動説の起源は1989年の冷戦の終結にあり、それぞれの地域の、それぞれのナショナルな利害以外に資本家社会的に語るしかない言葉を失ってしまった世界だとすると、トランプの振る舞いも、プーチンの乱暴も、イスラエルの暴虐も腑に落ちる。もちろん腑に落ちるからといって、それらが正当化されると考えているワケではない。まだかすかに、かつて語られた人類史的理念が、現実関係の醜悪を蔽う上着だといっている間は、現実関係を覆い隠しているという罪障感を感じている。理念は偽善だというとき、善悪の価値判断をしているからこそ、「偽」善という言葉を用いている。その判断が生きているからには、まだ、言葉にならない、なにがしかの「正義」のイメージを抱いている。それが、希望といえばかすかに残る希望である。
 地動説時代のヒトの政治哲学・リベラル・デモクラシーがもはや通用しなくなった。人動説時代の「正当性/正統性」を争うなかで、ハテ、如何なる理念を紡ぐことができるか。たぶん理念を紡いでという(言葉を用いるだけの)次元ではどうにもならないような感触をもっている。暮らしを共にする、社会を共に作って行く、手間暇掛けてでも、自分たちの自律的な作業を共同で進めることを通じて、ヒトとしての生きている確かさを身を通した手応えを交わしながらつくりあげてゆく。小さな共同体の単位でしかそういうことをイメージできないが、ここまで生きてきた八十爺の体験的な感触を言葉にするしかないが、そう思う。