北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
(C)ナナマガラー All Rights Reserved.

函館ハリストス正教会~ガンガン寺とニコライと~

2024-05-26 16:20:10 | 函館

先週体調不良のために辞退した、「王道コース」のガイドトライアル(実地試験)は、今度の土曜日(6月1日)にしていただきました。

今回こうして纏めている記事だけでなく、過去にアップした記事も、自分のオリジナルテキストにできると考え、活用していきたいと思っています。

ということで、第7チェックポイントはこちら。

「アメリカ横断ウルトラクイズ」なら、アメリカ本土に上陸し、残る人数も10名を切るか切らないかぐらいまで進んでいるところですかね。

 

 

今回は、「元町教会群」の中でも有名なスポットである「函館ハリストス正教会」。

「ガンガン寺」という通称がありますが、その意味も含めて紹介していこうと思います。

 

(16年前に初めて訪問したときの記事)

 

ガンガン寺の神秘 - 北の風に吹かれて~独り漫遊記~

今日も函館は暑いです。気温は28℃まで上がったけど、カラッとした暑さではなく、相変わらずのジメジメ陽気。まあでも、久しぶりに青空が見られたからよしとしますか。とい...

goo blog

 

 

「ハリストス」とは、ギリシャ語で「キリスト」を意味する言葉です。

今回紹介するロシア正教会は、西暦395年、東西ローマ帝国が分断されたとき、東ローマからギリシャを経てロシアへと伝わりました。

 

 

 

 

こちらの正門をご覧ください。

コンクリートの色に対して、妙に存在感を放っている赤い色が特徴的です。

実はロシアでは、赤は美しい色とされており、モスクワにある有名な「赤の広場」というのは、「美しい広場」という意味があるそうなのです。

 

 

正門を通った先にある階段。

何となく茶色に見える気もしますが、これも実は、正門と同様、赤として整備されています。

ロシアで「美しい」とされている色で、道内外、ひいては国内外から来る観光客をお出迎えしているということなのでしょうね。

 

 

箱館とロシア正教会との関わりは、1858年に来日した初代ロシア領事「ゴシケヴィッチ」が、西部地区の「実行寺」というお寺に仮領事館を開設し、翌年小さな司祭堂が付設されたことに始まります。

そのまた翌年の1860年、現在の場所に領事館付属聖堂が建立されました。その建物は明治40年(1907年)の大火で焼失してしまいましたが、大正5年(1916年)、レンガの上にモルタルを塗り、火災に強いとされる漆喰の壁に仕上げられた現在の聖堂が再建されています。

 

 

 

二つ上の写真だと向かって右側の方、一つ上の写真だと向かって左側の方の屋根の上に、小さな丸みがかった、玉葱のような形の物が付いているのがお分かりいただけるでしょうか。

これは「クーポラ」と言って、中央に陣取るのがキリストで、中央を支えるように両サイドに建っている計4個が、福音書記者を意味しています。

 

 

 

 

 

そして、「函館ハリストス正教会」といえば、こちらの大きな鐘。

現在は6個設置されていますが、これは実は5代目です。

初代は最初に聖堂が作られたときに一緒に5個が設置され、これを楽器のように鳴らしていたことが、「ガンガン寺」という別名の由来にもなっていますが、その初代の鐘は、先程触れた明治40年(1907年)の大火で、聖堂と共に焼失してしまいました。

2代目は、箱根にある「塔ノ沢」の聖堂から大鐘1個を移設してきましたが、東京にある「復活大聖堂」、通称「ニコライ堂」の鐘楼が、大正12年(1923年)の関東大震災で崩壊してしまったことから、その復興のために東京へと運ばれていきました。

3代目は現在と同じ6個の鐘でしたが、第二次世界大戦中の金属供出により、他の寺院の鐘と共に失われてしまいました。

戦後しばらくの間は鐘がない状態が続きましたが、昭和43年(1968年)、函館どっくに造船を依頼していたギリシャ人船主が、鐘がないことを不憫に思い、新しい鐘を寄贈してくれることになりました。

しかし、運悪く函館までの運送中にヒビが入ってしまい、鳴らすことができませんでした。なので、四代目と言ってよいか疑問もあるかもしれませんが、公式に「四代目」とされているそうなので、こちらでもそう表記します。

その四代目は現在、函館の隣の北斗市にある「上磯ハリストス正教会」に設置されています。

そして現在の五代目は、この教会が国の重要文化財に指定された昭和58年(1983年)に設置されていますが、それまでは、スピーカーで鐘の音を響かせていたそうです。

ガンガンと鳴り響く神秘的な音は、函館と西洋文明との出会いを象徴し、幕末から明治維新にかけての文明開化の息吹を伝えるものとして、「日本の音百選」に選定されています。

 

 

函館におけるロシア正教会の浸透において欠かせないのが、1861年に来日したニコライ司祭。

初代司祭が病気のため帰国してしまったことから、当時の領事は、本国に対し、頭と人柄がよい人物の派遣を要請し、やって来たのがニコライでした。

箱館にやって来たニコライは、ロシア正教を布教するにあたり、地元の人たちと交流を深めるべく、日本語や日本の文化を積極的に学ぶよう努め、その熱心さは、倒産した古本屋を丸ごと購入したというエピソードからも窺えます。

箱館から海外へ密航したことで知られる同志社大学の創立者・新島襄からも日本語を学んだそうですが、このときニコライが提示した日本語講師の条件は、「古事記を朗読し、解説してくれる人」だったとされています。

当時の日本はまだキリスト教が禁教とされていた時代でしたが、かの坂本龍馬のまたいとこである「澤部琢磨」という人物が洗礼を受け、1868年に信者となりました。

澤部は当時、「神明社」という神社の神主をしていて、神道からロシア正教への改宗という経歴を経て、ついに明治8年(1875年)には、日本人初のロシア正教会の司祭となりました。

 

 

敷地内にある「信徒会館」の丸窓に掲げられているもの、これは十字架ですが、よく見かけるものと形が異なっているのがお分かりいただけると思います。

そう、一番下が、まっすぐではなく斜めになっています。

聖書には、キリストが十字架にかけられた際、両隣の十字架に盗賊がかけられたと記されており、その右側、上の写真だと向かって左側にかけられた盗賊は、キリストの説諭により最後は悔い改め、天国へ召されたとのことですが、キリストの左側、上の写真で向かって右側にかけられた盗賊は、最後まで悔い改めなかったことから、地獄へ落とされたとされています。

そのような話の象徴として、キリストから見て右側が上り、左側が下がっているというのが、ロシアにおける十字架の特徴となっており、ロシア正教会の信徒たちは、この十字架を見る度に、魂の救いのために悔い改めることがいかに大切かということを思い起こしているそうです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする