函館西部地区「王道コース」の第2チェックポイントは、こちらの坂道です。
「二十間坂」という名前の坂。
名前は、その名のとおり、道幅が20間=約36メートル(1間は約1.8m)あることに由来していますが、このチェックポイントで押さえておきたいのは、何ゆえそれほどまでに広い道路が整備されたのかということです。
いつもなら最後に地図を載せるところですが、今日はあえてここで載せることにします。
この地図を見て何となくおわかりいただけるかと思いますが、この辺りの街区は、札幌や京都のような「碁盤の目」まではいかないにせよ、まあまあ整然と区画されているように思います。
しかし、このような区画整理が行われるようになった背景には、函館にとって負の歴史と言える、悲しく辛い出来事がありました。
それは何かと言うと、「大火」、火事でした。
明治初期、函館では、100戸以上の建物が焼失した火事が、実に26回も発生していました。
何ゆえかというと、例えば札幌との比較で言うと、開拓使によって切り拓かれた中心部は、まず整然とした街区が整備され、それに沿う形で建物が建つという、ごくごく当たり前の過程で発展を遂げていたのに対し、ここ函館では、あちらこちらから西部地区に移住してきた人たちが、無秩序と言ってもよいくらい、バラバラの場所に家を建て、その後から道路が施工されるという過程を経ていました。
そのような状態ゆえ、道路といっても、作られたのは狭い曲線道路ばかりで、建っている建物も、粗末な木造住宅ばかり。加えて函館は、現在もそうですが、とても強い浜風が吹く土地柄であることから、一旦どこかで火事が発生してしまうと、たちまち広範囲に燃え広がってしまい、結果として、ほんの10年足らずで26回もの大火が発生してしまっていたということでした。
そこで、当時の防火対策として考えられたのが、道路の幅を広げることでした。
道路の幅が広ければ、手前まで火が燃え広がってきても、それが反対側まで及ぶというリスクはぐっと少なくなるとの考えのもと、大火の度に少しずつ道幅を広げて行って、明治12年(1879年)に発生した、市内で実に2,300戸もの建物が焼失した大火の後、この道も、現在の幅、20間として整備されました。
その結果、それ以降は、この広い道路が防火線としての役割を十分に果たすこととなり、昭和9年(1934年)に発生した、実に23,000戸もの建物が焼失した大火のときには、上の写真の奥側の住宅の方まで火が燃え広がって来たものの、
反対側のこの写真の方向には燃え広がることはありませんでした。
そういう歴史を経て、今では、観光客が多く訪れる、函館を象徴する坂道の一つになっているということが、このチェックポイントで押さえておきたいことでした。
皆様も、函館観光でこの坂を訪れる際には、そうした歴史を経て現在があるということに思いを馳せながら、この雄大な景色を御覧になっていただければと思います。
西部地区の坂道には、このように、坂道の由来が書かれた解説板が備え付けられています。
ということで、第2チェックポイントも無事に通過。ここで惜しくも敗れてしまった敗者への罰ゲームは、そうですね、この坂を転がり落ちるとか。
実際の「アメリカ横断ウルトラクイズ」だったら、何だかそれもありではと思ってしまいます。