今日の買い物の成果(釧路市内の「AEON ザ・ビッグ」にて。)。
18時過ぎということで、半額とか20%引きになっているものも含めて買い物かごに突っ込んでいったところ、狙ってもなかなか出せないような数字になりました。
累計ポイントは・・・32か。もう少し貯めてから使うとします。
今日の買い物の成果(釧路市内の「AEON ザ・ビッグ」にて。)。
18時過ぎということで、半額とか20%引きになっているものも含めて買い物かごに突っ込んでいったところ、狙ってもなかなか出せないような数字になりました。
累計ポイントは・・・32か。もう少し貯めてから使うとします。
先日の日曜日、プライベートでは実に「21年ぶり」に、根室へ行ってきました。
根室は、前回住んでいたときも、そして今回も、仕事では何度となく行っていながら、プライベートでは何故か足が向いていませんでした。
プライベートでは、札幌に住んでいた平成10年(1998年)のGWに、特急と普通列車を乗り継いで行ったとき以来になります。
具体的にどこへ行ったかというと、まず最初に目指したのは、日本の最東端である「納沙布岬」。
ここは、北見に住んでいた幼稚園の頃、家族で来たときに写真を撮ったことがあります。
当時、根室に従姉が住んでいたので、何度か遊びに来たのを覚えています。
岬の突端部分から見た海。
北方領土の島も、何となくだけど見えています。
岬周辺には、このように、北方領土の返還に向けた強いメッセージを訴えるものが幾つか設置されています。
根室から見た北方領土の島の位置関係が、このように分かるようになっています。
見えます・・・よね。
こんなに近くに見えるのだなあということを、あらためて実感させられます。
これもまた、返還に向けたメッセージを、音色として奏でるための鐘でしょうかね。
おお、「きぼうの鐘」ですか。いい名前ですね。
正に「ひびけ希望の鐘よ」といったところでしょうか(※←「きぼう」を漢字にしていることも含め、例によって、分かる方だけ分かってください。)
これはまた大きなアーチですね。
いったい何でしょう?
これは、北方領土の返還を祈念するためのシンボル像として設置された「四島(しま)のかけ橋」というものです。
昭和56年(1981年)に竣工し、現在に至るまで、強い存在感で、四島の返還を願う象徴であり続けています。
アーチの下では、このような「祈りの火」が赤々と燃えています。
これは・・・何かな?
「クナシリ・メナシの戦い」。聞いたことがあったけど、詳細は知りませんでした。
アイヌ民族と和人との対立による戦いというと、道南地方では「コシャマインの乱」などが有名ですが、道東地方にはこのような悲しい出来事もあったんですね。
※ 「ひびけ希望の鐘よ」とは、「電子戦隊デンジマン」最終回(昭和56年(1981年)1月31日放送)のサブタイトル。
釧路もこの間の日曜日に真夏日を記録したけれど、予報を見ていると、恐らく今週中にもう一日くらい、真夏日があるのではないかと思われる。
先週までは、Yシャツは長袖で、スーツの上も着用して出勤していたのが、昨日と今日は、半袖にスーツの上着なし。夜寝る時も、先週まではタオルケットの上に掛布団をかけていたのが、今週はタオルケット一枚ですからね。
夏はこれが当たり前なんだろうけど、釧路みたいに夏らしい期間が他と比べて極端に短い地域に住んでいると、なんだか感覚が麻痺してしまいそう。
今年の夏休みは来月15日(木)から一週間の予定だけど、終わって戻ってきたら、釧路はきっともう涼しくなっているのではないかなと。
先日書いたような体の不調もまだ少しあるので、体調管理を万全にせねばと、あらためて思います。
天気といえば、今週は「ニュースウォッチ9」のお天気コーナーに、「ニュース7」土日祝日担当の國本未華さんという予報士さんが代理で出演している。
実は予報士さんの中では現在イチオシの方なので、できればこのままずっと・・・と思いながら、今日も眠りにつくことになるのかなと(大体就寝は22時)。
札幌駅西口のコンコースに、このような像が設置されています。
これは、アイヌ民族の伝統衣装を身にまとい、弓矢を持って、「クリムセ」という民族の舞を踊りながら祈りを捧げる、民族の長老=エカシをモチーフとしたもので、アイヌコタンで知られる釧路市阿寒地区在住の工芸家、藤戸竹喜さんによって制作されました。
像の足元にある、スノーボードのような6枚の板は、「イクパスイ」という民族の祭具である捧酒箸で、書かれているとおり、「6」という数字は、アイヌ民族の文化で「たくさん」を意味する大切な数なのだそうです。
設置から5年が経ち、最近は、札幌駅での待ち合わせスポットとしても定着してきているようです。
以前一度紹介したことがある、釧路市城山にある「お供え山」こと「モシリヤチャシ跡」。
「モシリヤ」という名前は、釧路川の中にあった島の対岸の一部を指した地名のことで、その場所にあったこのチャシは、アイヌ語で「芦の生えている沢にある砦跡」という意味の「サルシナイチャシ」とか、「大きい砦跡」という意味の「ポロチャシ」などと呼ばれたりしていました。
このチャシの築造者である「トミカラアイノ」という人物は、元々は、春採にあった「ウライケチャシ」というチャシに住んでいましたが、他の地域のアイヌ軍勢に攻められて落城の憂き目に遭った後に、このチャシを築いて撃退に成功したという伝承が残されています。
後にトミカラアイノは、子供である「サタニセ」にチャシを譲り、その後も、一族である「メンカクシ」という人物の代まで使用され続けたとされており、この「メンカクシ」は、かの松浦武四郎が釧路地域を訪れた際に、道案内をしたとされています。
この「モシリヤチャシ」は、普段は立ち入ることができないのですが、先日参加させていただいた史跡探訪イベントにて、初めて中に入ることができました。
皆さん、急な斜面をゆっくりと登っていきます。
登ってみると、結構凸凹がありますが、面積的にはかなり広いことがわかります。
この窪みは、敵の攻撃に備えて設けられた濠とのことです。
山頂部から見た景色。
ずっと先、写真右側の「MOO」の向こうに、釧路川の河口が見えます。
この釧路川のどこかに島があり、その対岸が「モシリヤ」と呼ばれていたということなのでしょう。
今回初めて登ることができ、景色を見ながら歴史に触れることで、大変貴重な学習ができたと思います。
機会があれば、またこのようなイベントに参加してみたいです。
(「モシリヤチャシ跡」の場所はこちら。)