北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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ことはのお姉さん

2009-11-30 20:11:00 | 女性アナウンサー・アイドル・タレント
今日の函館は、とにかく寒暖の差がすごかった。
帰路、徒歩通勤には身に染みるような寒さだったのに、買い物で立ち寄ったお店は、異常なくらい暖房がガンガン。
おかげで、アパートに着く頃には、少し汗ばんじゃいました。
こういう時こそ、風邪を引かないよう、注意が必要です。

さて、11月最後の記事は、機会をみて書こうと思い、暖めていたネタを一つ。
昨日のシンケンジャーの日記で、「平日は、ことはのお姉さんの顔を毎日見ている」と書いたけど、その意味するところは、まずこちらのサイトを。


(総務省主催 「さわやか行政サービス運動」推進月間)
http://www.geocities.jp/poster_search/sg020.html


この運動の詳細は上記サイトをご覧いただくとして、このサイトに掲載されている啓発ポスターのうち、今年、2009年版のイメージモデルとして起用されている、重廣礼香(しげひろ・れいか)さんという女優さんこそ、シンケンジャーで、シンケンイエロー=花織ことはのお姉さん、花織みつば役で出演されている方。
そう、私の職場も公的機関なので、このポスターが、毎日目に止まる場所に、しっかりと掲示されているのです。


(重廣礼香さんの公式プロフィール)
http://www.theatre.co.jp/talent/pickup/shigehiroreika.html


ほほう、すうちゃんと2歳違いの方でしたか。
でも、第六幕を見る限り、劇中での、ことはとみつばお姉さんの年齢差はもっとあるように思えたので、演じておられるのも、もう少し年齢が上の方なのかなと思ってました。
この機会に、今後注目していこうかなと思います。
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奥州の栄華 その2

2009-11-29 19:56:37 | 道外旅行記
「その1」では毛越寺をレポートしましたが、平泉、奥州藤原氏と言えば、やはりここは欠かせません。
そう、中尊寺です。





平泉駅から徒歩で約20分の所にある、中尊寺の入口。
ここからは、「月見坂」という坂道になっています。





入口にあったお地蔵さん。
毛越寺の地蔵菩薩と同様、宝珠を持っていて、信じれば何かご利益がありそうです。





中尊寺の歴史は、毛越寺と同時期の、850年(嘉祥3年)、慈覚大師円仁によって、この地に弘台寿院という寺が開かれたことに始まるとされている。
1105年(長治2年)、奥州藤原氏初代清衡によって多くの堂塔伽藍が建立された。
清衡は、前九年の合戦によって父を失い、後三年の合戦によって妻子を失うという波乱の半生をかえりみて、戦争で命を失った敵・味方の人々、さらに動物から草木に至るまで等しく供養し、戦争のない平和で平等な社会をつくりたいと願っていたと伝えられている。
そんな清衡の願いが実を結び、この地方は戦乱のない平和な時代が続き、二代基衡、三代秀衡によって、仏教による平和都市の建設が進んだとされている。
「中尊寺」という名称は、東北地方の中心という意味や、今立っているその場所こそが、自分にとって法界(仏様の世界)の中心である、という意味が込められているとされている。





まずやってきたのが、「弁慶堂」。
堂内には、源義経と、自害する義経を守って立ち往生を遂げた、弁慶の木造が安置されている。





そしてこれが「本堂」。





現在の本堂は、1909年(明治42年)に再建された物で、天台宗の総本山である、比叡山延暦寺から分火された、「不滅の法燈」なる火が、堂内で灯り続けている。





不動明王を本尊とする「不動堂」。
毎月の縁日・28日に護摩が焚かれ、様々な願いごとの成就のために、毎月多くの祈祷申込みがあるのだという。





さらに奥へ進んだところにある「能舞台」。
時代劇なんかで、同じような舞台がよく見られますね。
当時も、ここで能や狂言なんかが数多く演じられたのだろうと思います。





中尊寺と言えば、一番有名なのが、「金色堂」。
表門は入場自由だけど、ここだけ、拝観料がかかります。





この金色堂は、1124年(天治元年)の造立で、中尊寺創建当初の唯一の遺構である。
その名のとおり黄金色に輝く阿弥陀堂の中には、藤原三代の遺体と、首級を納めた須弥壇など33体の仏像が安置されている。


奥州の藤原氏と言えば、日本史の授業でも、それほど深くは掘り下げられなかった一族なので、今回実際に行ってみるまで、知らなかったことが本当に多くあり、新しい発見を多くすることが出来ました。
平泉編はあと1回、中尊寺近辺で見つけた、知られざる歴史上の旧跡を紹介します。
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傷ついた殿 そして家臣達は・・・

2009-11-29 14:52:58 | 特撮作品鑑賞
11月も明日で終わり。
あと一ヶ月もすれば、新年になって、部屋に飾ってある、すうちゃんこと森田涼花さんのカレンダーが本格始動となる。
でもね・・・、それって、シンケンジャーが終わりに近づいていくってことなんだよね・・・。
今年は本当に楽しめているので、例年以上に、終わりを迎えるのが寂しい、そんな心境ですよ。

てなわけで・・・、


(今週の侍戦隊シンケンジャー)

前回、十臓に「何故弱くなった?」と言われ、改めて自ら背負う物の重さを感じた丈瑠。
今回は、そんな丈瑠が、どう立ち直るのかと期待していたんだけど・・・、あれあれ、立ち直るどころか、逆に深手を負ってしまいましたか・・・。

冒頭の稽古シーンで、丈瑠と千明が竹刀を交えるのを見て、前回の流れからして、ひょっとしたら千明があっさり勝ってしまうのでは?なんてことを一瞬思ったけど、こちらもそれどころか、千明に鬼気迫るかのごとく技を仕掛けた丈瑠を見かねた流ノ介が止めに入るという、これまでになかった展開。
劇中のこととはいえ、志葉家第十八代当主というのは、やはり常人には想像がつかない程の重さがあるのだなと、見ていて感じた。
前半、「ゴールド寿司」がグルメ雑誌に掲載されたことをみんなに触れて回る源太のシーンは、そうすることで、丈瑠の気持ちを少しでも和ませようという狙いもあったのだろうと思うけど、どうやら効果なしだったようで・・・。

今回のサブタイトルは「御大将出陣」。
ついに、血祭ドウコクが、三途の川からこの世にやってきたのだが、それに合わせて、ついに本性を表し始めたアクマロといい、ドウコクの助けで再び三味線を自分の手に戻した薄皮太夫といい、今後、残り十幕(あるいは十一幕?)の中では、外道衆側のドラマにも要注目だと思う。

ドウコクとの戦いで深手を負い、倒れた丈瑠。
恐らく、十臓が斬り合いに手応えを感じるほど強かった頃の丈瑠なら、ああもあっさりはやられたりしなかったのだろうと思う。
来週以降、本当にどう立ち直っていくのだろうか・・・?

って、その来週は、一週間どころか一日、いや一時間も待てないことは編。(笑)
しかも、久しぶりにお姉さんも登場とのこと。
実はですね、私、ことはのお姉さんは、平日は毎日顔を見ているんですよ。
「エッ?」って思うでしょ。
別に、同姓同名の人が身近にいるとかそんなじゃなく、本当にご本人なんだけど、その意味は、いずれまた。
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不来方の城跡

2009-11-28 19:15:39 | 道外旅行記
最近、観光で訪れた先で真っ先にチェックするのが、城若しくは城跡。
ここ盛岡でも、まず最初に足を運んでみた。





盛岡駅から、徒歩約15分の所に位置する、「盛岡城跡」。
「盛岡城」は、元々、三戸(現青森県三戸町)に拠点を置いていた南部信直によって築城されたとされる城。
建物は現存はしていないものの、北から、勘定所、三の丸、二の丸、本丸などで構成されていた、大阪城の構造に似ている城で、築城にあたって、大阪城の大きな影響を受けていたとも言われている。
1874年(明治7年)に、城内の建物は取り壊されたが、花崗岩を積み上げた荘重な石垣がほとんど残り、 史跡8.6ヘクタールと広大な盛岡城跡公園(岩手公園)として、市民の憩いの場となっている。








先述した花崗岩の石垣。
この上に壮大な本丸などが建っていたとは・・・、





公園内は、歴史を偲ばせる様々な物が残されている。
これは、石川啄木の、

「不来方の お城の草に寝ころびて 空に吸はれし十五の心」

の歌碑。
「不来方(こずかた)」とは、盛岡城築城前の地名です。





石垣と石垣を結ぶアーチ橋。
ガイドブックとか観光関係サイトを見ると、これと同じ位置からの写真が幾つかあって、有名な場所なんだなと実感した次第。





台座を発見。
一体何だろうと思って近づいてみると・・・、





これは、南部家第42代にして、日露戦争において従軍し、各地を転戦した、南部利祥なる人物で、1905年(明治38年)に戦死した後、1908年(同41年)に、騎乗姿の像が建立されたとのこと。
残念ながら、太平洋戦争が苛烈を極める中、1944年(昭和19年)に、軍需資材として供出され、現在は、台座のみが残されているのだという。








こちらは、「烏帽子岩」なる岩。
盛岡城築城時に掘り出された大岩で、掘り出された場所が祖神の神域であったことから、宝大石とされ、吉兆のシンボルとして広く信仰され、盛岡の「お守り岩」として、今日まで崇拝され続けてきている。





最後に、公園の一角で見つけたガーデン。





地面は一面雪だけど、バラが幾つか咲き残っていました。
この白いバラは、「初恋」という名前だそうです。
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本場の味

2009-11-28 09:36:11 | 道外旅行記
わんこそばと並び、「三大麺」と称される料理の残る二つ、「じゃじゃ麺」と「冷麺」、一気にご紹介しちゃいます。





まずは、「じゃじゃ麺」から。
うどんのような麺に、具としてのキュウリと、赤く見えるのは肉味噌が乗っています。





で、このように、肉味噌を麺に絡めて食べます。

「じゃじゃ麺」の由来は、戦前、旧満州に移住していた、高階貫勝なる人物が、満州時代に味わった「炸醤麺(ジャージアンミエン)」という料理が元とされていて、終戦後の盛岡で日本の食材を使って屋台を始め、「じゃじゃ麺」としての独特の形を完成させたと言われている。
この「炸醤麺(ジャージアンミエン)」は、今の日本で言う「ジャージャー麺」として、中華料理店でもおなじみだけど、この「じゃじゃ麺」は、中華麺とは異なり、きしめんかうどんのような独特の麺に、特製の肉味噌とキュウリ、ネギをかけ、好みに合わせてラー油やおろしショウガやニンニクをかけて食べるやり方で知られている。
因みに、私はラー油派なので、結構な量をかけて食べました。
肉味噌だけでも十分辛いんですけどね。





ちょっとお皿が汚くて恐縮ですが、麺を食べ終えた後、こんな風に卵を一つ落とします。
これをどうするかと言うと・・・、





このようにかき混ぜてスープにします。
「鶏蛋湯(チータンタン)」と言って、これからの季節にはもってこいな、しっかりと暖まるスープの出来上がりです。





続いて、焼肉店でもおなじみの「冷麺」。
麺の上に乗せる具は、店によって様々だけど、玉子の横にちょこんとおかれているのは、(行くまで知らなかったんだけど)名産のリンゴです。

麺の歯ごたえは、まるでゴムのような柔らかさを感じたけど、結構食べやすかったです。
このままの状態で食べても勿論いいのだけど、本来は、特製のキムチと一緒にというのが主流のようです。

「冷麺」のルーツは、朝鮮半島北部の咸興生まれである、在日1世の青木輝人(ヤン・ヨンチョル)という人物が、1954年(昭和29年)に盛岡市で、「食道園」という店を開業し、出したのが最初とされている。
現在は、さぬきうどん、札幌ラーメン、長崎チャンポンなどと同様に、公正取引委員会が「盛岡冷麺」の生麺に対して「特産」・「名産」表示を認め、盛岡冷麺は "本場" として認定されている。





冷麺とセットメニューでオーダーした「豚キムチ丼」。
こちらもなかなか美味しかったです。





最後に、自分用に買ってきたのがこの二つ。
帰ってきてから一週間経ったので、今日か明日にでも、まずどちらか食べてみるとしよう。
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