北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
(C)ナナマガラー All Rights Reserved.

東本願寺函館別院

2024-05-20 20:49:31 | 函館

どうやら体調も問題ないようなので、西部地区の「王道コース巡り」を再開します。

第3チェックポイントはこちら。

 

 

 

「二十間坂」の西側にある「東本願寺函館別院」。所謂「おひがしさん」のお寺です。

 

 

 

 

残念ながら、2028年12月まで保存修理工事中とのことで、正門から中に入ることができないので、正門のちょっとした隙間から撮った写真で解説を進めます。

 

こちらの函館別院の起こりは、1668年、松前にあった「専念寺」の6世浄玄が、阿弥陀堂を創設したことに始まります。

1710年に、現在地よりも西の「弥生小学校」という小学校の付近に移り、当時は僧の名前にちなんで「浄玄寺」と呼ばれていました。

その後幾度かの大火に見舞われる中で、1907年(明治40年)の大火で焼失したことをきっかけに、門徒さんたちの間で、ある動きが起こりました。

それは、寺院を鉄筋コンクリート製の頑丈な建物にしようというもので、そのために、市民から寄付を集めようと呼びかけたのです。

 

しかし、事はそう簡単には運びません。門徒さんたちの思いとは裏腹に、市民からは反対の声が巻き起こり、寄付は一向に集まりませんでした。

何が問題視されたかというと、鉄筋コンクリートの材料となる、砂、砂利は、そこら中に転がっていて、人間や動物が踏んだり、あるいは動物が糞尿を垂れ流したりするなど大変不潔なものというイメージを持たれていたことから、そのようなもので、信仰の対象となるお寺を建築するとはいかがなものかというものだったのです。

また、材料の一つである鉄筋は、当時はアメリカ製のもので、それを用いることに対する反発も大きかったそうです。

 

 

 

もう一つの問題として、こちらの屋根を構成している瓦、これは全部で約33,000枚もあるそうなのですが、鉄筋コンクリートでそれだけの量を果たして支えることができるのかということも危惧されていました。

これらの問題に応えるべく、まず、不潔とされた砂や砂利は真水で洗い流し、アメリカ製の鉄筋は、ヤスリで錆を落とすという措置が取られました。この措置の結果、耐用年数の長い材質が出来上がることとなりました。

また、鉄筋が瓦を支えることへの危惧に対しては、当時の門徒総代が、「棟上げ式」と称して、地域の芸者衆を建物に上げて手踊りをさせ、見物人たちも一緒に上げて、その安全性を証明したとされています。

こうした苦労を経て、大正4年(1915年)に、日本初の鉄筋コンクリート製寺院として、現在の「東本願寺函館別院」が誕生しました。

 

函館はその後、大正10年(1921年)にも大火に見舞われ、この別院の周辺も焼け野原になってしまいましたが、この別院だけは類焼することなく残りました。

その結果として、二十間坂を下ったところにある、現在市電が走っているメイン通りに、地方都市としては初めての、鉄筋コンクリートの金融街、官庁街が誕生し、現在に至る街並みの基礎が築かれることとなりました。

 

 

 

こちらは、明治9年(1876年)の明治天皇行幸の際の御遺蹟、つまり足跡を示す記念碑。

当時ご下賜金を受けたことで、翌明治10年(1877年)に拝殿を建立したのだそうです。

 

ということで、残念ながら中には入れませんでしたが、平成19年(2007年)に国の重要文化財に指定された、西部地区を代表すると言ってもよい寺院の歴史を振り返ってみました。

これにて第3チェックポイントも無事に通過です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする