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北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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芝公園周辺を歩く

2024-11-29 20:00:00 | 道外旅行記

 

東京散策の最後は、「芝公園」とその周辺を歩いてきました。

 

 

 

 

「平和の灯」というのが灯されているんですね。

これは知らなかったです。

 

 

 

こちらがその「平和の灯」。

広島市の「平和の灯(ともしび)」、福岡県星野村の「平和の火」、そして長崎市の「誓いの火」が合わさって灯されています。

 

 

この組み合わせを見て思い出すのが、またかよと思われそうですが、「アメリカ横断ウルトラクイズ」第14回大会(1990年(平成2年))の、「エリー」というチェックポイントでのこと。

終盤、どんどん勝ち抜けが出て、挑戦者が、「Tさん」と「Kさん」の二人だけという段階になって、「広島で灯されているのは『平和の灯』、では長崎で灯されているのは(何の火)?」という問題が出されたのだけど、このときはTさんが前問を誤答して一回休みのペナルティとなっていたため、Kさんだけがこの問題に答える権利があり、しかもKさんはこの問題に正解すれば勝ち抜けというところまで来ているという絶好のチャンスだったのだが、Kさんはボタンを押すことすらできず、結局、Tさんが直後の二問を連続正解して、鮮やかな逆転勝利を飾ったという展開でした。

なので、この解説文を読んだ瞬間、私はこのことが頭を過ぎり、「Kさんはこの灯を見たことがあるのかな。もっというと長崎でも」なんてことを思い浮かべてしまいました。

 

 

ちょっと脱線してしまいましたが、恒久的な世界平和を祈念するという思いは、いついかなるときでも決して忘れてはならないのだなということを、改めて心に刻むことができました。

 

 

 

続いては、芝公園から少し離れた広場へ。

ここで見つけたものは・・・。

 

 

なかなかの精悍な顔つきの人物ですが、誰でしょう・・・?

 

 

4月から箱館の歴史に関するエピソードでも何度か紹介してきた、かの「ペリー提督」の像でした。

「ぺルリ」と書かれていますが、無論正しいのは「ペリー」だとしても、箱館でも、同じく「ぺルリ」だったり、あるいは「ヘロリ」などと記されている資料があって、それだけ、開国直後で英語に慣れていない人々にとって様々な聞こえ方、捉えられ方がされていたんだなということがわかります。

 

 

ここには書かれていませんが、1953年(昭和28年)に「開国百年祭」というのがあって、そのときにペリー提督の出身地であるアメリカ合衆国・ロードアイランド州ニューポート市に石灯籠を贈り、その返礼として親善の印に贈られ、1960年(昭和35年)に建立された像なのだそうです。

 

 

 

もう一つ目に入ったのがこちらの記念碑。

 

 

箱館の歴史上でも大きな足跡を残している「村垣淡路守範正」の名前が刻まれています。

「村垣範正」は、開国当座の箱館奉行の一人で、箱館奉行所を、かつての元町から五稜郭へ移転するに当たり、候補地として、具体的に現在の五稜郭のある辺りを提案したことでも知られています。

万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換するために結成された使節団(村垣範正は、副使としてこれに同行していたとのこと)が、米国軍艦「ポーハタン号」に乗船して渡航したことの記念碑として、100年が経過した1960年(昭和35年)に、「ぺルリ提督の像」と向かい合う形で建てられた記念碑です。

 

 

ということで、今月の東京散策紀はこれにて終了。

次回東京へはいつ行けるか分かりませんが、道外旅行としては、せっかく函館にいるので、近場だけど、また青森に行ってきたいなと思っています。

これまでは、1月とか2月の冬に行くことが多かったので、もしかすると、年明けにでも、ブラっと行ってきちゃうかもしれません。

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東照宮周辺を歩く

2024-11-28 20:00:00 | 道外旅行記

 

芝東照宮の後、「芝公園」一帯を歩いてみました。

事前に何も調べていない、本当に当てのないぶらり歩きです。

 

 

いきなり飛び込んできた「銀世界」という文字が刻まれているこの石碑。

何かなと思ったら、この辺は梅の名所なんだそうで、かつて新宿(西新宿3丁目)にあった梅屋敷に咲いていた白梅が、一面銀世界(雪景色と似た景色ということかなと)だったことから「銀世界」と名付けられ、そこから1908年(明治41年)~翌年にかけて、芝公園に梅が移植された経緯があるんだそうです。

 

 

 

小さな石柱と解説板があります。

 

 

 

古墳があるんですね。

解説板にもあるとおり、全長106メートル前後という、都内でも最大級の規模の古墳だそうで、パワースポットとしても人気なんだそうです。

誰が埋葬されていたかは判っていないそうですが、解説板にもあるとおり南武蔵の有力な族長の墓であったという説があるようです。

5世紀頃の築造とされていますが、これも定かではないようです。

 

 

同じ場所には、貝塚の解説板もありました。

貝塚といえば、やはり縄文時代ですが、こういう場所を訪ね歩き、知られざるエピソードを発掘するというのも、ロマンがあって楽しんだろうなあと思います。

町ブラもいいですが、そういう活動にも興味があるので、この解説には見入ってしまいました。

 

 

句碑があります。

「星野高士」という、「高浜虚子」の曾孫に当たる人物の俳句だそうで、2009年3月に建立されたそうです。

 

 

そしてこちらが、句碑の建立を記念して詠まれた、句碑の発起人の方たちの句だそうです。

 

 

 

 

ちょっと読み取りにくいですが、かの「伊能忠敬」の「測地遺功表」というもの。

伊能忠敬が日本地図を作成するため測量の旅に出かけるとき、測量の原点とした場所がこの近くにあったということで、この辺りで最も高い場所である、先程の「芝丸山古墳」の頂上部に、1889年(明治22年)に、「東京地学協会」によって記念を建立されたそうです。

 

 

我が北海道にも、箱館をはじめとして、多くの場所に足跡が刻まれています。

 

 

 

 

小さな稲荷大明神がありました。

隣接する「増上寺」の裏鬼門に位置し、鎮守の役割を果たしています。

 

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芝東照宮

2024-11-26 20:00:00 | 道外旅行記

 

東京滞在最終日となった11月11日(月)。

飛行機が羽田発14時40分だったので、どこを散策して帰ろうかなあと色々考えていたら、昨日紹介した「武田竹塘先生紀功碑」のことを知ったので、碑のある「芝東照宮」にも初めて行ってみることにしました。

 

 

「東照宮」ということで、有名な「日光東照宮」と同様、かの徳川家康を祀る神社ということは想像がつきますが、この扁額には「家達」とあります。

徳川15代将軍の中にはない名前ですが、どういう歴史があるのでしょう・・・?

 

 

「芝東照宮」は、徳川家の菩提寺「増上寺」の境内に勧請され、当初は日比谷にあったのが、江戸城拡張工事に伴い、1598年に現在地に移転しました。

徳川家康は、還暦を迎えた1601年に、記念に自らの像を刻ませた「寿像」を駿府城において祭祀していましたが、1616年、家康は死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言したことから、同年10月に着工し翌年2月に社殿は竣工しました。

明治初期に「神仏分離令」が発出されたことから、増上寺から切り離されて「芝東照宮」となり、当時の本殿は、現在の重要文化財に相当する「特別保護建造物」に指定されましたが、1945年5月の東京大空襲により、「寿像」と神木のイチョウを残して全て焼失の憂き目に遭い、1969年社殿が再建されて現在に至っています。

扁額に刻まれている「家達(いえさと)」とは、徳川宗家第16代当主に当たる人物で、貴族院議長も務めた政治家の名前だそうです。

 

 

 

 

徳川家と言えばの「三つ葉葵」。ここでも神紋に用いられています。

 

 

社務所。

徳川家康を神格化した「東照大権現」が祀られていることから、勝負運や出世運のご利益があるとされているそうです。

 

 

 

 

 

東京都の天然記念物にも指定されているイチョウの木。

先述しましたが、1945年5月の東京大空襲にも耐え、燃えることなく現在まで残っています。

 

 

 

この狛犬は、1788年奉納で、石工名は不明だそうです。

240年近い歴史のある狛犬。長い間周囲の安寧を見守り続けてきただけあって、何とも穏やかな表情をしているなと思いました。

 

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武田竹塘先生紀功碑

2024-11-25 20:03:27 | 道外旅行記

 

 

これまで何度も紹介している、特別史跡五稜郭跡に設置されている、五稜郭の設計者「武田斐三郎」の顕彰碑。

「東洋のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と呼ばれるほど幅広い分野に精通していたことから、それにあやかって、この碑の顔(頭)をなでると頭が良くなると言われています。

 

 

つい先日知ったのだけど、武田斐三郎の顕彰碑があるのは、実は函館だけではありませんでした。

 

 

「武田竹塘先生紀功碑」と記されています。

「竹塘」とは、所謂「号」(歌や俳句を詠む際の名前)のことです。

 

箱館にあった学問所「諸術調所」の教授役を務めるも、江戸の「開成所」教授に任ぜられて箱館を離れた斐三郎は、明治維新後、新政府に出仕して、日本軍の近代兵制、装備、運用を含めた科学技術方面の指導者となり、フランス軍事顧問団との厳しい折衝を経て、1875年(明治8年)に陸軍士官学校を開校させました。

この学校は、時のアメリカ大統領ユリシーズ・グラントに、「東洋にウエストポイントに劣らぬ学校あり」(「ウエストポイント」とは、アメリカの陸軍士官学校がある町の名前)と称賛されたほどでしたが、過酷な仕事で健康を害してしまった斐三郎は、1880年(同13年)に病死。その2年後に、門下生たちの手で、この紀功碑が建立されています。

で、肝心の場所はどこかというと・・・、

 

 

東京都港区の「芝東照宮」の参道です。

 

 

 

 

 

 

斐三郎の数多の功績が漢文によって表現されていますが、「五稜郭」の文字もしっかりと確認できるのが、函館で斐三郎の功績に触れる機会が多い者としては大変ありがたく思います。

この撰文は、軍医監だった「石川桜所」という人物によるもので、「武田竹塘先生紀功碑」の題額は、明治初期~中期の皇族であった「有栖川宮熾仁親王」によるもの。また、書は「日下部東作(鳴鶴)」という書家のものです。

斐三郎の功績は、ガイドをしている中では必ずといってよいほど触れるテーマですが、次回からは、東京にあるこの紀功碑についても、話題として取り入れてみようと思います。

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東映周辺にて

2024-11-20 20:13:24 | 道外旅行記

 

訪れた順番どおりではないのだけど、東京旅行記&ロケ地巡り第3弾は、久しぶりに訪問した「東映東京撮影所」周辺を紹介します。

 

 

一般の人は立入禁止だけど、フェンスの隙間から。

80年代の戦隊シリーズでも、この位置から撮影したシーンが何度か出てきています。

 

 

 

東映の映画のOPでおなじみの大波のシーン。

この映像が出てくると、「(映画が)始まるな~」と、ワクワク感が強くなったものです。

 

 

 

撮影所周辺の小さな川。

 

 

「東映橋」という名前が付いていました。

郊外の方で、その橋を渡った先の住宅にお住いの方の名前を冠した橋というのがたまに見られますが、会社の名前が付けられた橋というのは、私は初めてのような気がします。

「白子川」という川に架かる橋で、初代は1970年(昭和45年)、現在の橋は2012年(平成24年)の竣工だそうです。

 

 

 

撮影所周辺の住宅街。

 

 

旅先でも地元でも、すっかり電柱の名前を見るのが習慣になっていますが、「撮影」という名前が付いている電柱を見て感激しました。

NTTさん、グッジョブです。

下の「東映」は、町内会かなんかでしょうかねえ・・・、こちらもグッジョブです。

 

 

徳川の電柱 - 北の風に吹かれて~独り漫遊記~

JR中央本線の千駄ヶ谷駅。周辺の市ヶ谷とか信濃町は(「遠足」で)行ったことがあるんだけど、この駅で降りたのは、恐らく初めてかと思います。駅前にある「東京体育館」。...

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↑ 電柱の名前に注目するきっかけになったエピソード。

「近江ちゃん」こと近江友里恵さん、お元気かなあ・・・。

 

 

 

撮影所周辺の配電盤。

こんな素敵なデザインが施されていました。

 

 

撮影所から大泉学園駅に戻ると、このような名前のゲートが。

 

 

東映作品のアニメのキャラの彫刻が展示されていました。

「うる星やつら」の「ラム」。

東映の作品だったんですね。

 

 

これもすぐにわかりますね。「あしたのジョー」の矢吹丈。

そういえば、この間、情報番組に「力石」さんという男性のレポーターが出ているのを見ました。

思い出そうと思って調べてみたら、「力石大輔」さんというテレビ朝日の記者さんでした。

 

 

これは懐かしい~!

「銀河鉄道999」の鉄郎とメーテルです。

「999」といえば、ゴダイゴが歌った主題歌も好きだけど、THE ALFEEの「Brave LOVE~Galaxy Express 999」も大好きでした。

 

 

 

「鉄腕アトム」もいました。

アトムといえば、恥ずかしながら知らなかったのだけど、主題歌の作詞者って、亡くなられた谷川俊太郎さんだったんですね。

子供の頃から大好きな歌だったのに、本当に知りませんでした。

谷川俊太郎さんのご冥福を心からお祈りいたします。

 

 

 

そして最後に駅構内にて。

夢があっていいなあと思います。

またぜひ、ゆっくりと時間を作って再訪したいです。

 

コメント (2)
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