北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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二つの市に跨る空港

2024-01-17 19:45:09 | 石狩・空知地方

 

北海道新聞に毎号掲載されている、お子さん向けのクイズ。

「新千歳空港」が千歳市以外の自治体にも跨っている?

私は職業柄知っているのだけど、いきなりこう言われると、「噓でしょ!?」と思う人も多いと思います。

 

 

千歳市はこの範囲です。

 

 

こちらを見ていただければと思いますが、確かに、新千歳空港の滑走路が、千歳市の南側の自治体に跨っていますね。

どの自治体との間に跨っているのでしょう?

 

 

正解はこちら。港町として知られる苫小牧市でした。

 

 

これは、知らない人も多いと思いますが、雑学的なネタとして何かの役に立つこともあると思い、記事にしてみました。

新千歳空港・・・。昨年11月に上京で利用する予定でしたが、コロナに罹患してしまったため、利用することはありませんでした。

今年はそのリベンジを考えていますが、飛び立つ空港は、多分新千歳空港ではないと思います。

コロナ禍じゃなければ、この三年間に何回か利用する機会があったと思うと残念です。

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創生園

2023-10-29 16:33:46 | 石狩・空知地方

 

昨日紹介した「生振神社」の近くに「創生園」という場所を見つけたので、車を停めて降りてみました。

碑にあるとおり、平成2年(1990年)の開園だそうです。

 

 

園の一角に、小さな田んぼがあります。

 

 

近くにある「生振小学校」という学校の「学校田」。

「近くにある」と書きましたが、この「創生園」というのは、かつての「生振小学校」があった場所なんだそうです。

この地域の中心産業である稲作を通して、地域の開拓の歴史を子供たちに伝え、収穫の厳しさや楽しさを学び取ってもらうということが狙いなのでしょうかね。

そういえば、都心部の学校でも、敷地内に小さな畑や田んぼがあるところがあったりしてますね。札幌市内でもあったと思います。

 

 

 

かなり古そうな農業用機械が保存されています。

 

 

戦後の復興期を支えた揚水機だそうです。

「感謝」という言葉が刻まれているのが印象に残ります。

こうして保存しておくことで、現在に至る産業の歩みを後世に伝える役割を果たしているということなんですね。

 

 

「水鴻恩」と書かれている大きな碑。

横に開設を記した碑があったのですが、写真を撮りそびれてしまったので、帰宅してから調べてみました。

昭和25年(1950年)に、生振を含む現在の石狩市内の農業事業や農業用施設の維持管理を行う「石狩花畔土地改良区」が設立され、戦後の食糧需要という国策に応じるため、生振地区でも開田が進み、稲作が広く行われることとなりましたが、それを支えたのが、先程も触れた揚水機によって石狩川から引かれてきた水だったとのことで、その水に対する感謝の意を表し、戦後の混乱期において復興事業に尽力した人たちの功績を称えるべく、平成12年(2000年)に建立された碑だそうです。

 

 

「土地改良区」という団体、私は職業柄接点があるのですが、農業や関連事業に従事されていない方にとっては、あまり馴染みのない団体ではないかと思います。

「土地改良法」という、日本の農業における基幹的な法律に基づいて設立されている法人で、土地改良事業(農業事業のこと)の実施や施設の維持管理を行うべく、農業者の発意を受け都道府県知事の認可によって設立されています。

 

 

地域における稲作の歴史が書かれた「開田之碑」。

 

 

 

 

昨日の記事でも触れましたが、生振地区の開拓は、明治4年(1871年)、山形県米沢地方の人々が入植したことにより始まりました。

それから120周年が経過した平成2年(1990年)に、「創生園」の開園と共に、その歴史が刻まれた碑が、ここに建立されています。

 

 

これは句碑でしょうかね。

 

 

生振小学校の初代校長にして「桃下」という俳号を持っていた「中島源五郎」氏が、愛知団体の入植50周年に当たり詠んだ句が刻まれています。

何という句なのかは、少し調べてみましたが、残念ながら分かりませんでした。

何となく読めるのは、上五が「怠らぬ」、中七が・・・、最初の文字は「鍬」でしょうかね。そして下五は「畑うち」でしょうか。

 

 

農業関連の碑ばかりかと思っていましたが、戦没者の慰霊碑も建立されていました。

このようなことも含め、生振という地域の歴史を広く後世に伝えるというのが、「創生園」の開園の狙いであり、開園に込められた願いということなのでしょうね。

 

 

 

 

最後に、園内の綺麗な花の写真。

秋が深まり、本格的な雪の季節を迎えると、このような光景も来春までお預けになるかと思うと、ちょっぴり寂しい気がしますね。

 

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生振神社

2023-10-28 16:11:23 | 石狩・空知地方

 

石狩市にある「生振神社」という神社に行ってきました。

 

 

さて、いきなりですが、この「生振」という地名、何と読むでしょう?

音読みで「せいしん」?あるいは「なまふれ」?色々考えが浮かびそうですが・・・、

 

 

正解は「おやふる」と読みます。

「ふる」はまだしも、「生」から「おや」というのはちょっと想像がつかないですね。

この地名も例によってアイヌ語由来だそうで、「尻が陸地についている丘」、「川尻の丘」などの意味となる「オヤ・フル」が由来とされています。

 

 

「生振」は、直線化された「石狩川」と、かつて石狩川として蛇行して流れていた「茨戸(「ばらと)川」に挟まれた場所にあります。

明治4年(1871年)、山形県米沢地方の人々が入植して集落が形成されたこの地域は、蛇行した川の影響で、明治期には幾度となく洪水の被害に見舞われていましたが、明治31年(1898)年の石狩川の記録的な大洪水をきっかけに、蛇行した流れを直行させる工事が着工され、昭和6年(1931)年に新水路が完成したことで、この地域は洪水の脅威から解放されることとなりました。

 

 

敷地内にある幾つかの碑を見ていきます。

「愛知団体開拓百年」とあります。

先程、この地域に最初に入植したのは、現在の山形県米沢地方の人であることに触れましたが、愛知県にも縁があるということなのですかね。

 

 

この碑は、明治24年(1891年)の濃尾大地震で被害を受け、同27年(1894年)に愛知県春日井郡から入殖してきた人たちが、固い団結力で開拓の困難を乗り切ったという歴史を伝えるものだそうです。

 

 

この三つの碑もその関連で、その愛知県団体の一員として開拓に尽力した「長江常三郎」氏の功績を称える顕彰碑もあります。

 

 

では、社殿へ向かってみましょう。

 

 

 

 

 

道中、二対の狛犬が出迎えてくれています。

狛犬の数え方は「一体」かと思っていましたが、ある神社の巫女さんが書いたブログを拝見したところ、「一躯(いっく)」と数えると書かれていました。

「一体」が一般的であるかのように書かれている資料もありますが、神社関係者さん自らがそう書かれているので、そういうことなんだと考えたいと思います。

こちらの狛犬は、二対四躯全て、とても愛嬌があって、訪れる人たちの心を和ませてくれているなと思いました。

昭和10年(1935年)の設置だそうです。

 

 

 

「生振神社」は、明治6年(1873年)に宮城県より入植してきた人々が小祠を建立し、天照皇大神、誉田別命、大物主命の三神を祀ったのが始まりとされています。


同36年(1903年)に「生振神社」として創立の許可を受け、同41年(1908年)現在地に遷座し、現在も畑作や稲作が広く行われている生振地区において、人々の暮らしを支え、地区の歴史を見守る存在であり続けています。

 

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南線神社

2023-10-16 20:26:35 | 石狩・空知地方

石狩市の住宅街、花川エリアのほぼ中心に、「南線小学校」という小学校があります。

どういうきっかけだったかは忘れたけど、小学校五年生のとき、この学校との交流授業があって校舎を訪問したことがあるのですが、この年(昭和59年(1984年))に札幌に引っ越してきて、札幌とその周辺の地理に興味を示していた私は、この「南線」という名前にも興味を持ち、自分なりに調べてみたのを覚えていました。

 

 

ということでというわけでもないけれど、学校ではなく神社へちょっと行ってみました。

住宅街の中にあって、地域を見守り、地域と共に歩んでいる神社だそうです。

 

 

まず読み方ですが、「なんせん」ではなく「みなみせん」と読みます。

この神社がある地域は、明治14年(1881年)に、十四戸の香川県人が入植したのが始まりとされていて、この神社は、同30年(1897年)に、「片山謙蔵」という人物が、郷里である讃岐の金刀比羅宮に参詣して御神札を戴いた後に北海道へ戻り、当時の「樽川村南6線」に小祠を建立したのが始まりとされています。

同35年に、樽川村は隣接する「花畔(ばんなぐろ)村」と合併して、双方の名前から一文字ずつを取った「花川村」となり、合併前の両村には共に「南〇線」という字があったことから、混乱を避ける意味もあって、「南線」という呼称が用いられるようになったそうですが、現在は、「南線」というと、札幌市手稲区と石狩市を結ぶ「道道石狩手稲線」のことを指すようになっているそうです。

 

 

現在の道道石狩手稲線。

 

 

「南線小学校」の位置。

「南線」と呼ばれる石狩手稲線に面しています。

 

 

境内に入ってみると、まずこの碑が目に入りました。

 

 

「町村農場」とは、円山公園地区の「マルヤマクラス」や、大通の「大通ビッセ」に美味しいソフトクリームの店を出していることでも知られる江別市の農場ですが、その始まりは、ここ石狩市でした。

現在の札幌市南区真駒内にあった官営牧場で生まれた「町村敬貴」氏は、札幌農学校へ入学した後、当時酪農先進国であったアメリカに留学。ウィスコンシン州の小さな農場で働いた後に帰国し、大正5年(1916年)に樽川村に牧場を開きました。

昭和3年(1928年)に、牧場敷地のうち2反歩(約2,000㎡)が境内地として神社に寄贈され、同年、町村牧場は現在の江別市へと移転しています。

 

 

 

 

これらの碑に刻まれている「町村金五」氏は、農場の創設者である町村敬貴の弟で、衆参両議員、北海道知事、北海道開発庁長官などを歴任した人物です。

 

 

この「開田之碑」は、地域の造田十周年を記念して、昭和33年(1958年)に建立されています。

この地域では酪農を兼ねた畑作が広く行われていましたが、干害や冷害による影響を受けて徐々に経営が行き詰まるようになり、やがて天候の変動に左右されることの少ない水田稲作が模索されるようになりました。

そんな中、後に町長となる「飯尾圓什」氏が造田を推奨し、昭和初期には、農民たちが自費による造田を行うようになりました。戦後になり、農民たちの粘り強い運動の成果により、造田には適さないと見なされてきたこの地に国や北海道の補助が受けられるようになり、造田事業が本格化するに至ったという経緯があるそうです。

 

 

 

 

 

酪農業によって開拓が進められたこの地において、労苦を共にした牛馬を祀るための碑だそうです。

 

 

 

この碑の表にも「町村」という姓の人物の名前が刻まれています。

町村金五氏の次男である政治家、信孝氏です。

 

 

昨日紹介した「樽川神社」にあったのと同じ。各面に神様の名前が刻まれている碑がありました。

 

 

 

穏やかに微笑んでいるような様子が印象的な狛犬の姿には、心和むものがありました。

 

 

 

南線神社は、昭和45年(1970年)に現在地に遷座し、平成5年(1993年)に拝殿と社務所増改築が竣工しています。

昭和52年(1977年)12月宗教法人登記をし、同8年(1996年)12月24日承認を得て神社本庁所属神社となり、今日に至っています。

 

 

境内の一角の広場。

例祭などの際に、様々な催しが行われているのでしょうかね。

 

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樽川神社

2023-10-15 16:44:21 | 石狩・空知地方

 

札幌の隣、石狩市をドライブしていて、小さな神社を見つけたので、寄ってみました。

 

 

「樽川神社」という神社。

「樽川」という地名は小学生の頃から知っていましたが、小樽の「樽」という字が使われているので、何か小樽と関係があるのかなと思っていました。この機会にそれを確かめてみようと思います。

 

 

 

参道の入口には、二宮金次郎の像がありました。

「皇紀二千六百年記念」とありますが、これは、神武天皇の即位から2600年に当たる昭和15年(1940年)だそうで、この年の11月11日に、これを記念する式典が挙行されていたそうです。

 

 

 

小さな神社のようですが、立派な扁額が取り付けられています。

地域に根差し、地域に支えられている神社であることの証でしょうか。

 

 

 

明治15年(1882年)に「樽川村」という村が開村し、同18年(1885年)には、山口県から四十三戸と、別な地域から十二戸が入植してきました。

その地域の大部分は現在の石狩市の市域になっていますが、昭和46年(1971年)、第三期北海道総合開発計画の先導的事業であった石狩湾新港地域開発計画の実施により、一部が小樽市に編入されたという経緯があり、それから十年後の同57年(1982年)開村百年の記念の年に、地域の輝かしい未来に期待し、村勢発展の推移を記すことを目的に、この碑が建立されました。

 

 

開村五十年の記念碑もありました。

 

 

「樽川村移転之碑」とありますが、何かなと思って調べてみると、先程触れた石狩湾新港地域開発事業に伴い、樽川村の一部が、当時の石狩町から小樽市に編入されたことを示すもので、昭和48年(1973年)の建立とのことです。

先程、「小樽と何か関係あるのか」と書いていましたが、そもそも「樽川」という地名は、「小樽内(おたるない)川」が省略されたもので、「小樽内」はアイヌ語の「オタ・オル・ナイ」(砂浜の中の川)に由来しているとのことです。

ここでピンと来ましたが、札幌の隣の小樽市の由来もまた、同じ「オタ・オル・ナイ」(砂浜の中の川)なのだそうで、同じ由来でありながら名前が違う二つの地名が存在していたということになるようです。

しかもその一つである「樽川」の一部が、時を経て、もう一つの「小樽」に編入されるということに、何やら運命的なものを感じてしまいます。

 

 

 

揮毫された文字がかすれて読みにくくなっていますが、日露戦争の戦死者招魂のための「忠魂碑」だそうです。

 

 

狛犬の表情を見るのも、初めて行く神社での楽しみになってきました。

 

 

 

 

こちらの神社の注目点の一つに、狛犬が大小二対並んで建っているということがあります。

横から撮れば良かったと思いますが、小さい方は、体の向きと顔の向きが異なるように作られており「見返り狛犬」として話題を呼んでいるそうです。

 

 

神社の歴史が表示されています。

 

 

現在の社殿は、昭和47年(1972年)に移転新築されています。

普段はシャッターが下りていて無人のようですが、例祭のときなどには開かれるのでしょうねきっと。

 

 

「天照大御神」の名前が目に入ったので近づいて見てみました。

 

 

 

 

 

何と、上から見ると五角形になっていて、五面全てに神の名前が刻まれていました。

こういうのは初めて見たと思います。

 

 

現在の社殿の脇にある木造の建物。

古い社殿でしょうかね。

 

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