北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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もう勘弁して

2018-09-30 19:32:27 | 日々のもろもろ
台風厳戒、祈る被災者 胆振東部地震 「何事もなく去って」(北海道新聞)


本当にそのとおり。
数日前からずっとテレビの天気予報を見ているが、先週木曜日頃に発表された予想ルートよりも、心なしか東へ逸れているようにも感じられるので、せめてもう少し東へ逸れて、胆振東部地方を含む北海道太平洋側への影響が少なくなるようになってほしい。
釧路は、現在のところの予報では、明日の出勤時間帯がピークのようなので、明日は雨合羽とゴム長で出勤することになるかもしれないが、昼ぐらいには収まる予報だし、朝一番に急いでやるようなこともないので、もしものときは無理しないことも考えるかな。
明日は、28日に発売された「ブラタモリ」第13巻&第14巻が、もしかすると釧路にも入荷するかもしれないという楽しみがあるので、何事もなく過ぎ去ってくれることを祈りたいです。

台風といえば、新たに発生した25号も沖縄県地方へ接近する予想ルートになっていますね。
しかも、またなんか、24号と同じようなルート予想になってますよ・・・。(こちら
今年はいつまで台風の脅威に怯え続けなければいけないのでしょうかね。もう勘弁してほしいです。

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大通公園散策~3~

2018-09-29 16:23:47 | 札幌
テーマ「大通公園には何がある?」





今から11年も前に、今回と同じような記事を書いていたのをすっかり忘れておりました。
前回の記事で触れた「開拓紀念碑」や「ブラック・スライド・マントラ」についても触れていたけれど、写真の、メルヘンチックな塔についても、そのときに触れていました。

これは「マイバウム」という、ドイツ語で「5月の木」という意味の言葉が付けられたもので、昭和51年(1976年)5月、札幌市と姉妹都市提携を結んでいる、ドイツのミュンヘン市から寄贈されたものです。
老朽化により一度撤去されましたが、芸術を学ぶ学生さん達の尽力によって復元され、現在に至っています。
この「マイバウム」とは、ドイツやオーストリアをはじめ、北欧などの地域に広く伝わる、はじまりは紀元前とも言われるヨーロッパの古い文化で、ミュンヘンだけでなく、ドイツやオーストリアなどではあちらこちらで見られるそうです。





続いて、さらに西へ進んで西12丁目付近へ。
水路があってその先に建物が見えます。











姉妹都市ではなく友好都市提携を結んでいる瀋陽市から寄贈されたというバラ。
綺麗に咲いていて、見る者の心を和ませてくれます。





そして、その先、大通公園の西端にある建物。
現在は「札幌市資料館」として一般開放されていますが、かつては「札幌控訴院」という、現在でいえば高等裁判所に相当する司法機関の建物として使用されていました。

「札幌控訴院」は、大正15年(1926年)9月に建設された、内側にレンガ、外側に軟石を積み上げた構造の建物で、国の有形文化財にも指定されています。
昭和48年(1973年)の高等裁判所の移転により、札幌市の資料館として、札幌市の歴史と文化に関する資料のほか、控訴院時代の施設として、「刑事法廷展示室」も設置されています。





正面にあるこの石像は、ギリシャ神話に登場する、法の女神テミスの像。
目隠しをしているのは、裁きに当たり、私見を挟まずに常に公正に徹するという意味があるとのことです。





資料館の裏へ。
この先には建物が建っていますから、どうやらここが、本当の大通公園の西端のようです。





その西端の正面から一枚。
テレビ塔から資料館までじっくりと歩き、札幌市の歴史と文化に深く関係するスポットの数々を見ることができ、とても有意義な散策ができたと思います。
観光ガイドブックとは違う視点からの大通公園散策、ぜひ皆さんにもお勧めしたいと思います。
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大通公園散策~2~

2018-09-28 19:52:59 | 札幌
テーマ「大通公園には何がある?」





前回の続き。
大通公園西5丁目にある大きな碑。
高さ16mということで、歩いていればいやでも目に留まるけれど、一体これが何なのかということは、あまり気にかけられていないのではないかという気がします。

これは、「聖恩碑」という碑で、昭和11年(1936年)の昭和天皇の行幸と翌昭和12年(1937年)の札幌市の水道創設を記念して昭和14年(1939年)3月に建立され、同年4月29日に除幕式が行なわれたもの。
刻まれている「聖恩無彊(せいおんむきょう)」の文字は、「天子(天皇)の恩恵はどこまでも続く」という意味で、昭和11年に行われた陸軍特別大演習で札幌を訪れた閑院宮戴仁親王の揮毫によるものです。











四面のうち三面に、吐水口として、一見怖そうな彫刻がされています。
これは、中国・北斉の皇族・高長恭の武勇伝を題材とした雅楽「蘭陵王」において使用されている面で、文字が刻まれている面が首領、残る二つの面が家来とされています。








続いて、西6丁目にある碑に注目。





この注目ポイントは「紀念」という文字表記。
「『記念』じゃないの?」と思われるかもしれませんが、この「紀」の文字は、勅撰(天皇の命により編纂された書物や記録)若しくは国家の公式の記録として制作されたものに用いられることとされているものです。
この碑は、大通公園では最も古いもので、明治15年(1882年)に開拓使が廃止された際に、札幌本府(現在の道庁赤レンガのある場所)建設を後世に伝える記念碑を建てようという気運が高まり、札幌神社の宮司などが中心となって基金を集め、1886年に偕楽園(こちらを参照)に設置され、明治34年(1901年)に台座の補修を兼ねて現在地に移されています。





続いて、少し歩いて西8丁目にあるもの。
これは、「ブラック・スライド・マントラ」といって、昭和63年(1988年)に設置された(除幕は平成4年(1992年)6月)、彫刻家イサム・ノグチの手による彫刻作品ですが、単なるモニュメントだけでなく、滑り台としても広く市民に親しまれています。





更に進んで西10丁目まで来ると、二人の人物の像が並び立っています。





まずこちらは、開拓使長官として、北海道開拓の歴史を語る上で欠かせない人物である、黒田清隆の像。
昭和42年(1967年)に、開道100周年を記念して、北海道開拓功労者顕彰像建立期成会によって建立されたものです。





続いてこちらは、開拓使顧問であるアメリカ人、ホーレス・ケプロンの像。
同じく昭和42年に建立されたものです。

札幌出身である私も、西10丁目まで歩くことは殆どなかったので、このような像が立っていること自体は見たことがあったかもしれないけど、誰の像でいつできたのかということは、全く気に留めたことがなかったように思います。
じっくり歩いてみて、新鮮な発見ができました。
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大通公園散策~1~

2018-09-26 20:27:17 | 札幌
テーマ「大通公園には何がある?」


「何がある?」って、札幌の大通公園といえば、噴水だったり、名物の「とうきびワゴン」などを思い浮かべる人が多いかと思うけど、それじゃ面白くもなんともないので、公園を東から西へと歩いて、なかなか目に留まらないけど深い意味をもつものを探し出してみようと思いました。





いきなりだけど、テレビ塔の1階入口に、夕張市の人気キャラクター、「メロン熊」がいました。





怖そうだけど、子供たちには大人気です。
一緒に写真を撮る子供たちがいなくなる一瞬の隙をついて一枚撮るのがなかなか大変でした。





大通公園の東端にあるテレビ塔から西に向けて一枚。
いざ出発です。





と言いつつ、いきなり公園から離れてしまいました。





現在は豊平区の中島公園にある国の重要文化財「豊平館(ほうへいかん)」が、元々建てられていた場所を示す碑。
「豊平館」は、開拓使工業局営繕課の主任技術者であった、安達喜幸(きこう)らの設計による開拓使時代を代表する洋風建築で、函館の五稜郭の築造も手掛けた大岡助右衛門の請負により、明治12年(1879年)に着工され、翌13年(1880年)に完成しました。
「豊平館」の紹介記事





どこにあったかというと、かつての「札幌市民会館」、現在の「札幌市民ホール」の敷地内。(こちら
私の中では、今でも「札幌市民会館」のままですが、「わくわくホリデーホール」という名前になっているそうです。





続いて、今度こそは公園の中。
西2丁目のエリアに、このような物が。





これは、「北海道電話交換創始の碑」とい、昭和48年(1973年)12月、北海道の電話加入数が100万(札幌だけで30万)に達したことを記念して建てられたものです。

北海道最初の電話交換局が札幌に置かれたのは、明治32年(1899年)7月26日のことでしたが、加入希望者が少ないために業務の実施が先延ばしにされ、実際に電話交換業務が開始されたのは、翌明治33年(1900年)3月1日のことでした。
これは、明治23年(1890年)に東京・横浜間で日本最初の電話交換業務が実施されてから10年後、全国では11番目の業務だったそうです。
業務開始時の電話加入者数が229だったそうですが、その中の一つ「5番」を電話番号としていたお店が、20年ほど前まで札幌でデパートとして営業していました。





大通公園を離れた札幌駅前。
現在は更地になっていますが、ここにかつて、「五番館」というデパートが建っていました。
先に書いた、電話番号を屋号として営業していたお店です。

「五番館」は、大正元年(1912年)に百貨店形式の店舗としてスタートし、昭和3年(1928年)には「株式会社五番館」が設立されて本格的なデパートとなり、「丸井今井」「三越」と並ぶ札幌を代表するデパートして繁栄していましたが、平成2年(1990年)に「五番館西武」と名前が変わり、平成9年(1997年)には西武百貨店と合併して社名が「札幌西武」となって、「五番館」の名前は消滅。その「札幌西武」も平成21年(2009年)に閉鎖となり、「五番館」に始まる長い歴史に、とうとう終止符が打たれてしまいました。
私も、「五番館」に関しては、子供の頃の思い出が沢山あり、こうして簡単ながらも歴史を振り返ってみると、懐かしさとともに寂しさがこみ上げてくる感じがします。





続いて、これは・・・何だろう?








「ベンソンの水飲」と呼ばれる水飲場です。
1900年、アメリカ西海岸のポートランド市で木材を切り出す作業に従事していた労働者たちは、町に出ても飲料水を見つけることができず、ビールを飲むことが習慣となっていましたが、彼らの雇い主であるサイモン・ベンソンという人物は、それを困ったことだとして、何とかやめさせたいと考えていました。
そんな折、1900年のアメリカ独立記念日(7月4日)に、町中で、喉の渇きを訴えて泣く少女の姿を見て哀れに思ったベンソンは、1912年に水飲み場を作って、ポートランド市に寄贈しました。
その後、公園など20箇所以上に設置された水飲場は、現在でもポートランド市民に親しまれながら使用されているそうですが、そんなポートランド市と札幌市が姉妹都市になって7年後の昭和41年(1966年)に、市内で使用されているものと同じ形のものが、両市の友好の証として札幌市に贈られたということです。





西4丁目からテレビ塔に向かって一枚。





続いて西5丁目に足を踏み入れると、こんな大きな碑が。
一体これは何でしょう・・・?
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何とか頑張ってほしい

2018-09-25 19:45:01 | 渡島・檜山地方
新函館北斗駅、にぎわい遠い駅前 「営業するほど赤字」


正直、「そうなんだ・・・」という言葉しか浮かんでこない。
元々函館本線の「渡島大野」駅があった所とはいえ、旧大野町(平成18年2月1日に旧上磯町と合併して北斗市になった)の中心部からはちょっと離れていて(こちらを参照)、本当に一から賑わいを開発する必要があった場所ですからね。
突破口的にヒットする施設が一つでもできれば、その流れに乗って・・・ってこともあるのかもしれないけど、「営業するほど赤字」ってのは、ちょっと深刻だなあ・・・。
同じような駅でも、新青森駅のようにはなれないのかな・・・。あそこは、大きな商業施設は少し離れているけれど、住宅地が駅の側まで開発されていて、何より、青森駅までJRで一駅、バスでも20分ぐらいと、利便性は高い場所ですからね。
それに引き換えと言っていいかどうかわからないけど、新函館北斗駅は、函館市内までもそこそこ時間がかかるし、北斗市や七飯町などへも、決して利便性は高いとは言えないのが現状ですからね。
いや、でも、せっかく大々的に北海道新幹線の起終点として開業させたのだから、このままずるずると五年十年と経ってはほしくないなあ。
次に利用するのがいつになるかわからないけど、そのとき、駅とホテルがポツンとあるだけというのを目の当たりにするというのは、やっぱり寂しいですよ。
何とか突破口が見つかってほしいと、半年前まで道南にいた者として思います。


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