北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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五稜郭跡~ゆかりの人物~

2024-08-08 20:23:56 | 函館

 

五稜郭公園に限った話ではないのですが、函館市内の歴史関連スポットでは、その場所にゆかりの人物について紹介する、写真のような柱が設置されています。

まずは、先日も紹介した、五稜郭を設計した人物である「武田斐三郎(たけだあやさぶろう)」。

 

 

短いながらも、その人物の来歴や功績が記載されており、とても良い学習教材となっています。

 

 

幕末の箱館において、最後の箱館奉行を務めた「杉浦誠」という人物です。

 

 

榎本武揚や土方歳三と比べると、なかなか表立って紹介される機会の少ない人物ですが、そのような人物にもしっかりとスポットを当てているというのが素晴らしいことだと思います。

 

 

こちらは、箱館戦争勃発当時、旧幕府側の箱館奉行とは対極の、明治新政府の「箱館府知事」を務めていた「清水谷公考(しみずだにきんなる)」という人物です。

 

 

箱館戦争勃発当初、新政府側で旧幕府軍と対峙した部隊は、急造であったが故に、歴戦の旧幕府軍には到底かなうことはなく、府知事であった清水谷は、戦況不利と判断して、自ら側近達を連れて青森へ撤退しました。

旧幕府軍の降伏後には府知事として再任され、戦後処理に当たりましたが、開拓使の設置直後に箱館府が廃止となった際、その事情確認のため上京し、そのまま府知事を辞任しています。

 

 

旧幕府軍の「陸軍奉行並」という地位にあり、榎本武揚を総裁としていた「蝦夷共和国」の副総裁に任ぜられた「松平太郎」という人物。

オランダ留学を経験し、国際法を習得していた榎本武揚の「洋才」に対し、松平は「和魂」と言われ、厚い人望があったそうです。

 

 

松平太郎と一緒に写っている人物は、幕府の軍隊近代化援助のため、フランス軍事顧問団の一員として派遣された「ジュール・ブリュネ」という人物。

戊辰戦争に際し、中立的立場にあった本国フランスの命に反し、榎本武揚の旧幕府脱走軍と共に箱館に入り、軍事顧問として従軍していました。

 

 

 

清流であった「亀田川」から水を引いて作られた五稜郭のお堀の水を利用して、「函館氷」と呼ばれた天然氷を製造した「中川嘉兵衛」という人物。

箱館で「嘉兵衛」といえば、やはり「高田屋嘉兵衛」が有名ですが、もう一人「嘉兵衛」という人物が、函館の歴史に大きな足跡を残していたということになります。

横浜のイギリス公使館のコック見習いから身を起こし、日本で初めて牧場で牛を飼った人物で、ローマ字で知られる「ヘボン」や、かの「福沢諭吉」に勧められて、天然氷の製造に挑戦しました。

それまで天然氷というのは、国内では製造・商品化はされておらず、アメリカ東海岸のボストンから、6か月以上という長い時間を経て横浜へと輸入されていた医療用のものが主体でしたが、国内で初めて天然氷として製造された「函館氷」は、横浜まで船で運ばれ、東京、横浜、神戸などで、飲食に用いられて大変重宝されたそうです。

 

 

人物の解説柱は以上ですが、別な場所に、五稜郭に関して大きな足跡を残した人物を称える碑が設置されています。

 

 

 

「松川弁之助(まつかわべんのすけ)」という人物で、越後から蝦夷地に渡り、五稜郭の建設工事に携わりました。

建設工事に当たり、資材運搬のために自費で完成させた道路が「松川街道」と呼ばれ、現在も、「松川町」という地名となって函館市内に残っています。

文章だけの碑ですが、もし写真が残っていたら、ひょっとすると解説柱が建てられていたのではないかと、個人的には考えます。

こういう人物の功績も、しっかりと語り継がれていくといいなと思います。

 

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函館市電写真コンテスト

2024-08-07 21:04:27 | 函館

 

もう終わっちゃったのだけど、先週土曜日、ガイドのお客様との待ち合わせで、「まちセン」こと「函館市地域交流まちづくりセンター」に寄ってみたら、一般の人が撮影した写真を集める、函館市電の写真コンテストが開催されていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

沢山の写真が展示されていた中から、個人的に印象に残った物を幾つか紹介します。

 

 

私の一番好きな車両「530系」。

 

 

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その「530系」と、「箱館ハイカラ號」が並んでいる写真。

「箱館ハイカラ號」。4月に函館に戻ってきてからまだ乗ってなかったなあ・・・。

 

 

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「基坂」の下を通る電車。

「基坂」を下から見た景色が好きな私としては、やはり反応してしまいました。

 

 

反対に、「基坂」の上(「ペリー広場」と「旧イギリス領事官」の間)から撮った写真。

走っているのが530系というのもポイントです。

 

 

西部地区を代表するレトロな建物「相馬株式会社社屋」。

530系との一体感が魅力的です。

 

運動不足解消と経費節減の観点から、最近は西部地区への移動も自転車主体になっていますが、寒くなってきたらそうも言っていられないので、経費節減は別なことで考えながら、移動を市電主体にして、ここで紹介できるようなインパクトのある写真を撮ってみたいと思います。

来年は、久しぶりに市電カレンダーも買おうかな。

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五稜郭跡~3~

2024-08-06 20:38:26 | 函館

 

特別史跡「五稜郭跡」散策紀を続けますが、今回は、ガイドブックにも載っていない、現地に行かないと発見できないスポットを紹介します。

まずはこの場所、何やら緩やかなスロープ状になっています。

 

 

何の坂かと思っていましたが、こちらのとおり、箱館戦争の際に作られたと想定される、「大砲を運ぶための坂」でした。

箱館戦争最後の激戦地となった五稜郭においては、先日の記事で、箱館奉行所の「太鼓櫓」が、新政府軍の大砲の標的となったことが、旧幕府軍の戦意を喪失させ、敗北に至るきっかけとなったと書きました。このことは、歴史関係の本には割とよく書かれていますが、この坂のような小さな施設に関しては、現地へ行かないとそのエピソードに触れることは難しそうです。

 

 

こんな記念碑がありました。

「一萬號」とありますが、「櫻」という文字も見えるので、もう想像がつきますかね。

現在も道内有数の桜の名所である五稜郭公園において、植樹した桜が1万本に達したことを記念する碑だそうで、1923年、当時の地元新聞「函館毎日新聞」が、公園として開放されたばかりの五稜郭に、発刊1万号記念に1万本のサクラを贈っていたのだそうです。

 

 

そのお隣にあるこちらは、「巌谷小波(いわやさざなみ)」という人物の句碑だそうで、「其跡(そのあと)や 其の血の色を 艸(くさ)の花」という、五稜郭に咲いていた赤クローバーの花を基に詠んだ句だそうです。

 

 

 

こちらのこんもりした盛り上がり。

「土饅頭」と言って、ここに箱館戦争で亡くなった旧幕府軍兵士の一部が葬られたとされていますが、土方歳三もここに葬られているという説があります。

もっとも、土方については、最期の地と同様に諸説があるそうですが、今後五稜郭をガイドする際、お客様が土方に興味を示されたら、この「土饅頭」も、外せないスポットとして紹介することになると思います。

 

(土方の埋葬地とされている場所の一つがこちら)

 

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二門の大砲が展示されています。

はじめに言いますが、レプリカではなく本物です。

 

 

 

こちらの短い方はイギリス製で、旧幕府軍が台場に設置したもの。

 

 

 

そしてこちらの長い方は、旧幕府軍に撃沈された新政府軍の軍艦のもの。

どちらも、海中に沈められていたのが引き上げられて、こうして展示されています。

 

 

 

この白い倉庫は、奉行所建築当時から存在していた「兵糧庫」という建物で、通常は閉鎖されているのだけど、毎年8月のみ開放されています。

ということで、今週末、時間が作れそうなので、中をじっくり見て、改めて記事にしたいと思います。

 

 

 

 

「兵糧庫」と並んで二棟の木造建物が並んでいますが、ここで紹介したいのはこちらの幟。

「箱館奉行所珈琲」とありますが、これは、単に、奉行所が五稜郭にあった時代に振舞われていたというものではありません。

1856年当時、幕府の命により、北方警備のために、東北北部の藩士が蝦夷地に赴任してきましたが、寒さやビタミン不足などにより、多くの藩士たちが、当時は不治の病とされていた「浮腫(ふしゅ)秒」という、手足がむくんで痛んだり、胸が苦しくなって命を落とす病気)を患っていました。

その予防薬として箱館奉行所が導入したのが、輸入もののコーヒーだそうで、これが、日本国内において、初めて庶民が口にしたコーヒーであるという説があります。

このエピソードに関しては、最北の地である稚内においても、箱館と同様の理由によるコーヒーが広く普及していたそうで、稚内市内には、コーヒーを飲むことができずに亡くなっていった藩士達を悼み、その後、薬としてコーヒーを大切に飲んだであろう先人達に思いを馳せて建立された記念碑があるんだそうです。

 

 

そんな歴史のあるコーヒーが振舞われているお休み処。

結構行列もできる人気スポットになっています。

 

 

奉行所を離れ、北側の裏門へ向かいます。

 

 

 

 

裏門側に建っているこの碑。

先日、「男爵薯」の歴史について、「川田龍吉」という人物のエピソードを紹介していましたが、大正期以降、凶作や不況、戦争などによる食糧難で苦しむ人々を救ってきた男爵薯と、川田男爵に対する人々の限りない敬意の念を込めて、このような碑が、1947年に建てられています。

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五稜郭跡~2~

2024-08-04 16:11:19 | 函館

 

昨日もそうでしたが、この写真を撮った日も、なかなかのカンカン照りでした。

この日はまだそれほど気温は高くなっていませんでしたが(25℃くらいだったかと)、蒸し暑さは今よりもちょっと弱いかなぐらいのレベルまで上昇していたので、体調に気を遣いながら先を目指しました。

 

 

お堀を跨ぐ「二の橋」を渡って、先へと向かいます。

 

 

 

そこには、「箱館奉行所」の看板が。

先日の「五稜郭跡~1~」で書いたとおり、1864年、現在の「元町公園」から、この地に奉行所が移ってきました。

幕末の話なので、まだ「函館」ではなく「箱館」の表記になっています。

五稜郭をガイドするときには、ここで「箱館」が「函館」に変わった経緯を話すことになろうかと思います。

 

(「箱館」が「函館」に変わった経緯)

 

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五稜郭を構成している土塁や石垣について、この解説板に「安山岩」という言葉が見られますが、これは、現在の函館山が、かつては活火山だったことに由来しています。

 

 

ガイド用に使っている「ブラタモリ」書籍版からの抜粋。

函館山が海底火山の噴火によって誕生したという歴史は、皆さん興味深く感じていただけているようです。

タモリさんなら、石垣を一目見ただけで、解説板に書かれている経緯を言い当ててしまうんだろうなと思います。

 

 

このトンネルは藤棚です。

 

 

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通り抜けるとそこにはまた大きな石垣が。

これは、この先にある奉行所の目隠してきな役割となっている「見隠し塁」と呼ばれるもので、正門を突破してやって来た敵を、左右どちらに進んだらよいものかと混乱させる狙いもあったとされています。

 

 

実際は、左右どちらからでも奉行所には辿り着けるのですが、観光の定番コースは向かって左側の方です。

その先には何が・・・?

 

 

このような碑があります。

何度か、その時々のテーマに絡めて紹介してきたことがありますが、「武田斐三郎(たけだあやさぶろう)」という人物の功績を称える碑です。

幕末期の箱館において大きな足跡を残している人物ですが、五稜郭においては、フランスから入手した資料をもとに、五稜郭を設計した人物として知られています。

 

1855年6月、フランス軍艦の艦内で多くの病人が発生し、箱館へ入港して療養の許可を求めました。

当時、フランスとの間ではまだ条約が結ばれていませんでしたが、当時の箱館奉行は、人命最優先ということで上陸を許可し、多くの乗組員たちの命が救われました。

その後、この件に恩義を感じたフランス側からの返礼として提供された資料をもとに、五稜郭が設計されることとなったと言われています。

 

 

顕彰碑の顔の部分が、首から下と違って、テカテカと照り輝いています。

これは、この武田斐三郎が「東洋のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と呼ばれるほど、幅広い分野、学問に精通していた人物であったことから、それにあやかって、この碑の頭を撫でると頭が良くなるという、言い伝えというか都市伝説というかという話が広まり、ここを訪れる観光客が、かなりの高確率で、頭(だけでなく顔も)を撫でていくことから、このように照り輝いているものと言われています。

武田斐三郎の箱館における足跡については、これに絞って別な記事を書きたいと思います。

 

 

2010年に復元された「箱館奉行所」。

大政奉還により、江戸幕府から明治新政府に引き継がれましたが、箱館戦争において、榎本武揚を筆頭とする旧幕府軍に占拠され、箱館戦争終結後の1871年に解体されてしまいました。

再建に当たっては、建築当時の写真や図面をもとに建物の寸法が正確に測定され、当時の3分の1という大きさではありながらも、当時の様子がしっかりと再現されています。

 

 

 

 

この一番高い部分は、太鼓を叩いて時を知らせる「太鼓櫓」と呼ばれる部分。

当時は、高い建物はもとよりこの高さに匹敵する高い山などもなかったことから、箱館戦争当時は、ここから、箱館港に入港する明治新政府の軍艦を見渡すことができました。

しかし、このことが落とし穴となって、旧幕府軍の敗退に繋がったとされています。

どういうことかというと、ここから港が見渡せるということは、逆にいうと、港からも、この櫓を見渡すことができたことを意味しています。

先日の「五稜郭跡~1~」で、奉行所から元町から五稜郭へ移転を余儀なくされた理由のうち、「『(ペリー一行が乗っていた黒船からの)大砲が届かない』については、別な記事で関連エピソードを記しますので、覚えておいていただけるとありがたいです」と書きました。

確かに、ペリーが来港した1855年当時は、港から約3.5km離れていた五稜郭まで、大砲が届く心配はなかったのかもしれませんが、その後の大砲技術の進化により、箱館戦争においては、明治新政府の軍艦から放たれた対応が、奉行所に命中してしまったのです。

このことが旧幕府軍の戦意を喪失させ、最終的に敗北を認めて、新政府に降伏するきっかけになったとされています。

 

 

 

建物が再現されていないこの場所も、かつての奉行所全体の跡地です。

 

 

 

1871年に奉行所が解体された後は、1914年に「五稜郭跡」が公園として開放され、現在は、多くの観光客がやって来る函館を代表する観光スポットとなっています。

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五稜郭跡~1~

2024-08-02 20:29:49 | 函館

 

五稜郭編の続きをアップします。

明日もまた予定が入っているので、復習も兼ねてということで。

 

こちらの石碑のとおり、「五稜郭跡」は、国の特別史跡に指定されています。

「史跡」とは、「古墳、貝塚、城跡、集落跡などの遺跡で、歴史上、学術上の価値が高いもの」とされ、、直近のデータでは、日本全国で1,895件が指定を受けていますが、その中でも特に学術上の価値が高く日本の文化を象徴するものを、文化財保護法に基づいて、文部科学大臣が「特別史跡」に指定しています。

現在、日本国内で「特別史跡」に指定されているのは63件で、北海道ではこの「五稜郭跡」だけ。また、歴史上最も新しいものも、1864年に完成した「五稜郭跡」だけとなっています。

「五稜郭跡」は、1922年に「史跡」として指定された後、1952年に「特別史跡」に指定されています。

 

日本の特別史跡一覧 - Wikipedia

 

 

 

星形の城郭とされる「五稜郭」は、フランスから入手した西洋式城郭の設計図を基に設計され、このような形となっています。

フランスからの情報提供の経緯は、別な記事で改めて書きたいと思いますが、このような西洋式の城郭を築くこととなったのは、鎖国政策を解いた直後の日本にあって、欧米諸国とのあらゆる面での歴然とした格差を解消すべく、日本の軍事力、技術力を誇示したいという意図があったとされています。

 

 

「五稜郭」が作られた経緯は、1854年に締結された「日米和親条約」に基づき、翌年、ペリー提督一行が箱館に来港したことに遡ります。

当時、蝦夷地と呼ばれていた現在の北海道には、唯一の藩であった松前藩が存在していましたが、開国に伴い、松前藩だけでは、沿岸の防備や諸外国との対応は困難と判断した江戸幕府は、箱館に「箱館奉行」を置いて、蝦夷地の直轄管理に乗り出します。

当時、「箱館奉行所」は、現在の「元町公園」の辺りにありましたが、ペリー一行の来港を機に、移転を余儀なくされました。

どういうことかというと、来港に際し、黒船から、敬意を表する大砲が放たれたのですが、物凄い爆音が響き渡り、港から1kmも離れていなかった奉行所の建物は、大地震でも起こったかの如くガタガタと揺れたそうです。

加えて、港から5里(約20km)の範囲を外国人が自由に遊歩する権利が与えられたことで、箱館山の麓にあった奉行所は、山の上から見下ろされる危険性が生じました。

そうしたことから、大砲が届かない(当時の大砲の射程距離は約1km)、船が近づかない、外国人に見られない場所ということで、3.5km離れた現在地へ奉行所を移転させることとなりました。

 

 

大体こんな感じで奉行所を移転させることとなりました。

先程触れた移転を余儀なくされた理由のうち、「大砲が届かない」については、別な記事で関連エピソードを記しますので、覚えておいていただけるとありがたいです。

 

 

 

 

こちらのお堀は、幅約30m、深さは4mから5mで、「亀田川」という川から水を引いて作られました。

先程、奉行所が現在の「五稜郭跡」に移転した理由を3つ挙げましたが、もう一つ理由があって、それは、この「亀田川」の水が活用できる場所ということでした。

従来の奉行所は箱館山の麓にありましたが、元々の箱館山は、本土とは離れた火山島であったことから、奉行所があった当時は、相当深くまで掘り進めないと、生活に使えるだけの水を確保することができませんでした。そのこともあって、利水条件に恵まれた「亀田川」の周辺が、移転先として選定されたとされています。

清水であった亀田川の水を利用して、かつては天然氷が製造され、東京や横浜へ向けて出荷されていたというエピソードもあります。

 

 

かつては、この堀で泳ぐこともできたそうですが、「特別史跡」に指定された現在はそんなことはできません。

大阪の道頓堀は、阪神タイガースが優勝すると多くのファンがダイブすることで有名ですが、ここでは、北海道日本ハムファイターズが優勝しても、そんなことは絶対にしてはいけません。

 

 

橋を渡ってすぐの所にある石垣。

この石垣も、箱館山の麓から運ばれた火山岩を用いて作られています。

 

 

このような構造で、敵の侵入を防ぐことができるものとなっていますが、この場所の役割はそれだけではありません。

 

 

 

 

「半月堡(はんげつほ)」と呼ばれるこの場所は、上空から見るとこの位置にあります。

当初の計画では、郭内に5か所設置される予定でしたが、予算上の制約や工期短縮の狙いなどから、1か所にのみ作られました。

 

 

上っていくことができますので行ってみましょう。

 

 

ここから、正面入り口が見渡せます。この位置からどうしようとしていたかというと、

 

 

このような形で正面から侵入しようとする敵を攻撃することを想定していたそうです。

 

 

「半月堡」から見る五稜郭タワーも、遮るものが何もないこともあり、圧巻の景色です。

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