日々の雑感記によるヘボ・マイ趣味紹介です。
ダッペの悠友ライフ
チェッカーベリー・ビックベリーの実は、眼にいいんだって!!
産直の花木棚で、可愛い紅い実をつけた鉢を見つけました
名札にはビッグベリーと書かれていました
ビックベリーは大実タイプのチェッカーベリーを呼ぶようです
チェッカーベリーはツツジ科ゴーテリア属の常緑低木で、原産地は北アメリカの東北部です
開花期は5月~8月、 結実期は9月~翌年春までです
日当たりと風通しの良いところを好み、夏にかわいい白い花が咲き、9月頃実が赤く色づき始め、次第に寒くなると葉がブロンズに紅葉します
赤い実の可愛いさ、紅葉の装いはクリスマスの雰囲気にピッタリって感じです
「ベリー」という呼び名は、植物学的な定義としては、単一の子房から生み出されるブドウのような多肉果のものをそう呼ぶようです
「ベリー」は日本語では漿果(しょうか)とも訳され、多肉果で最も一般的な種類で、全体の子房壁が食べられる果皮へと成熟します
因みに日常的に「ベリー」と呼ぶのは、イチゴ(ストロベリー)、ブルーベリー、ラズベリー、セイヨウスグリ(グーズベリー)、ブラックベリー、クランベリーなど、多肉質の小果実の総称のようです
冬の実物はセンリョウ、マンリョウ、ヤブコウジなどが多く利用、知られていますが、チェッカーベリーは、草丈が低くこんもりと密に茂り、実も大きいので寄せ植えの材料として使いやすい上、更に日陰のグラウンドカバーにもなると最近人気の植物だとたくさん売られるようになっています
尚寄せ植えには、ビオラやアリッサム、ハボタンなどとの組み合わせ、さらにはシルバーリーフなどのさまざまな葉ものと組み合わせて、クリスマスや正月用の飾りに利用されています
寒さにあうと葉色は赤みを帯び、更に赤味を増した5裂した実はチャーミングそのものです
この果実は真っ赤に熟すと、食用にもなります
あまりおいしくないと云う事なのですが、最近ブルーベリーの10倍もの目の効用があるとテレビの宣伝で舗装されているのを見ました
老眼になってきたから、畑のブルーベリーの加えて、庭にチェッカーベリーを植えておいてみようかな
物好きおじさんにはピッタリかも
イヌホオズキを漢字では、 「犬酸漿」とも「犬鬼灯」とも書きます
早朝ウォーキングをしていて見つけたのですが、イヌホオズキの花です
まだ明けきらぬ明るさの中、しかも霜が降り始めてきた寒さの中で、小さなナスの花にも似た形で咲いていました
イヌホウズキの名は、ホオズキに似ていても役にたたないという意味からなのだそうだが、犬は役立つ動物だろうに・・・
ナス科の植物で、別名バカナスというのですが、これもナスではないことからだといいます・・・ナスはお利口さんって訳
とにかく周りの草が紅葉してきている寒さなのに、びっしり咲いていました
イヌホオズキは世界の熱帯~暖帯に分布し、日当りのよい畑地などに生える草丈30~60cmほどになる1年生の有毒植物です
日本には古い時代に入ってきたものとも思われる史前帰化植物です
茎はまっすぐに立ち、よく分枝して、高さは20~60cmほどになり、まばらに短い毛を生じます・・・稀には無毛の場合もあるようです
葉は、長さ6~10cm、基部には1~5cmの翼を持つ葉柄があり、広卵形、葉質は少し厚く、縁は全縁か波形の鋸歯があります・・・発芽したばかりの葉はナスやトウガラシと類似です
茎の途中から花柄が伸び、先端に一見すると散房状に4~8個のナス状の花が付きます
花は、白色で花冠が5~7mm大で、5裂して平らに開きます
花後、柄は下垂して直径7~10mmの青い球形の果実が生ります
実は黒く熟し、甘い味がするそうです
但しイヌホオズキ“は、食用すると全草ソラニンなどを含む有毒植物であり、発汗、下痢、腹痛などを起こすそうで注意が必要です
イヌホウズキの 花言葉は、「 嘘つき 」 、「 真実 」 です
この花言葉の真意は、どちらにあるのでしょう
全草有毒なのが真実で、″ナス″ みたいな花を咲かせるので、ナスのようには食べれそうだといっているのかな・・・!?
世界遺産に登録を目指す群馬・藤岡の「高山社発祥地」を見てきました
世界遺産が各地に生まれています
群馬県でも、「富岡製糸場と絹産業遺産群」を世界遺産として登録すべく準備を進めています
世界遺産とは、1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて世界遺産リストに登録された、遺跡、景観、自然など、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ物件のことで、移動が不可能な不動産やそれに準ずるものが対象となっています
あまりにも身近な文化が、世界中の人たちにとって共有価値のある文化というのはちょっと考えにくいのですが、それだけの素晴らしい文化なのだと思えるとき何としても保存し、後世に伝えようと思うものなんでしょう
「富岡製糸場と絹産業遺産群」は、かって日本の先進工業を担った絹産業文化を伝え残そうとしたものらしいですが、遺産としては群馬の中でも各地に散らばっており、それをまとめた形にするのはなかなか大変のようです
遺産群を構成する中の一つに、国指定史跡の「高山社発祥の地」があります
群馬にいながら、話題の世界遺産候補をまだ見ていないのはちょっと遅れているかなと、「高山社跡」を見に行ってきました
高山社というのは、JR八高線の群馬藤岡駅の南西 8kmの処にあり、県道13号の“宿神田”交差点から西に曲がり,県道176号を3~4km進むと、右手に石垣を組み上げた上に一軒の大きな農家があります
駐車場から見た「高山社」玄関口です
駐車場には、看板が立てられていました
看板には、
「高山社発祥の地 Birthplace of Takayama-sha
世界遺産暫定リスト記載富岡製糸場と絹産業遺産群 」
ここは、幕末から明治時代の養蚕指導家 高山長五郎が生まれ育ち、養蚕研究に取り組んだ地です。
長五郎はこの地で「清温育」を考案しました。
清温育とは、暑い日には換気をし、寒い日には火気で蚕室を暖める蚕の飼育法です。
長五郎は蚕室の構造から間取り、蚕かごの配置、クワを刻む包丁の形や刻み方までも指導し、飼育技術の向上に努め、明治時代の末には全国に「高山社流清温育」が普及していったのです。
高山社は、明治34年に私立甲種高山社蚕業学校を市内に設立し、60以上の分教場、1,200人の生徒、4万人の社員を有する全国一の養蚕指導組織となりました
江戸時代末から明治時代前半に建てたと考えられる母屋、長屋門、賄小屋、外便所などの建物や桑貯蔵庫が残っており、わが国近代の養蚕業の発展を理解するうえで貴重であることから、2009年(平成21年)に国の史跡に指定された
とありました
玄関口を潜ると、中庭があり紅葉がきれいでした
高山社跡 外観 (この屋は、「養蚕改良高山社」の創始者・高山長五郎(生没年1830~1886)の生家で、養蚕法「清温育」の研究と社員への指導を行っていた場所です)
明治時代、生糸は日本の重要な輸出品で、全国的に養蚕が盛んに行われ、飼育環境の改良が行われていました
自然の温度での飼育環境(“清涼育”)では病気で死んでしまうことが多いため、「清温育」として藤岡出身の高山長五郎が完成し全国に普及させたそうです
そのため「高山社」というのは、長五郎により改良された養蚕の飼育法「清温育」を全国に広めるために作った教育組織で、1884(明治17)年に開設し,明治30年代には全国から生徒が集まり,全国共通の養蚕技術として養蚕業の発展に貢献しました
1901(明治34)年にはこれを学校組織として“私立甲種高山社養蚕学校”を設立し、明治40年の最盛期には,62ヶ所の分教場に4万人の社員,1200人以上の生徒を抱えていたそうです
尚大正時代に入ると 新しい飼育法が開発されたため,高山社の清温育は衰退し,高山社は1927(昭和2)年に廃校となったそうです
技術の進歩は日進月歩とは言え、いかなる技術が出てきたのでしょう!?
高山社内母屋の内部です ( 二階が蚕室になっているのですが、見れませんでした )
往時の蚕育の様子、道具類が残されています
それにしても世界に残せる文化遺産という訳でなく、日本の文化遺産でもいいかも
群馬・富岡にある「妙義神社」の紅葉堪能です
先日「碓氷湖」から「アプトの道」にある「めがね橋」を見ての帰り、R18からハンドルを上毛三山の一つ妙義山に向かって切りました
碓氷峠よりは紅葉はまだまだ十分見れましたが、ちょっと遅い感じだったのが残念でした
行きたかった目的は、妙義山信仰の中心になっている「妙義神社」の紅葉見です
「妙義神社」は、群馬・富岡市妙義町にあり、妙義山の東麓に鎮座しています
「妙義神社」は『日本三代実録』に記載されており、それには古くは「波己曽(はこそ)神社」と呼ばれていたそうです
神社の創建は、宣化天皇2年(537年)と伝わっており、現在の社殿は、宝暦年間(1751年~1764年)の改修されたものだそうですが、見ごたえ期待一杯で見てきました
尚「波己曽(はこそ)」とは、「岩社(いわこそ)」の意だそうです
1030(長元3)年こ ろ上野国司によって記された『上野国交替実録 帳』には社殿の記載がなく、神の依代(よりしろ)となっていた岩に 三重の垣を廻らしていただけだったようです
その依代の岩は、現 在の妙義神社の本殿北の影向岩(えいごういわ)であったと考え られ、「波己曽社」は以前はこの岩に接してあったそうです
「波己曽」の神様から「妙義神」への変化は、中世の神仏習 合が進み、この岩神の本地を大日如来とするよ うになって、仏教的な神名に変わったとされているそうです
「妙義神社」の大鳥居を潜って参道を歩くと、前方に総門が見えてきます
参道周囲の紅葉は散って来てはいますが、まだ紅さを十分保っていました
枯れたように枝を垂らしているのは、枝垂れサクラです
参道横に植えられている様子は春はさぞ見事だろうなと思わせてくれました
妙義神社入口で見たオオモミジ (向かって奥妙義山)
総門(国指定重文) : 元白雲山石塔寺の仁王門で高さ12m、切妻造りの八脚門です
総門裏:境内はイチョウが一杯の黄色じゅうたんを作ってました
「波己曽(はこそ)神社」(県重要文化財):社殿は妙義神社の旧本殿です
総門をくぐり、境内に入る( 上左画像)と、また青銅の大鳥居 (下
画像) が続いています
鳥居右手は、「波己曽神社」( 上右画像) が鎮座しています
石段の参道が続き、周囲の杉の大木の向こうに、本殿の豪華な屋根が見えてます
妙義山は上毛三山(赤城山、榛名山、妙義山)の1つで、その特異な景観から、古くから山岳信仰や自然崇拝的な信仰の対象として広く知られる存在でした
青銅の大鳥居をくぐって、石段を上がって、唐門をくぐると本殿が眼の前に迫ります
豪華絢爛のたたずまいです
本社は上毛の日光と言われるほど見事な彫刻があり、柱の金箔の龍や、羽目板壁の鳳凰は圧巻でした
本殿裏山の紅葉は初冬になってきたとはいえ、まだまだ見事で、本殿の絢爛さに色添えていました
「妙義神社」は山岳信仰からの神社であり、自然への崇拝から出来た神社です
下りながら、見上げた本殿社の姿はとても荘厳に見えました
今回はあわただしく見てきましたので、また今度来てみたい神社です
掃き掃除をしていた神社の作務のひとは、春の桜を是非おいでと誘ってくれました
妙義神社の姉妹神社ともいえる中の岳神社と併せ、春になったら来てみようかな
群馬・碓氷第三橋梁(めがね橋)の秋
昨日に続いて・・・
「碓氷湖」で紅葉を見て、旧国道R18の峠道を更に上って、車 を走らせました
「碓氷湖」から、ほんの一分足らずのところで、通称「めがね橋」として親しまれている煉瓦アーチ橋があります・・・(➝横川からバイパスではなく、旧R18道を軽井沢に向け進み、カーブ33個目(C33)の地点、右手です)
旧道R18から見上げた「めがね橋」 ・・・ 紅葉も間もなく終わりに近づいているようです
「めがね橋」は、旧JR信越本線の横川・軽井沢間につくられた正式名称・「碓氷第三橋梁」といわれる径間数4、長さ91m、川底からの高さ31mあり、わが国最大の煉瓦づくりアーチ橋です
峠越えのためのアプト式鉄道を支えるため1892年(明治25年)に完成したものですが、碓氷川に架かる芸術と技術が融合した美しい4連のレンガ造りアーチ橋です
建設に使用したレンガは約200万個に及ぶそうですが、どこから持ってきたのでしょう・・・私的には性分でインフラが気になります
電化が進むにあたり、1963年に新線が開通され、アプト式鉄道が廃止となりました
その後平成5年に我が国初の重要文化財に指定され、平成13年廃線跡を利用した 遊歩道「アプトの道(=横川駅~熊ノ平駅の間の約6kmを遊歩道)」 として整備され、現在は橋上をも歩くことができるようになっています
尚、「アプトの道」は、国の重要文化財である旧丸山変電所 をはじめ4つの橋梁と10の隧道があり、「めがね橋」を代表する鉄道煉瓦構造物群などの碓氷峠鉄道遺産にふれることができます
橋梁下で見上げる ・・・レンガの重量感にすごい威圧感がありました
晩秋の陽ざしの中で、碓氷川の渓谷に古色のくすむ赤色レンガ橋梁が描くアーチはとても素敵な景観でした
一昔前、春夏秋冬、この自然豊かな中を煙を吐きながら通ったであろう蒸気機関車の姿を想像すると、胸が高まる感じがします
「めがね橋」上から、横川側トンネルを見る
橋梁下にあった「めがね橋」 説明看板
当アプト式鉄道は、1882年に鉄道作業局技師長としてイギリスから日本に招聘されたイギリス人技師のパウナルと古川晴一の設計だそうですが、当時では世界でも山岳鉄道の最先端技術として脚光を浴びたそうです
尚、アプト式の技術はスイスのロマン・アプトが発明し、ドイツで実用化されていました
この方式は中央に敷いたラックレールと呼ぶギアと、機関車に取り付けたピニオンギアを噛(か)みあわせて進む方式で、急坂地の鉄道向けに考えられたものですが、部品製造も大変な技術が必要です
当線は1891(明治24)年6月に着工し、重機もない時代、約1万5000人もの工夫を動員する人海戦術で、区間にある26のトンネルと18の橋をわずか1年半で完成させたというから、すごい速さです
建設費は200万円、横川駅近くに500人の殉職者を供養する招魂碑が建っているそうですが、国を興すという事は鳥肌の立つ思いです
碓氷線の開通によって太平洋側と日本海側が鉄路で結ばれ、最大の輸出品であった生糸などの物資輸送が容易になり、おおきな経済効果を生みました
ふとこの話から、日本列島改造論を唱え、高速道路を推進した昭和の首相「田中角栄」を思い出しました
群馬・安中「碓氷湖」周りの秋景です・・・キイロスズメバチの巣もありました
先日、群馬と長野の県境にある碓氷峠方面の紅葉がきれいらしいから行ってみたらどうかと、友人が教えてくれました
そんな情報を聞くと、矢も楯もたまらず、R18を長野方向にひとっ走りしてきました
峠を越えると、浅間山麓で、浅間山の冠雪があってしばらくたっていますから、碓氷湖辺りの紅葉ががどうだろうかと一目散です
「碓氷湖」は、群馬県安中市にある湖で、利根川水系碓氷川に建設された坂本ダムによって形成される人造湖(ダム湖)です
坂本ダムは本来、1958年(昭和33年)度に建設省(現・国土交通省)による砂防事業の一環として建設されたもので、高さ28.5m、堤頂長74mの砂防ダムだそうですが、近くを流れる中尾川と碓氷川の合流点を堰き止めて作った人工湖です
その周囲四方は国有林の大きな樹木林に覆われ、山中にある湖の感じはとてもきれいです
ダム側から見た碓氷湖 (向かって正面に見える山並みは軽井沢に続いています)
碓氷湖は、旧国道18号、信越本線のアプト式鉄道で有名だった碓氷峠の群馬県側にあり、ダム改築と同時に碓氷湖の周辺整備も行われ、この折湖岸を一周する遊歩道(➝約1.2km=約20分)が整備されました
特にダム上の橋や湖を渡る橋梁は、明治風のデザインで作られ、この時期の紅葉と見事にマッチして見えました
訪ねたこの日の碓氷湖は、実に静かでした
晩秋の陽ざしが紅く照り映え、湖畔の紅葉を一段と色増しているように見えました
坂本ダム上の橋です
遊歩道途中から、ダム側を見ました
全体の紅葉は、時期を過ぎたようです
木々のたたずまいは近づく冬を迎える準備が進んでいるようで、晩秋の陽ざしで精いっぱいの輝きに見えました
ちょっと前はさぞや綺麗な紅葉だったでしょう
人生の晩年を思わせました
湖畔の紅葉の美しさは、童謡唱歌「もみじ」の元になったのだそうで、湖岸には歌碑が建てられていました
童謡唱歌『もみじ』は、高野辰之(=長野県出身)が作詞したもので、1911年(明治44年)『尋常小学唱歌』にて発表されたものだそうです
作詞者の高野辰之は、碓氷峠にある信越本線熊ノ平駅(現在は廃線)から紅葉を眺め、その美しさに惹かれてこの詞を作ったといわれています
湖畔を散策していたら、葉の落ちた樹の上で奇妙なものを見つけました (下画像 )
縦長のラグビーボールくらいの大きさです
どうもスズメ蜂(➝キイロスズメバチと思えます)の巣ではないでしょうか!?
随分高いところに作ったものです
時節柄葉が何にもついていないのでわかりませんが、この樹は枯れ木なのでしょうか!?
スズメバチはあまり立木の、しかも葉の茂った枝元に巣作りするとは・・・知りませんでしたからまさかです
尚スズメバチは、巣で越冬はしませんから、この巣は空き家です
来年はこの近くでまた巣作りするかもしれませんから、「碓氷湖」を訪問の方は注意要ですよ!!
群馬・甘楽町にある「宝積寺」の秋・・・宝積寺は織田信長ゆかりのお寺です
昨日に続いて・・・
甘楽町の「長厳寺」の磨崖仏を見て更に、甘楽の奥・秋畑方向に足を運びました
向かった先は、車で10分くらいの処にある曹洞宗・「鷲令山 寶(宝)積寺」です
「宝積寺」はその由緒によると、創建は不明になりますが、現在のお寺より南に4キロ行った山の中腹にある天寿庵(てんじゅあん)と言う庵が始まりとされています
お寺の境内には、弘安三年(1280年)、正安四年(1302年)、延慶二年(1309年)の板碑が建立されているので、その時代にはすでに天台宗の寺として、広い寺領を持ち、栄えていたようです
宝徳二年(1450年)に、領主の小幡実高(おばたさねたか)が中興開基となり、茨城県東昌寺の即庵宗覚禅師を請いて曹洞宗として再興され、小幡氏が滅ぶと、元和2年(1616年)に織田信長の孫「織田信良」が小幡藩の藩主となり、菩提寺を「宝積寺」と定めたそうです
宝積寺は、現在新上州三十三観音霊場 十九番札所として、また東国花の寺百ヶ寺の一つとして知られています
花の寺として名を成しているのは、本堂前に植えられた樹齢140年の枝垂れサクラです
今は秋なので残念ながらサクラの花は見る事ができませんでしたが、参道を上がっていったところにはイチョウの巨木が、見事に黄葉しており、充分堪能できました
モミジも沢山植えられており、春の桜に負けない景観です
晩秋の陽ざし降り注ぐ境内の紅葉・黄葉です
石垣の参道から見た宝積寺 (正面奥 本堂)
大イチョウ (根元には、一杯の銀杏が落ちていました)
「宝積寺」の元は、国峰城を拠点とした豪族・小幡氏の菩提寺でありました
寄りませんでしたが、本堂の裏手の高台には、小幡氏累代の墓があり、その傍らには「菊女とその母の墓」があるそうです
菊女とは、時の城主小幡信貞の腰元として寵愛されていましたが、それに嫉妬した正室や他の腰元から無実の罪に陥れられ、菊が池で蛇や百足を入れた樽に押し込められ、無惨にも「蛇責めの刑」にさせられてしまったそうです
何ともむごい事をするものです
伝承によると、処刑の際菊女の助命嘆願をしたのが宝積寺の住職で、菊女を救い出したが、既に事切れていたとされています
これが天正14年(1586年)のこととして伝わっており、それから4年後に豊臣秀吉の小田原攻めがおこなわれ、小幡氏は北条氏滅亡と共に歴史の表舞台から消えていきました
その後、菊女の悲しさを悼み追善供養が行われ、「菊女観音」として祀られ現在に至っているそうです
この事件はいわゆる「番町皿屋敷」のモデルになった出来事だそうです
群馬・甘楽町にある「長厳寺」の秋・・・「磨崖仏」があります
先だって群馬・富岡方面の里の秋を探訪していて、甘楽町小畑地区にある2~3変わったビューポイントを見つけました
まずは天台宗・「長厳寺」の磨崖仏です
群馬・甘楽町は織田宗家の城下町として知られ、風情の有る街並みを有するちょっとした観光地で、その街並みの南端の山裾に「長厳寺」は有ります
「長厳寺」の山門には、厄除開運 観世音菩薩と木札を下げ、境内には本堂前に薬師堂が在り厨子の扉を開けて薬師様を見せています
本堂は横棟に入母屋の向拝を出し白壁を多く付けて銅板葺き屋根です
訪ねたこの日はお天気が良かったせいか落ち葉が積もっていましたが、枝に残ったモミジ葉は陽に映えて色鮮やかに見えました
「長厳寺」前の駐車場に車を停め、山門に向かってパチリ!! しました
5m程の石段を登って山門を潜り、境内に入り本堂を右手にぐるっとめぐると、本堂と庫裏の間には、方丈か書院のような建物があり、さらに裏山に堂が見えます
本堂の裏側の方に行くと観音堂に至ります
この観音堂は正面が崖になっており、横からしか写真を撮ることができません
長厳寺・山門
観音堂 中は見ませんでしたが、「毘沙門天」を飾っていると思われます
観音堂前のモミジが見事な秋を演出していました
さらに奥に行くと、道は裏山に続いていきます
この道は石を積んで古代の山城を築くように造られた急な坂道で、運動不足の最近は息が切れました
坂道を上ると、大きな大仏の顔が彫られていました
各地に磨崖仏はあるようですが、顔だけが彫られ、かくも巨大な大きさの磨崖仏はあえて国内最大と云えるのかもしれません (➝顔の大きさは縦10m*横8mとの事です)
以前見に来たことがあり、この磨崖仏は昭和60年頃甘楽住まいの人が、彫り上げたものだと知りましたが、あの折見た時より風化が若干進んでおり、歴史を帯びてきたように思われます
磨崖仏の表情は、割りに平面的で、造形的にもう少し何とかならないかといった評価があるようですが、私にはこの角度で見上げたお顔はとても優しいいい表情だなと思えました
歳を経ると、もっといい表情になるのではないでしょうか!?
磨崖仏に上がる石段の途中に、こんなものが設置されてました (下画像左)
磨崖仏の下には、参拝用のテ濯ぎ場らしいものがありました そして足元の彫り物は何でしょう
落ち葉が溜まり森閑としたところで、磨崖仏は何を見つめているのでしょう
霊気が漂うようになってきているようなイメージです
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