日々の雑感記によるヘボ・マイ趣味紹介です。
ダッペの悠友ライフ
世界遺産に登録を目指す群馬・藤岡の「高山社発祥地」を見てきました
世界遺産が各地に生まれています
群馬県でも、「富岡製糸場と絹産業遺産群」を世界遺産として登録すべく準備を進めています
世界遺産とは、1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて世界遺産リストに登録された、遺跡、景観、自然など、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ物件のことで、移動が不可能な不動産やそれに準ずるものが対象となっています
あまりにも身近な文化が、世界中の人たちにとって共有価値のある文化というのはちょっと考えにくいのですが、それだけの素晴らしい文化なのだと思えるとき何としても保存し、後世に伝えようと思うものなんでしょう
「富岡製糸場と絹産業遺産群」は、かって日本の先進工業を担った絹産業文化を伝え残そうとしたものらしいですが、遺産としては群馬の中でも各地に散らばっており、それをまとめた形にするのはなかなか大変のようです
遺産群を構成する中の一つに、国指定史跡の「高山社発祥の地」があります
群馬にいながら、話題の世界遺産候補をまだ見ていないのはちょっと遅れているかなと、「高山社跡」を見に行ってきました
高山社というのは、JR八高線の群馬藤岡駅の南西 8kmの処にあり、県道13号の“宿神田”交差点から西に曲がり,県道176号を3~4km進むと、右手に石垣を組み上げた上に一軒の大きな農家があります
駐車場から見た「高山社」玄関口です
駐車場には、看板が立てられていました
看板には、
「高山社発祥の地 Birthplace of Takayama-sha
世界遺産暫定リスト記載富岡製糸場と絹産業遺産群 」
ここは、幕末から明治時代の養蚕指導家 高山長五郎が生まれ育ち、養蚕研究に取り組んだ地です。
長五郎はこの地で「清温育」を考案しました。
清温育とは、暑い日には換気をし、寒い日には火気で蚕室を暖める蚕の飼育法です。
長五郎は蚕室の構造から間取り、蚕かごの配置、クワを刻む包丁の形や刻み方までも指導し、飼育技術の向上に努め、明治時代の末には全国に「高山社流清温育」が普及していったのです。
高山社は、明治34年に私立甲種高山社蚕業学校を市内に設立し、60以上の分教場、1,200人の生徒、4万人の社員を有する全国一の養蚕指導組織となりました
江戸時代末から明治時代前半に建てたと考えられる母屋、長屋門、賄小屋、外便所などの建物や桑貯蔵庫が残っており、わが国近代の養蚕業の発展を理解するうえで貴重であることから、2009年(平成21年)に国の史跡に指定された
とありました
玄関口を潜ると、中庭があり紅葉がきれいでした
高山社跡 外観 (この屋は、「養蚕改良高山社」の創始者・高山長五郎(生没年1830~1886)の生家で、養蚕法「清温育」の研究と社員への指導を行っていた場所です)
明治時代、生糸は日本の重要な輸出品で、全国的に養蚕が盛んに行われ、飼育環境の改良が行われていました
自然の温度での飼育環境(“清涼育”)では病気で死んでしまうことが多いため、「清温育」として藤岡出身の高山長五郎が完成し全国に普及させたそうです
そのため「高山社」というのは、長五郎により改良された養蚕の飼育法「清温育」を全国に広めるために作った教育組織で、1884(明治17)年に開設し,明治30年代には全国から生徒が集まり,全国共通の養蚕技術として養蚕業の発展に貢献しました
1901(明治34)年にはこれを学校組織として“私立甲種高山社養蚕学校”を設立し、明治40年の最盛期には,62ヶ所の分教場に4万人の社員,1200人以上の生徒を抱えていたそうです
尚大正時代に入ると 新しい飼育法が開発されたため,高山社の清温育は衰退し,高山社は1927(昭和2)年に廃校となったそうです
技術の進歩は日進月歩とは言え、いかなる技術が出てきたのでしょう!?
高山社内母屋の内部です ( 二階が蚕室になっているのですが、見れませんでした )
往時の蚕育の様子、道具類が残されています
それにしても世界に残せる文化遺産という訳でなく、日本の文化遺産でもいいかも