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群馬・甘楽町にある「宝積寺」の秋・・・宝積寺は織田信長ゆかりのお寺です

昨日に続いて・・・

甘楽町の「長厳寺」の磨崖仏を見て更に、甘楽の奥・秋畑方向に足を運びました

 向かった先は、車で10分くらいの処にある曹洞宗・「鷲令山 寶(宝)積寺」です

「宝積寺」はその由緒によると、創建は不明になりますが、現在のお寺より南に4キロ行った山の中腹にある天寿庵(てんじゅあん)と言う庵が始まりとされています

お寺の境内には、弘安三年(1280年)、正安四年(1302年)、延慶二年(1309年)の板碑が建立されているので、その時代にはすでに天台宗の寺として、広い寺領を持ち、栄えていたようです

宝徳二年(1450年)に、領主の小幡実高(おばたさねたか)が中興開基となり、茨城県東昌寺の即庵宗覚禅師を請いて曹洞宗として再興され、小幡氏が滅ぶと、元和2年(1616年)に織田信長の孫「織田信良」が小幡藩の藩主となり、菩提寺を「宝積寺」と定めたそうです

宝積寺は、現在新上州三十三観音霊場 十九番札所として、また東国花の寺百ヶ寺の一つとして知られています

花の寺として名を成しているのは、本堂前に植えられた樹齢140年の枝垂れサクラです

今は秋なので残念ながらサクラの花は見る事ができませんでしたが、参道を上がっていったところにはイチョウの巨木が、見事に黄葉しており、充分堪能できました

モミジも沢山植えられており、春の桜に負けない景観です

 

      晩秋の陽ざし降り注ぐ境内の紅葉・黄葉です  

 

    石垣の参道から見た宝積寺 (正面奥 本堂)                大イチョウ (根元には、一杯の銀杏が落ちていました)

「宝積寺」の元は、国峰城を拠点とした豪族・小幡氏の菩提寺でありました

寄りませんでしたが、本堂の裏手の高台には、小幡氏累代の墓があり、その傍らには「菊女とその母の墓」があるそうです

菊女とは、時の城主小幡信貞の腰元として寵愛されていましたが、それに嫉妬した正室や他の腰元から無実の罪に陥れられ、菊が池で蛇や百足を入れた樽に押し込められ、無惨にも「蛇責めの刑」にさせられてしまったそうです

何ともむごい事をするものです

伝承によると、処刑の際菊女の助命嘆願をしたのが宝積寺の住職で、菊女を救い出したが、既に事切れていたとされています

これが天正14年(1586年)のこととして伝わっており、それから4年後に豊臣秀吉の小田原攻めがおこなわれ、小幡氏は北条氏滅亡と共に歴史の表舞台から消えていきました

その後、菊女の悲しさを悼み追善供養が行われ、「菊女観音」として祀られ現在に至っているそうです

この事件はいわゆる「番町皿屋敷」のモデルになった出来事だそうです

 

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