ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

①韓国文学②韓国漫画③韓国のメディア観察④韓国語いろいろ⑤韓国映画⑥韓国の歴史・社会⑦韓国・朝鮮関係の本⑧韓国旅行の記録

昔の朝鮮の、「まげ」と網巾(マンゴン)

2010-06-28 21:23:21 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 →一つ前の、朝鮮の断髪令についての記事の関連事項です。

 「平家物語」「太平記」「南総里見八犬伝」等々の日本の古典や、「西遊記」「水滸伝」等々の中国の古典に親しむには、児童用の古典全集が読みやすく読み応えもあって、馬鹿にはできません。
 朝鮮の古典も(そんなに読んではいませんが)同様だと思います。

 私ヌルボが朝鮮時代の髪型について多少知ったのは、数年前、李朝後期の朴趾源(パク・チウォン.박지원.1737~1805)の小説「許生伝(ホセンジョン.허생전)」の児童向きリライト版を読んだのが最初です。

    
      【「許生伝」の児童版。

 学問に没頭するばかりの両班許生に対し、貧乏暮らしに堪え切れなくなった奥さんが「泥棒してでも稼いでおいで!」と罵倒する場面から始まるなかなかおもしろい物語でした。
 ※彼の住まいは、やっぱり貧乏両班が多く住んでいたという南山の麓となっています。
 ※あらすじ(줄거리)は韓国ウィキ(韓国語)にあります。

 物語の中で、許生が大儲けした方法というのが、網巾(망건.マンゴン)を買い占めて、値上がりした時に一気に売るというもの。
 網巾とは、髷(상투.サントゥ)の乱れを防ぐための網状の頭巾で、庶民のものは馬の毛、上流階級のものは人の毛髪を編んで作ったそうです。
 つまり、これがなくては朝鮮の男性は皆困ってしまうというものだったわけですね。
韓国の時代劇=史劇(사국.サグク)を見ると、いろんな形状のものがあるようです。(どこまで歴史考証がきちんとなされているかはよくわかりませんが・・・。)

    
     【時代劇に見る髷と網巾。

イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む(4) 断髪令が命取りとなった開化派政権

2010-06-28 21:22:39 | 韓国・朝鮮に関係のある本
 → イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む (予告編)
 → イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む(1) 虐殺される8ヵ月前の閔妃と会見。
 → イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む(2) 朝鮮半島のトラ
 → イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む(3) この本は韓国で・・・

 なにをかくそう、この数十年床屋さんに行ってません。(かなり大胆な告白!?)
 どうしてるかというと、自分でハサミを持ってジョキジョキ。いーかげんなもんです。
 基本的に「髪型なんてどーでもいいという考え」がある、というよりも、面倒くさがりなんですねー。
 したがって、髪にすごくこだわる人の気持ちには理解が及ばないといわざるをえません。

 ・・・ということで、今回のテーマ。

[オドロキその3]総理大臣金弘集は断髪令が仇となって殺害された。

 「朝鮮紀行」中で驚いたことのひとつは、朝鮮人の髪型に関することです。

 朝鮮にも、近代以前には日本のチョンマゲのように髷(상투)がありました。
 そしてまた、日本同様に、近代化の入口でその伝統習慣が否定されました。
 日本では1871(明治4)年の断髪令。正式には散髪脱刀令というのですが、厳密には髪型の自由化であり、ちょんまげを禁止したわけではありません。

 日本の場合、政府要人が岩倉使節団として海外視察したこともあって、少なくとも政府部内に強固に断髪に反対する守旧勢力もなく、民衆の抵抗もあったものの、この件独自で政治的に大きな混乱を招くことはありませんでした。(西南戦争をはじめとする士族の反乱と全然無関係とはいえないかもしれませんが・・・。) 
 明治天皇も1873年には散髪し、1876年頃には「ざんぎり頭が60%、チョンマゲが40%」といったところだったそうです。

 ところが、比較的スムーズにチョンマゲと別れた日本と対照的に、朝鮮の断髪令はあまりにも大きな政治的影響を惹き起こしてしまいました
 朝鮮で断髪令が下されたのは1895年12月30日。日本の24年後です。
 時の総理大臣金弘集らが進めていた甲午・乙未改革とよばれる一連の近代化政策の一環として行われたものです。
 しかしこれが民衆の猛反発を受けます。ウィキの「断髪令(朝鮮)」によると理由は2つ。
1つは「身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるはこれ、孝の始めなり」という儒教の教えに反するということ。もう1つは、「断髪令は日本の真似だ」という反日感情。
 しかし、「朝鮮紀行」には、それら以上に、朝鮮人にとって髷の存在がいかに重要なものであったかを実例をあげて強調しています。

 ・・・・「まげ」は99パーセント結婚とともに結われるものであり、結婚もせずに「まげ」を結う者は「半人前」のレッテルを貼られてしまう!
 ・・・・自家の子供に「まげ」を結わせようと父親をはじめ家族が決めると、聖人としての衣服、帽子、網巾(망건.髪の乱れを防ぐ頭巾)などが一家の財政の限度ぎりぎりまで費やしてととのえられ、儀式を行うのによい日時と、当日の主役が儀式中に向いていると吉となる方角を占星術師に撰んでもらう。(・・・以下、儀式のようすや、帽子等について詳述)
 ・・・・「まげ」には翡翠や琥珀やトルコ石の玉を飾ることがよくあり、おしゃれな若者は高価な鼈甲のくしを飾ったりもする。


 このように描写しつつ、イザベラ・バードは次のように結論づけています。

 ・・・・わたしは男性の身だしなみに関するもので朝鮮人の「まげ」ほど重要な役割を演じたり、丁重に扱われたり、固執されたりするものをほかに知らない。

 ことほどさように朝鮮人としてのアイデンティティにも関わる髷を否定する断髪令は、
 ・・・・朝鮮人を日本人と同じような外見にさせて自国の習慣を身につけさせようとする日本の陰謀だと受けとめられた。

 そして朝鮮全土で混乱や反対の暴動が起きます。

 ・・・・息子ふたりが断髪令にしたがったというので恥辱と嘆かわしさのあまり服毒自殺してしまった父親もいる。「まげ」ひとつで社会秩序はその根底から揺らぎだしたのである。
 ・・・・春川では命令を強制しようとした知事とその部下全員を住民が退去して殺害し、町とその周辺を占拠した。


 事態が悪化する中で、断髪令から2ヵ月余の1896年2月11日未明、国王高宗と皇太子は女官用の輿に載って王宮をひそかに脱出し、ロシア公使館に遷ります。露館播遷(ろかんはせん)=俄館播遷(がかんはせん)です。
 同日ロシア公使館で、高宗は「乙未事変(閔妃虐殺事件)の首謀者は容赦なく罰する」、「断髪令は朕の意に反して行われた。断髪は強要されるものではない」等を内容とする勅書を発しました。

 ・・・・これにつづき、同日何千人もの人々が断髪令撤回の布告文を読んでいる一方で、これまで数度にわたりその座に就いてきた首相(金弘集)と農工商務大臣が捕えられ、街頭で斬首された。怒り狂った暴徒は首相を「まげ」失墜の張本人とみなし、残虐きわまりないやり方で死体を切りきざみ侮辱した。べつの閣僚は日本兵に助けられ、そのほかの謀叛者は逃亡した。

 いやー、なんとも烈しい抵抗があったものです。
 露館播遷の前提として、具体的にこのような出来事があったとは知りませんでした。
 いくつもの衝撃的な事実を、イザベラ・バードは、冷静な筆致で書きとめています。