『吾妻鏡』六月十四日条の、
(7)信綱は一人、中島の古柳の陰にいたが、後を進む勇士が水に入って渡ろうとしたので分別を無くし、子息の太郎重綱を泰時の陣に遣わして言った。「軍勢を賜って対岸に渡ります」。泰時は援軍を出すように指示し、食事を重綱に与えた。(重綱は)これを賜って、また父の所に帰った。(信綱は)卯の刻にこの中島に着いていたが、援軍を待つうちに、重綱〔甲冑を身に着けず、馬にも乗らず、裸で帷子だけを頭に纏っていた〕が往復する間に時が経過したため、日の出の時となった。
は、事実関係は流布本とある程度重なっていますが、息子を泰時の許に送った理由など、流布本とはかなり異なりますね。
流布本では、
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佐々木、向の中島に打上たれば、子息左衛門太郎とて十五になりけるが、たうさきに白き帷〔かたびら〕を著、腰刀計を指て、太刀を頸に懸、父が馬の鞦〔しりがい〕の総〔ふさ〕に取付て来たり。父、見返て、「向の河端迄は有つれ共、是迄可渡とは不覚。如何なる子共あり共、己れに勝る子有まじ」と、親子が戦て、敵の〔かたき〕矢に中〔あて〕じと、馬を横に折ふさぎ、子を陰にぞ立たりける。去共〔されども〕すはだなれば、猶痛敷〔いたはしく〕、角ては如何が可有なれば、「己れいしうも渡たり。此後如何なる愛子を儲〔まうくる〕共、汝に不可思替。急〔いそぎ〕武蔵守殿に参て、『瀬踏みをこそ仕〔し〕をほせて候へ』と申せ」と云ひければ、左衛門太郎、只「御供仕候はん」と申ければ、信綱、柔かに云はゞよも帰らじと思て、「如何で参らでは可有ぞ。さては親の命を背くか」と被云て、力不及取て返して游ぎ渡り、武蔵守殿へ参て此由を申て、又取て返、親の跡を尋てぞ渡ける。されば大河を渡事三度也。洪水漲〔みなぎり〕出たる事なれば、流石に身も疲れて、被押入/\しければ、重代の太刀を首に懸たりけるが、重かりける間、惜は思へ共、取て河に投入て、身計游ぎ上りてぞ助りける。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/84605dda3072149bc83316aa7937a382
ということで、信綱の本当の目的は鎧も身に着けていない息子が敵の矢に当たるのを避けるため、息子へ命ずるための名目としては、泰時に「瀬踏みをいたしました」と報告せよ、という理由をつけています。
しかし、『吾妻鏡』では援軍の要請であり、こちらの方が理由としては自然ですね。
ただ、『吾妻鏡』にもちょっと分かりにくいところがあります。
まず、「依後進勇士入水欲渡失思慮」の解釈ですが、今野氏のように「後を進む勇士が水に入って渡ろうとしたので分別を無くし」でよいのか。
ここは思慮を失った主体は信綱ではなく、後から渡って来た勇士たちと考えることもできそうです。
また、もっと基本的な事実関係として、「夘刻。雖着此中嶋。重綱〔不着甲冑。不騎馬。裸而纏帷許於頭〕往還之間。依移剋。及日出之期也」がよく分りません。
信綱は「卯刻」に中島に着いているのに、息子の重綱が泰時の陣との間を往復している間に時が移り、「日出乃期」になったとしか読めませんが、承久三年六月十四日は新暦だと1221年7月4日なので、「卯刻」(午前五時~七時)には既に日の出となっているはずですね。
そもそも『吾妻鏡』では芝田兼義・春日貞幸・佐々木信綱・中山重継・安東忠家が宇治橋から「伏見津瀬」に向かったのが「夘三刻」(午前六時過ぎ)ですから、信綱が中島に「卯刻」に到着というのも変な感じがします。
真っ暗では芝田も「瀬踏」はできないでしょうから、芝田が「瀬踏」をしたのが日の出前後と考えるのが自然ではないですかね。
とにかく、このあたりの時間の流れは奇妙で、『吾妻鏡』編者に何か誤解があるように思われます。
さて、『吾妻鏡』六月十四日条は途中までだったので、もう少し見て行きます。
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武州招太郎時氏云。吾衆擬敗北。於今者。大将軍可死之時也。汝速渡河入軍陣。可捨命者。時氏相具佐久満太郎。南条七郎以下六騎進渡。武州不発言語。只見前後之間。駿河次郎泰村〔主従五騎〕以下数輩又渡。爰官軍見東士入水。有乗勝気色。武州進駕擬越河。貞幸雖取騎之轡。更無所于拘留。貞幸謀云。着甲冑渡之者。大略莫不没死。早可令解御甲給者。下立田畝。解甲之処。引隱其乗之間。不意留訖。信綱者。雖有先登之号。於中島経時刻之間。令着岸事者。与武藏太郎同時也。排大綱者。信綱取太刀切棄之。兼義乗馬雖中矢斃。依為水練。無為着岸。時氏揚旗発矢石。東士官軍挑戦争勝負。東士已九十八人被疵云々。武州。武藏前司等乗筏渡河。尾藤左近将監令平出弥三郎壞取民屋造筏云々。武州着岸之後。武蔵相摸之輩殊攻戦。【後略】
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm
ここも私訳では若干不安なので、『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信氏の訳を借用した上、参照の便宜のために細かく段落を分け、番号を付すと、
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(8)泰時は太郎(北条)時氏を招いて言った。「わが軍は敗北しようとしている。今となっては大将軍が死ぬべき時である。お前は速やかに河を渡り、(敵の)陣中に入って命を捨てよ」。時氏は佐久満太郎(家盛)・南条七郎(時員)以下の六騎を率いて進み渡った。
(9)泰時は言葉を発することなくただ前後を見ていると、駿河次郎(三浦)泰村〔主従五騎〕以下の数人もまた渡った。
(10)その時、官軍は東国武士が水に入るのを見て、勝ちに乗じる気配があった。
(11)泰時が馬を進めて河を越えようとした。貞幸は(泰時が乗る)馬の轡を取っていたが、まったく押し止めることができなかった。貞幸は思いをめぐらして言った。「甲冑を着て渡る者は、多くが水に沈み死んでいます。速やかに御鎧を脱がれますように」。(泰時が)田に下り立って鎧を脱いでいたところ、(貞幸が)泰時の乗る馬を隠したので(泰時は)心ならずも留まった。
(12)信綱は先陣をしたものの、中島で時を過ごしたので、岸に着いたのは武蔵太郎(時氏)と同時であった。大綱を取り除くため信綱は太刀を取ってこれを切り捨てた。
(13)兼義の乗る馬が矢に当たって倒れたが、泳ぎが達者であったため無事に岸に着いた。
(14)時氏は旗を高く掲げて矢を放った。東国武士と官軍は挑み合って勝負を争い、東国武士は既に九十八人が負傷したという。
(15)泰時・武蔵前司(足利義氏)らは筏に乗って河を渡った。尾藤左近将監(景綱)が平出弥三郎に命じて民家を取り壊し、筏を造らせたという。泰時が岸に着いた後には、武蔵・相模の者が特に攻めて戦った。
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となります。(p118以下)
検討は次の投稿で行います。