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野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その18)

2023-06-04 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

『吾妻鏡』六月十四日条の、

(7)信綱は一人、中島の古柳の陰にいたが、後を進む勇士が水に入って渡ろうとしたので分別を無くし、子息の太郎重綱を泰時の陣に遣わして言った。「軍勢を賜って対岸に渡ります」。泰時は援軍を出すように指示し、食事を重綱に与えた。(重綱は)これを賜って、また父の所に帰った。(信綱は)卯の刻にこの中島に着いていたが、援軍を待つうちに、重綱〔甲冑を身に着けず、馬にも乗らず、裸で帷子だけを頭に纏っていた〕が往復する間に時が経過したため、日の出の時となった。

は、事実関係は流布本とある程度重なっていますが、息子を泰時の許に送った理由など、流布本とはかなり異なりますね。
流布本では、

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佐々木、向の中島に打上たれば、子息左衛門太郎とて十五になりけるが、たうさきに白き帷〔かたびら〕を著、腰刀計を指て、太刀を頸に懸、父が馬の鞦〔しりがい〕の総〔ふさ〕に取付て来たり。父、見返て、「向の河端迄は有つれ共、是迄可渡とは不覚。如何なる子共あり共、己れに勝る子有まじ」と、親子が戦て、敵の〔かたき〕矢に中〔あて〕じと、馬を横に折ふさぎ、子を陰にぞ立たりける。去共〔されども〕すはだなれば、猶痛敷〔いたはしく〕、角ては如何が可有なれば、「己れいしうも渡たり。此後如何なる愛子を儲〔まうくる〕共、汝に不可思替。急〔いそぎ〕武蔵守殿に参て、『瀬踏みをこそ仕〔し〕をほせて候へ』と申せ」と云ひければ、左衛門太郎、只「御供仕候はん」と申ければ、信綱、柔かに云はゞよも帰らじと思て、「如何で参らでは可有ぞ。さては親の命を背くか」と被云て、力不及取て返して游ぎ渡り、武蔵守殿へ参て此由を申て、又取て返、親の跡を尋てぞ渡ける。されば大河を渡事三度也。洪水漲〔みなぎり〕出たる事なれば、流石に身も疲れて、被押入/\しければ、重代の太刀を首に懸たりけるが、重かりける間、惜は思へ共、取て河に投入て、身計游ぎ上りてぞ助りける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/84605dda3072149bc83316aa7937a382

ということで、信綱の本当の目的は鎧も身に着けていない息子が敵の矢に当たるのを避けるため、息子へ命ずるための名目としては、泰時に「瀬踏みをいたしました」と報告せよ、という理由をつけています。
しかし、『吾妻鏡』では援軍の要請であり、こちらの方が理由としては自然ですね。
ただ、『吾妻鏡』にもちょっと分かりにくいところがあります。
まず、「依後進勇士入水欲渡失思慮」の解釈ですが、今野氏のように「後を進む勇士が水に入って渡ろうとしたので分別を無くし」でよいのか。
ここは思慮を失った主体は信綱ではなく、後から渡って来た勇士たちと考えることもできそうです。
また、もっと基本的な事実関係として、「夘刻。雖着此中嶋。重綱〔不着甲冑。不騎馬。裸而纏帷許於頭〕往還之間。依移剋。及日出之期也」がよく分りません。
信綱は「卯刻」に中島に着いているのに、息子の重綱が泰時の陣との間を往復している間に時が移り、「日出乃期」になったとしか読めませんが、承久三年六月十四日は新暦だと1221年7月4日なので、「卯刻」(午前五時~七時)には既に日の出となっているはずですね。
そもそも『吾妻鏡』では芝田兼義・春日貞幸・佐々木信綱・中山重継・安東忠家が宇治橋から「伏見津瀬」に向かったのが「夘三刻」(午前六時過ぎ)ですから、信綱が中島に「卯刻」に到着というのも変な感じがします。
真っ暗では芝田も「瀬踏」はできないでしょうから、芝田が「瀬踏」をしたのが日の出前後と考えるのが自然ではないですかね。
とにかく、このあたりの時間の流れは奇妙で、『吾妻鏡』編者に何か誤解があるように思われます。
さて、『吾妻鏡』六月十四日条は途中までだったので、もう少し見て行きます。

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武州招太郎時氏云。吾衆擬敗北。於今者。大将軍可死之時也。汝速渡河入軍陣。可捨命者。時氏相具佐久満太郎。南条七郎以下六騎進渡。武州不発言語。只見前後之間。駿河次郎泰村〔主従五騎〕以下数輩又渡。爰官軍見東士入水。有乗勝気色。武州進駕擬越河。貞幸雖取騎之轡。更無所于拘留。貞幸謀云。着甲冑渡之者。大略莫不没死。早可令解御甲給者。下立田畝。解甲之処。引隱其乗之間。不意留訖。信綱者。雖有先登之号。於中島経時刻之間。令着岸事者。与武藏太郎同時也。排大綱者。信綱取太刀切棄之。兼義乗馬雖中矢斃。依為水練。無為着岸。時氏揚旗発矢石。東士官軍挑戦争勝負。東士已九十八人被疵云々。武州。武藏前司等乗筏渡河。尾藤左近将監令平出弥三郎壞取民屋造筏云々。武州着岸之後。武蔵相摸之輩殊攻戦。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

ここも私訳では若干不安なので、『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信氏の訳を借用した上、参照の便宜のために細かく段落を分け、番号を付すと、

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(8)泰時は太郎(北条)時氏を招いて言った。「わが軍は敗北しようとしている。今となっては大将軍が死ぬべき時である。お前は速やかに河を渡り、(敵の)陣中に入って命を捨てよ」。時氏は佐久満太郎(家盛)・南条七郎(時員)以下の六騎を率いて進み渡った。

(9)泰時は言葉を発することなくただ前後を見ていると、駿河次郎(三浦)泰村〔主従五騎〕以下の数人もまた渡った。

(10)その時、官軍は東国武士が水に入るのを見て、勝ちに乗じる気配があった。

(11)泰時が馬を進めて河を越えようとした。貞幸は(泰時が乗る)馬の轡を取っていたが、まったく押し止めることができなかった。貞幸は思いをめぐらして言った。「甲冑を着て渡る者は、多くが水に沈み死んでいます。速やかに御鎧を脱がれますように」。(泰時が)田に下り立って鎧を脱いでいたところ、(貞幸が)泰時の乗る馬を隠したので(泰時は)心ならずも留まった。

(12)信綱は先陣をしたものの、中島で時を過ごしたので、岸に着いたのは武蔵太郎(時氏)と同時であった。大綱を取り除くため信綱は太刀を取ってこれを切り捨てた。

(13)兼義の乗る馬が矢に当たって倒れたが、泳ぎが達者であったため無事に岸に着いた。

(14)時氏は旗を高く掲げて矢を放った。東国武士と官軍は挑み合って勝負を争い、東国武士は既に九十八人が負傷したという。

(15)泰時・武蔵前司(足利義氏)らは筏に乗って河を渡った。尾藤左近将監(景綱)が平出弥三郎に命じて民家を取り壊し、筏を造らせたという。泰時が岸に着いた後には、武蔵・相模の者が特に攻めて戦った。
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となります。(p118以下)
検討は次の投稿で行います。

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野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その17)

2023-06-04 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

春日貞幸については藪本勝治氏が「『吾妻鏡』の歴史叙述における承久の乱」(『承久の乱の構造と展開』所収、戎光祥出版、2019)という論文で詳しく検討されていますね。

https://www.ebisukosyo.co.jp/item/522/

昨日、初めてこの論文をきちんと読んでみましたが、自分の関心に直結する論文なのに、何故に今まで読んでいなかったのだろうと思ったら、「南北朝期以降の成立とみられる流布本『承久記』」という表現があって(p209)、以前、同書を図書館で借りて斜め読みしたときに、これだけ見て自分には役に立たない論文と思い込んでしまったようです。
藪本氏は『吾妻鏡』には「他書に見えない「春日刑部三郎貞幸」なる武士にまつわる記事群」があるとも書かれていますが(p211)、流布本にも春日貞幸は登場し、「刑部三郎が高名、先を仕たらんにも増りたり」とまで称揚されています。
藪本氏は流布本を「南北朝期以降の成立」と考えておられるので、『吾妻鏡』の分析には関係ないものと思われているのでしょうね。
さて、『吾妻鏡』六月十四日条の、

(6)その後、兵士が多く水面に轡を並べたところ、流れが急で、まだ戦わないうちに十人中の二、三人が死んだ。すなわち関左衛門入道(政綱)・幸島四郎(行時)・伊佐大進太郎・善右衛門太郎(三善康知)・長江四郎・安保刑部丞(実光)以下の九十六人である。従軍は八百余騎であった。

に名前が出て来る「幸島四郎」ですが、『吾妻鏡』六月十二日条には、

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【前略】今日。相州。武州休息野路辺。幸島四郎行時〔或号下河辺〕相具小山新左衛門尉朝長以下親類上洛之処。運志於武州年尚。於所々令傷死之条。称日者本懐。離一門衆。先立自杜山。馳付野路駅。加武州之陣。于時酒宴砌也。武州見行時。感悦之余閣盃。先請座上。次与彼盃於行時。令太郎時氏引乗馬〔黒〕。剩至于所具之郎従及小舎人童。召幕際。与餉等云々。芳情之儀。観者弥成勇云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあります。
ここは少し分かりにくいところがあるので、例によって『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信氏の訳を借用すると、

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 今日、相州(北条時房)・武州(北条泰時)は野路辺りで休息した。幸島四郎行時〔あるいは下河辺ともいう〕は小山新左衛門尉朝長以下の親類に従って上洛しようとしていたが、長年泰時を慕っており「(一族とは)別の場所で(泰時のために)傷付き死ぬのは日頃の本懐である。」と言って一門の人々から離れ、前もって杜山から野路駅に駆け着けて泰時の陣に加わった。ちょうど酒宴の最中であったが、泰時は行時を見ると喜びの余り盃を置いて上座に招いた後、その盃を行時に与えて太郎(北条)時氏に乗馬〔黒〕を引かせた。そればかりか(行時が)伴っていた郎従や小舎人童に至るまで陣幕のすぐ側に召して食事などを与えたという。(泰時の)思いやりに、見る者はますます勇気を奮い立たせたという。
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ということで(p115以下)、郎従や小舎人童に至るまで気配りするという何とも異例の好待遇ですから、いったい泰時との間にどんな関係があったのだろうかと不思議に思われるほどです。
また、本来所属すべきグループから離れて泰時の許に駆け付けるという幸島四郎の登場の仕方は春日貞幸とよく似ていますね。
ただ、春日貞幸が後の場面で大活躍するのに対し、幸島四郎は十四日条で、「其後。軍兵多水面並轡之処。流急未戦。十之二三死。所謂。関左衛門入道。幸島四郎。伊佐大進太郎。善右衛門太郎。長江四郎。安保刑部丞以下九十六人。従軍八百余騎也」と死者九十六人の一人として名前が出て来るだけで、華やかな登場と僅か二日後の地味な死の間の落差が激しいですね。
この点、流布本では、幸島四郎と泰時の関係についての記述は全くない代わりに、

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軈〔やが〕て続て渡しける若狭兵部入道・関左衛門尉・小野寺中務丞・佐嶋四郎、四騎打入て渡けるが、若き者共の馬強なるは、河を守らへて能〔よく〕渡す間、子細なし。関左衛門尉入道、身は老者なり、馬は弱し、被押落下り頭に成ければ、聟の佐嶋四郎難見捨思て取て返し、押双て馬の口に付たりけるが、被押入、二目共不見、共に流れて失にけり。是は佐嶋四郎国を立ける時、妻室云けるは、「我親は頼敷〔たのもし〕き子一人もなし。我に年比〔としごろ〕情を懸給ふ事誠ならば、此言葉の末を不違して、我父相構ヘて見放し給な」と、軍〔いくさ〕と聞し日より、打出る朝迄〔まで〕、鎧の袖を扣〔ひか〕ヘて云ける事をや思ひ出〔いだし〕たりけん、同く流れけるこそ哀なれ。故郷の者共、此事を伝聞て、「左〔さ〕云ざりせば、一度に二人には後〔おく〕れ間敷〔まじき〕物を」と、歎けるこそ甲斐なけれ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8aed4432a3f320c381be1790d0f86cb2

とあって、妻から父を頼むと強く言われていた「佐嶋四郎」は舅の関左衛門尉政綱を助けようとして自分も流されて死んでしまった、とのことで、その死の経緯や関係者の後日談までが戦場悲話として詳しく描かれています。
両者を読み比べると、『吾妻鏡』に対しては、幸島四郎を泰時が歓迎したことをここまで詳しく描くのだったら、その死についても一掬の涙を注ぐくらいのことはしてやってもよさそうなのに、泰時の称揚に役立たない話は載せないのだろうか、などと思わない訳でもありません。
それと、藪本勝治氏のように流布本を「南北朝期以降の成立」と考える立場の人たちに対しては、『吾妻鏡』にも出て来ない幸島四郎の戦場悲話が、承久の乱が終わってさほど時間が経っていない時期ならともかく、百数十年後の「南北朝期以降」になって、どこからか材料を入手して流布本に採用されるというのは不自然なのではなかろうか、という疑問が生じます。
私には、この幸島四郎のエピソードは流布本の成立が相当早いことを示す一材料のように思われます。

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