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野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その21)

2023-06-06 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

私は、北条泰時が時氏に「わが軍は敗北しようとしている。今となっては大将軍が死ぬべき時である。お前は速やかに河を渡り、(敵の)陣中に入って命を捨てよ」と言ったというエピソードに関しては、『吾妻鏡』の創作であり史実としては信頼できない、と考えますが、かといって宇治川合戦全体について流布本の方が『吾妻鏡』より信頼できると考えている訳ではありません。
実は、当初は流布本の方が『吾妻鏡』より信頼できるのではないかと思っていたのですが、宇治川合戦を細かく検討してみたところ、流布本にも奇妙なエピソードが多く、相当に創作的要素が含まれているように思われてきました
特に流布本には、「藤戸」「宇治河先陣」「忠教(忠度)最期」といった『平家物語』のエピソードに類似するエピソードが多い点は本当に気になります。
私は「原流布本」は1230年代には成立していると考えていますが、『平家物語』の原型と思われる「治承物語六巻」は延応二年(1240)には存在しているので、私見が正しければ流布本の成立時期は『平家物語』の原型が成立した時期とぴったり重なります。
そして、両書に偶然というにはあまりに似すぎているエピソードが複数存在することは、両書の作者の社会圏が重なっているか、少なくともかなり近いものであることを窺わせます。
今は『平家物語』に取り組む余裕は全くありませんが、遠い将来に『平家物語』の成立論に取り組む際には、私にとって流布本の『平家物語』類似エピソードが橋頭保となりそうです。

「平家物語」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E7%89%A9%E8%AA%9E

ま、こんなことを言ってみても、『承久記』に詳しい研究者の中では若手の藪本勝治氏(1983生)ですら、流布本を「南北朝期以降の成立とみられる」(『承久の乱の構造と展開』、p209)と言われているような現状では、私がずいぶん変なことを言っているように思われてしまうかもしれません。
結局のところ、私見に説得力をもたせるためには、流布本自体に則して、その成立が相当に早いことを示唆する例を積み重ねるしかないと思いますが、私は藤原為家が順徳院の佐渡配流に同行するとの噂話はその一例ではないかと考えています。
即ち、流布本には、

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同廿ニ日、新院、佐渡国へ被移させ給。御供には、冷泉中将為家朝臣・花山院少将茂氏・甲斐兵衛佐教経、上北面には藤左衛門大夫安光、女房右衛門佐局以下女房三人参給ふ。角〔かく〕は聞へしかども、冷泉中将為家朝臣、一まどの御送をも不被申、都に留り給。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/95463ff3ed9d424ab627e6c5ae5ede87

とありますが、藤原定家の息子・為家(二十四歳)が順徳院の佐渡配流に同行するとの噂があったものの、「一まどの御送をも不被申、都に留り給」というエピソードは、結局行かなかったのだから歴史的には何の重要性もなく、諸記録にも残りにくい話です。
しかし、これが流布本に記されたということは、為家の身の処し方に好意的ではない流布本作者が、行くと決まっていたのに都を一歩も出ないなんてひどい奴だな、と筆誅を加えたように感じられます。
とすると、そうした一時的な噂話を実際に聞いた人が作者で、成立時期も承久の乱からさほど隔たっていない頃と考えるのが自然ではないかと思います。
また、流布本に三浦胤義子息の処刑話が載っている点も、承久の乱の後、真偽入り乱れた様々な情報が交錯する中で流された噂話を採り入れたもので、結果的には事実ではなかったものの、流布本作者は真実と信じて書いたのではないか、つまりこれも流布本の成立が相当早いことを示す証左なのではないかと思っています。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その16)─胤義子息の処刑話は「創作」か
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0b9454fba7c4ef360a916b40eac82b2f

そして、今回、宇治川合戦の場面を検討していて気になったのは三浦泰村と一緒に登場する乳母子の「小河太郎」です。

そこはかとなく奇妙な「小河太郎」エピソード(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d2ca32711f396cb77748e3d132da7be8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/acf5c874faaea8c6281dc64c84a5e648
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d9e043ae4f427e087f474b3441d29db

流布本作者は泰村と「小河太郎」の不協和音を聞き取るなど、三浦氏の内情に相当詳しい人と思われますが、そもそも何故に三浦氏のこんな些事が詳細に語られるのか。
その大前提としては、高橋秀樹氏等を中心とする近時の三浦氏研究の進展で明らかにされたように、承久の乱後、三浦氏が幕府内において、北条氏と並び立つような、他の御家人とは別格の存在だったことを挙げるべきだろうと思います。
つまり、実際に三浦氏が極めて重要な存在だったから、その細かな動向、更には三浦泰村と「小河太郎」の不協和音のような、歴史の大きな流れには無関係の些事まで取り込まれているのではないか、ということです。
しかし、三浦氏がこのような特別の地位を確保していたのは、言うまでもなく宝治合戦(1247)までです。
宝治合戦で三浦氏が完全に滅亡した訳ではなく、佐原盛連の子孫が継ぐ形にはなりますが、しかし、往時の隆盛とは比べるべくもない存在となります。
仮に流布本の成立が宝治合戦の後だったとすれば、過去の事実として、北条氏と三浦氏の関係、そしてその中における三浦一族の存在感をそれなりに描くことは可能でしょうが、しかし、そこには宝治合戦が影を落とさざるをえないのではないかと思われます。
記事の分量だけでも、既に敗者であることが確定してしまった三浦氏に対して、流布本におけるような配分を行うことはありえないのではないか。
「小河太郎」エピソードを分析してみた結果として、私は流布本作者は決して三浦氏に好意的ではなかった考えますが、しかし、そこでは三浦氏が北条氏と並ぶ幕府の重鎮であることが当然の前提となっており、宝治合戦による両者の関係の破綻を予期させるような思わせぶりな記事もありません。
流布本に詳細な三浦氏関連の記事があること自体が、流布本成立が宝治合戦前であることの証左の一つなのではないか、と私は考えます。

コメント
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