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野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その16)

2023-06-03 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

『吾妻鏡』六月十四日条の、

(5)官軍はこれを見ると同時に矢を放った。兼義・貞幸の乗った馬が河の中でそれぞれ矢に当たり、水に漂った。貞幸は水底に沈み、危うく死ぬところであったが、心の中で諏訪明神を祈り、腰刀を取って鎧の上帯と小具足を切ると、しばらくしてやっと浅瀬に浮かび出て、泳ぎが達者な郎従らによって救われた。泰時はこれを見て自分の手で数箇所に灸を加えたので、(貞幸は)意識を取り戻した。(貞幸に)従っていた子息・郎従以下十七人は水に溺れた。

という場面に登場する春日貞幸は、既に五月二十六日条に、

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【前略】武州者。着于手越駅。春日刑部三郎貞幸信濃国来会于此所。可相具武田。小笠原之旨。雖有其命。称有契約。属武州云々。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

とあって、北条泰時が手越駅(現静岡市駿河区手越付近)に着いた時、信濃国からやって来て、本来であれば武田信光・小笠原長清が率いる東山道軍に属すべきであるのに、「契約」があると称して泰時に従ったことが特記されています。
そして、春日は信濃国住人なので、春日が諏訪明神に祈ることは別に変ではなく、また、水に流されたら鎧の上帯と小具足を切って身軽になるように工夫することも自然ですので、私も別に、『吾妻鏡』における春日の描写が流布本の大炊渡の「瀬踏」の影響を受けている、とまで主張するつもりはありません。
ただ、続いて泰時が貞幸に自ら灸を加えた云々の話が出て来るので、これも流布本の高枝次郎エピソードを連想させます。
即ち、流布本では、山田重忠が活躍する杭瀬川合戦において、

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 武蔵国住人高枝次郎、河瀬を渡して、只一騎細縄手〔なはて〕に懸り、敵に向て追懸て行。七八騎有ける勢取て返し、高枝を中に取籠て(散々に)戦ふ。高枝次郎、片足を田へ踏入、片足をば縄手に跪〔ひざまづい〕て被切伏ぬ。甲も被打落て、痛手負て横様に臥たりけり。敵一人寄合ひて、取て押へ首取んと仕〔し〕ける所に、東国の兵、颯〔さつ〕と続たりければ、首をも不取、打捨て落行ぬ。御方勢近付て見れば、鎧・物の具・面も朱〔あけ〕に成て、誰共不見。大将軍武蔵守、「あら無慙〔むざん〕やな。此者、痛手負たり。誰ぞ」と問給へば、未〔いまだ〕死やらで片息したりけるが、「是は武蔵国住人、高枝次郎と申者にて候」(と申)。武蔵守、「不便〔ふびん〕の事や。手を能〔よく〕々見よ」(とありければ、人々走寄りて見るに)甲被打落て、頭の疵より物具の裾〔すそ〕まで、大小の疵廿三箇所ぞ負たりける。「如何に、此手にては可死か」。「よも此手にては死候はじ」と申。「如何が可仕〔すべき〕。道にては不叶〔かなふまじ〕」とて、御文遊し、御使一人添て、其より鎌倉ヘぞ被下ける。「是は武蔵国住人、高枝次郎と申者にて候。六月六日、杭瀬河の軍に、手数多〔あまた〕負候。道にては如何にも療治難叶間、進〔まゐ〕らせ候。随分忠を致せし者にて候へば、相構へて々々扶かり候様に、御計ひ可有」由、権大夫殿へぞ被申ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2ba0f26a6768d961e3abdf0e68815c78

とあって、こちらでは別に泰時は自ら高枝次郎の治療にあたった訳ではありませんが、戦場で傷ついた者に対する配慮の鄭重さは春日貞幸の場合と同じですね。
ところで、この灸治エピソードは泰時の心優しさを感じさせる戦場美談ですが、これはいったいどこでの出来事なのか。
巨椋池の消滅などの地形の変遷もあって、芝田兼義・佐々木信綱・春日貞幸らが渡河した「伏見津瀬」(流布本では「槙島の二俣なる瀬」)の正確な位置は不明と言わざるをえないでしょうが、『吾妻鏡』や流布本の書き振りからすると宇治橋からは相当離れていて、少なくとも2㎞程度は下流のように思われます。
とすると、意識不明の春日をわざわざ宇治橋近くの泰時の許に連れて行って灸を据えるというのも変な話なので、泰時も「伏見津瀬」まで移動していたということなのでしょうね。
この後、『吾妻鏡』では、渡河を強行しようとした泰時の馬を春日が隠して阻止し、結局、泰時は筏で渡河したという話になりますが、流布本では、

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 武蔵守、「あたら侍共を失て、泰時一人残止〔とどまつ〕ても何かすべき。運尽たり共、具〔とも〕に相向てこそ死なめ」とて、河端へ被進けるを、信濃国住人、春日刑部三郎と云者、親子打入て渡しけるが、子は流れて死ぬ。親も被押入たりけるを、郎等未岳〔をか〕に有けるが、弓のはずを入て捜しける程に、無左右取付て被引上たるを見れば、春日刑部三郎也。(暫)河端に大息つきて休ける所に、武蔵守、河端へ被進けるを、立揚り七寸〔みづつき〕につよく取付て、「如何に角〔かく〕口惜き御計〔はからひ〕は候ぞ。軍の習ひ、千騎が百騎、百騎が十騎、十騎が一騎に成迄も、大将軍の謀〔はかりごと〕に随ふ習にてこそ候へ。増て申候はんや、御方の御勢百分が一だに亡候はぬ事にてこそ候へ。如何に御命をば失はんとせさせ給候ぞ」と申ければ、武蔵守、「思様あり。放せ」とて、策〔むち〕にて腕を被打けれ共不放。去程に御方百騎計、河の端へ進み前を塞ける間、力不及給。此事鎌倉に伝聞て、「刑部三郎が高名、先を仕〔し〕たらんにも増りたり」とぞ宣ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1476eee270aec73e5c09d504dbeec67b

ということで、春日は馬を隠したりせず、実力で阻止していますね。

春日貞幸(生没年不詳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E8%B2%9E%E5%B9%B8

コメント
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