学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その70)─「河内国ヨリ秀康・秀澄兄弟二人召出シテ、首ヲ切」

2023-06-30 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

前回投稿で引用した部分、「今日過ル身ヲウキ島ガ原ニ来テ露ノ命ゾコゝニ消ヌル」の作者が流布本・『吾妻鏡』・『海道記』・『六代勝事記』では中御門宗行となっているのに、慈光寺本だけ葉室光親になっているのは奇妙です。
その他、処刑された日、処刑地など、細かな違いを言い出したらキリがないほど慈光寺本は他の資料と異なっていますが、慈光寺本の独自表現が作者の緻密な計算に基づくとはとても思えず、単に雑に書いただけのような感じですね。
もともと和歌が得意でない慈光寺本作者は、順徳院と九条道家の長歌の創作(偽造)で力を使い果たしてしまったのかもしれません。
なお、渡邉裕美子氏は「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」(『国語と国文学』98巻11号、2021)の「三、作り替えられる辞世歌」において、斬首の替わりに早河での水死を選んだ「甲斐宰相中将」藤原範茂の辞世の歌、「遥ナル千尋ノ底ヘ入時ハアカデ別シツマゾコヒシキ」は、「歌壇活動に参加できる程度の心得はあったと思われる」(p81)範茂が「流れの早い川を前にして「千尋の底」と詠むとは考えられない。おそらくこの歌は物語に合わせて、慈光寺本作者が作ったものであろう」(同)とされています。
さて、続きです。(岩波新大系、p361)

-------
 刑部僧正ヲバ、陸奥国ヘ流シ奉ル。遂ニハ往生トコソ聞ヘシカ。
 次々ノ人々モ、皆頸ヲゾ切レケル。
 小山左衛門ニ仰附テ、清水山ヨリ与三左衛門召出、頸ヲ切。
 駿河入道ニ仰付テ、北山ヨリ斎藤左衛門召出シテ、首ヲ切。
 伊藤左衛門ニ仰付テ、八幡山ヨリ内蔵頭ヲ召出シテ、首ヲ切。
 四郎左衛門ニ仰付テ、近江国ヨリ山城守召出シテ、首ヲ切。
 後藤左衛門ニ仰付テ、桂里ヨリ後藤判官召出シテ、親の頸切コソアサマシケレ。
 平左衛門ニ仰付テ、河内国ヨリ秀康・秀澄兄弟二人召出シテ、首ヲ切。
 嵯峨野左衛門ニ仰付テ、般若寺ヨリ山田次郎自害ノ首ヲゾ召出ス。
 駿河次郎ニ仰付テ、木島ヨリ平判官ノ自害ノ首ヲゾ召出ス。
 熊野別当・吉野執行ニ至マデ、一人モ芳心ナク切終リヌ。
-------

ここは単なる人名リストなので現代語訳はしませんが、人名だけ少し補足しておくと、「刑部僧正」は長厳で、徳永誓子氏の「刑部僧正長厳の怨霊」(『怪異学の技法』、臨川書院、2003)には、

-------
 後鳥羽院の熊野詣に関しては、『明月記』建保元年(一二一三)十二月六日条に、以下のような話が見える。医王なる者が同年の参詣に供奉したが、那智飛龍権現の前で一時失神するという事件があった。那智の御所においても不思議な出来事があったため、後鳥羽院は熊野に所領を寄進し、熊野から戻った後に医王にも荘園を与えた。医王─医王丸は、成人して藤原能茂を名乗り、承久の乱後は配流先の隠岐にまで後鳥羽院に同行しており、その崩御後には遺骨を奉じて上洛したという。
-------

とあり(p126)、藤原能茂とも縁のある人ですね。

慈光寺本『承久記』を読む。(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4760abd80a9a8ac323600cc80056a765

「小山左衛門」は小山朝政ですが、「与三左衛門」は未詳です。
「駿河入道」は中原季時で、「斎藤左衛門」は斎藤親頼です。
「伊藤左衛門」は伊東祐時で、「内蔵頭」は藤原秀康の軍勢手分に際し、「北陸道大将軍」の最後に挙げられている「内蔵頭」と同一人物のようですが、未詳です。(※)

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その32)─「押松ガ義時ガ首持テ参ラン、御覧ゼヨ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bee622726e9347aeba18024daf52e03

「四郎左衛門」は佐々木信綱で、「山城守」は佐々木広綱です。
「後藤左衛門」は後藤基綱で、「後藤判官」は父親の基清です。
「平左衛門」は未詳ですが、「秀康・秀澄兄弟二人」は暫らく逃亡しており、『吾妻鏡』十月十六日条に、

-------
六波羅飛脚到着。去六日寅刻。於河内国。虜秀康。秀澄等。是依彼後見白状也。同八日至六波羅云々。天下乱逆根源起於此両人謀計。重過之所当。責而有余歟云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-10a.htm

とあります。
慈光寺本で藤原秀康・秀澄が処刑者リストの一行で済まされているのは本当に不思議ですね。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その54)─藤原秀康の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bd430ee4bfd4308d15a9a66252b9c682

「嵯峨野左衛門」は未詳で、「山田次郎」は山田重忠(慈光寺本では「重貞」または「重定」)です。
「駿河次郎」は三浦泰村で、「平判官」は叔父の三浦胤義です。
「熊野別当」は田辺法印快実(小松法印)のようですが、「吉野執行」は未詳です。
ということで、処刑者・被処刑者とも「未詳」の人がけっこう多いですね。

※追記(2023年7月3日)
久保田淳氏の脚注には未詳とありましたが、これは平保教でした。
『大日本史料 第五編之一』を見たところ、承久三年七月二十八日条に「幕府、内蔵頭平保教ヲ石清水善法寺ニ捕フ、保教自殺ス」とあり、『承久三年四年日次記』『石清水文書』等が引用されています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする