まず、後鳥羽院が「四方ノ逆輿」に乗せられたのかですが、久保田淳氏は「四方ノ逆輿」の脚注で、
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進行方向と逆にかく輿。逆馬逆輿は罪人を送る時の作法。「先例なりとて、「御輿さかさまに流すべし」といふ」(とはずがたり四)。
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と書かれています。(p355)
しかし、「逆馬」はともかく、「逆輿」が「罪人を送る時の作法」とされる例は朝廷側には存在せず、『とはずがたり』(とそれを受けた『増鏡』)に記された、京都から迎えた将軍を京都に戻す際の東国の慣習があるだけのようです。
そもそも、「四方輿」は「屋形の前後左右に青簾を懸け垂れただけの吹放しの造作」の輿で、「四方輿」を「急坂・険阻の山路の際」に「棟や柱などを撤去して手輿(たごし)として用い」たものが「坂輿(さかごし)」ですから(『国史大辞典』)、「四方輿」の特定状況に限定した用い方が「坂輿」です。
そして、「坂輿」は他の史料にいくらでも出て来るのに「逆輿」は慈光寺本だけに出て来る特異な表現なので、慈光寺本の「四方ノ逆輿」は「四方ノ坂輿」を転写する過程で生じた単なる誤記である可能性が高そうです。
後鳥羽院は「逆輿」で隠岐に流されたのか?(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6c216879037a93f3989708b69e538359
(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/063fe98e5d44c4e6a731f7230db7e96c
また、私は後鳥羽院が「流罪」に処せられたのかについても根本的な疑問を抱いています。
後年の後醍醐天皇の場合、兵藤裕己校注『太平記(一)』(岩波文庫、2014)に、
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先帝遷幸の事、幷〔ならびに〕俊明極参内の事
先帝をば承久の例に任せて、隠岐国に移しまゐらすべきに定まりにけり。臣として君を流し奉る事、関東もさすが恐れありとや思ひけん、このために、後伏見院の第一の御子を御位に即け奉つて、先帝御遷幸の宣旨をなさるべしとぞ計らひ申しける。【後略】
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とあって(p195以下)、「先帝御遷幸の宣旨」という表現は刑罰としての流罪ではないように読めます。
仮に『太平記』が正しく「承久の例」を伝えているのであれば、後鳥羽院の場合も、新帝(後堀河)による「先帝御遷幸の宣旨」があった可能性が出てきます。
この点、『吾妻鏡』を見ると、承久三年(1221)七月九日に新帝践祚、十三日に、
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上皇自鳥羽行宮遷御隱岐国。甲冑勇士囲御輿前後。御共。女房両三輩。内蔵頭清範入道也。但彼入道。自路次俄被召返之間。施薬院使長成入道。左衛門尉能茂入道等。追令参上云々。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm
とあって、「上皇自鳥羽行宮遷御隱岐国」ですから刑罰としての配流と明示している訳ではなく、価値中立的な「遷」、即ち空間的移動があったと言っているだけですね。
ここで、「流罪」としない論理を考えてみると、前の天皇の御在位中にはいろいろあったかもしれませんが、後鳥羽院が新しい天皇の私(後堀河)に謀反を起こされた訳ではなく、私は単に後鳥羽院に御引越を願っているだけで、罪人と扱っている訳ではありません、といった理屈も可能だと思います。
実態としては全く先例のない、驚天動地の処分だったとしても、朝廷側の発想としては、なるべく穏やかな形式にしたいと考えるのが自然であり、私は後鳥羽院の隠岐「遷幸」はそもそも「流罪」ではなかったと考えます。
幕府側としても、後鳥羽院を隠岐に送ることにより、従来とは全く異なる体制となったことを示せれば充分であり、朝廷の論理に反対する理由もなかったように思います。
後鳥羽院は「逆輿」で隠岐に流されたのか?(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5ec3d9321ac9d301eca3923c022ea649