学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その65)─後鳥羽院は「流罪」に処せられたのか

2023-06-18 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

まず、後鳥羽院が「四方ノ逆輿」に乗せられたのかですが、久保田淳氏は「四方ノ逆輿」の脚注で、

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進行方向と逆にかく輿。逆馬逆輿は罪人を送る時の作法。「先例なりとて、「御輿さかさまに流すべし」といふ」(とはずがたり四)。
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と書かれています。(p355)
しかし、「逆馬」はともかく、「逆輿」が「罪人を送る時の作法」とされる例は朝廷側には存在せず、『とはずがたり』(とそれを受けた『増鏡』)に記された、京都から迎えた将軍を京都に戻す際の東国の慣習があるだけのようです。
そもそも、「四方輿」は「屋形の前後左右に青簾を懸け垂れただけの吹放しの造作」の輿で、「四方輿」を「急坂・険阻の山路の際」に「棟や柱などを撤去して手輿(たごし)として用い」たものが「坂輿(さかごし)」ですから(『国史大辞典』)、「四方輿」の特定状況に限定した用い方が「坂輿」です。
そして、「坂輿」は他の史料にいくらでも出て来るのに「逆輿」は慈光寺本だけに出て来る特異な表現なので、慈光寺本の「四方ノ逆輿」は「四方ノ坂輿」を転写する過程で生じた単なる誤記である可能性が高そうです。

後鳥羽院は「逆輿」で隠岐に流されたのか?(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6c216879037a93f3989708b69e538359
(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/063fe98e5d44c4e6a731f7230db7e96c

また、私は後鳥羽院が「流罪」に処せられたのかについても根本的な疑問を抱いています。
後年の後醍醐天皇の場合、兵藤裕己校注『太平記(一)』(岩波文庫、2014)に、

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  先帝遷幸の事、幷〔ならびに〕俊明極参内の事

 先帝をば承久の例に任せて、隠岐国に移しまゐらすべきに定まりにけり。臣として君を流し奉る事、関東もさすが恐れありとや思ひけん、このために、後伏見院の第一の御子を御位に即け奉つて、先帝御遷幸の宣旨をなさるべしとぞ計らひ申しける。【後略】
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とあって(p195以下)、「先帝御遷幸の宣旨」という表現は刑罰としての流罪ではないように読めます。
仮に『太平記』が正しく「承久の例」を伝えているのであれば、後鳥羽院の場合も、新帝(後堀河)による「先帝御遷幸の宣旨」があった可能性が出てきます。
この点、『吾妻鏡』を見ると、承久三年(1221)七月九日に新帝践祚、十三日に、

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上皇自鳥羽行宮遷御隱岐国。甲冑勇士囲御輿前後。御共。女房両三輩。内蔵頭清範入道也。但彼入道。自路次俄被召返之間。施薬院使長成入道。左衛門尉能茂入道等。追令参上云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

とあって、「上皇自鳥羽行宮遷御隱岐国」ですから刑罰としての配流と明示している訳ではなく、価値中立的な「遷」、即ち空間的移動があったと言っているだけですね。
ここで、「流罪」としない論理を考えてみると、前の天皇の御在位中にはいろいろあったかもしれませんが、後鳥羽院が新しい天皇の私(後堀河)に謀反を起こされた訳ではなく、私は単に後鳥羽院に御引越を願っているだけで、罪人と扱っている訳ではありません、といった理屈も可能だと思います。
実態としては全く先例のない、驚天動地の処分だったとしても、朝廷側の発想としては、なるべく穏やかな形式にしたいと考えるのが自然であり、私は後鳥羽院の隠岐「遷幸」はそもそも「流罪」ではなかったと考えます。
幕府側としても、後鳥羽院を隠岐に送ることにより、従来とは全く異なる体制となったことを示せれば充分であり、朝廷の論理に反対する理由もなかったように思います。

後鳥羽院は「逆輿」で隠岐に流されたのか?(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5ec3d9321ac9d301eca3923c022ea649

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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その64)─後鳥羽院・七条院の贈答歌に参加する「伊王左衛門入道」

2023-06-18 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

後鳥羽院が北条時氏に告げた、

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麻呂〔まろ〕ガ都ヲ出ナバ、宮々ニハナレマイラセン事コソ悲ケレ。就中〔なかんづく〕、彼堂別当〔かのだうべつたう〕ガ子伊王左衛門能茂、幼ヨリ召ツケ、不便〔ふびん〕に思食レツル者ナリ。今一度見セマイラセヨ」

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a204b22519ff861aada15f0e4942569

という発言の中で、「就中、彼堂別当ガ子伊王左衛門能茂」と藤原能茂の出自が明らかにされているのも奇妙な感じですね。
能茂は藤原秀能の猶子となって「能」字をもらったと思われますが、ここでは秀能ではなく、実父の「彼堂別当ガ子」となっています。
『尊卑分脈』によれば、能茂は「童名伊王丸、主馬首、左衛門尉、母弥平左衛門尉定清女、秀能猶子、実者行願寺別当法眼道提子、隠岐御所御共参、出家法名西蓮【後略】」とあり、この「彼堂」とは行願寺(革堂)で、「彼堂別当」は法眼道提です。

田渕句美子氏「藤原能茂と藤原秀茂」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0be06ac4886fc275de8e50db40a65dcd
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d3bf634d5a4254f70a203b669c775288
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/991ca6d33e117a14d9dd7df1b14b26ef

ただ、別に慈光寺本には「彼堂」について説明がある訳ではありません。
仮に後鳥羽院が「能茂は幼いときから召し使っていて、いじらくお思いになられる者【自己敬語】であるので、今一度会わせてほしい」と言ったのが事実だとしても、その際に後鳥羽院が能茂の出自に言及する必要はなく、時氏にとっても、能茂の父が実父が誰であろうがどうでもよい話です。
従って、ここで能茂の実父が誰かにこだわっているのは慈光寺本作者ですね。
そして、「彼堂」について何の説明もないということは、慈光寺本作者にとっては「彼堂」は自明であり、また、慈光寺本作者が想定する読者にとっても「彼堂」が自明であって、わざわざ説明する必要がないことを示しているように思われます。
別にこれが慈光寺本が広く一般の読者を想定しているのではないことの決定的証拠という訳ではありませんが、こうした細かな表現からも、慈光寺本作者やその想定読者の範囲を窺うことは可能のように思われます。
ま、それはともかく、前回投稿で引用した部分の私訳を試みておきます。

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【私訳】「持明院」(茂仁親王、後堀河天皇)が天子の位に就かれた。
神璽・宝剣も京方が敗北した恨めしさに放置されていたのを持明院殿にお迎え、お引き取り申し上げる有様、神器が渡御される大路の有様は、言葉も尽くせないほど尊いものでした。
「近衛殿」(家実)が摂政になられたのも、大変目出度いことでありましょう。
定めなき無常の世の習いとはいえ、このような運命の変転は露も知り得なかったことでしょう。
さて、七月十三日には「伊藤左衛門」(伊東祐時。工藤祐経男)が後鳥羽院の御身柄を預かり、「四方ノ逆輿」に乗せ参らせて、「医王左衛門入道」が御供となって、鳥羽殿をご出発になった。
女房には「西ノ御方」(坊門信清女、頼仁親王母)・「大夫殿」と(下級の)女官などが同行した。
また、どこかで御命が尽くされるかもしれない時の用意として、(終焉に立ち会う)「聖」を一人、召し具すこととなった。
後鳥羽院は「今一度、広瀬殿を見たい」とおっしゃったけれども、お見せ申し上げることはなく、水無瀬殿も雲の彼方に御覧になって、明石へ御着きになった。
そこから播磨国へ御着きになった。
そこからまた、「海老名兵衛」が御身柄を預かり、途中までは送り申し上げた。
途中からまた、伯耆国の「金持兵衛」がお身柄を預かった。
十四日ほどかけて、出雲国の大浜浦に御着きになった。
そこで順風を待って隠岐国へと御着きになった。
道中で御病気にもなられたので、後鳥羽院の御心中はどのようにお思い続けたことであろうか。
医師の仲成は出家してお供をした。
哀れなことに、後鳥羽院は都ではこのような浪風を聞かれることはなかったので、哀れに思召されて、とても御心細く、涙も袖を絞るほどで、

  都ヨリ吹クル風モナキモノヲ沖ウツ波ゾ常ニ問ケル

と詠まれた。
また、「伊王左衛門」は、

  スゞ鴨ノ身トモ我コソ成ヌラメ波ノ上ニテ世ヲスゴス哉

と詠んだ。
後鳥羽院の御母・七条院にこれらの御歌を贈られたので、女院の次の歌を返された。

  神風ヤ今一度ハ吹カヘセミモスソ河ノ流タヘズハ
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ということで、「医王左衛門入道」は後鳥羽院が「四方ノ逆輿」に乗せられて鳥羽殿を出発して以降、後鳥羽院の隠岐御幸に伴い、隠岐にも渡ったと記されます。
そして、後鳥羽院が母・七条院に歌を贈ると、「伊王左衛門」も一緒に七条院に歌を贈って、七条院は、これら二首の歌(此御歌ドモ)に対して一首の歌を返したのだそうです。
果たしてこれらは史実なのか。

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