九条道家の長歌についても、久保田淳氏の注釈・現代語訳の素晴らしさを確認しておきたいと思います。(岩波新大系、p358以下。数字は注記の番号。19番が反歌)
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7 久堅〔ひさかた〕ノ 月日ヘダツル 空ノクモ [ ] ヨソニシテ
イツトモシラヌ アフヒグサ
「わが君にお別れしてから月日は隔たり、空の雲……すっかり局外に置かれて、わが君にお逢いできるのはいつともわかりません」
8 日カゲニムスブ 心モテ 朝夕君ニ ツカヘコシ ソノカミ山ニ 吹風ノ 目ニミヌカタヲ
オモヒヤリ サカヒハルカニ ナルマゝニ ヤスムコゝロモ
「摂政を解任されたわたしは日蔭の身で愁えに結ぼおれた心を抱きつつ、朝に夕にわが君にお仕えしてきたその昔を偲び、目に見えない遠く佐渡の方向を思いやり、そこが都から遥か彼方と思うと心安らぐ折もありません」
9 ナミダノミ トゞマラヌ日ニ 流レツゝ シヅミハツルモ アスカ河 キノフノハルノ
イツノマニ 今日ノウキヨニ
「涙だけは過ぎてゆく日同様止まることなく流れ、すっかり沈淪してしまったにつけ、飛鳥川の淵瀬が変るように、昨日は我が世の春だったのにいつのまに今日の憂き世に遇ったのだろうかと思われます」
10 アフミナル トコノ山路ニ 有〔あり〕トキク イサヤアヤナク アヤムシロ
シキシノベドモ
「近江の鳥籠(とこ)の山路にあると聞いている不知哉(いさや)川ではありませんが、さあわけもなく綾席を敷いて、わが君をしきりにお偲び申しあげますが」
11 シキシマノ 道ニハアラヌ
「和歌の道ではない。上の「シキシノベ」から言い起こす」
12 <本ノ> [ ]
「底本で欠字となっていたことを示す」
※ 入江ノ水モ 山ノハモ ミドリノ空ニ 日ノ色モ ウスキ衣ニ 秋クレテ
13 人メカレ行〔ゆく〕 シタ草ノ オトロヘハツル ハツシグレ フル<本ノ>[ ]
道ノソラ
「人の訪れも絶え下草もすっかりすがれ、初時雨の降る冬となりました」
14 空ノケシキモ アラチ山 道ノアハ雪 サムキヨノ ミギハノ千鳥 打ワビテ
鳴音〔なくね〕カナシキ
「空の様子も荒々しい愛発(あらち)山を越えて行く道には淡雪が降って寒い夜、汀の千鳥がわびしげに鳴く声も悲しい。
15 袖ノウヘヤ モシホタレツゝ
「わたしも袖の上に涙をこぼしています」
16 アマノスム 里ノシルベモ ユウケブリ 煙モ浪モ 立〔たち〕ヘダテ
「海人の住む郷のしるべとなる藻塩焼く夕煙ではありませんが、都から佐渡までは雲煙波濤を隔てています。「海人の住む里のしるべにあらなくにうらみむとのみ人のいふらん」(古今集・恋四・小野小町)」
17 雲井ニミヘシ 在明〔ありあけ〕ノ アフギシ人ヲ マガヘツゝ コゝロノヤミノ
ハレマナキ
「かつて禁中で見た有明の月を仰ぎ見たわが君にまがえつつ、わたしの心の闇は晴れる間もありません」
※ 秋ノ都ノ ナガキヨニ
18 ハツシモムスブ 白〔しら〕ギクノ ウツロヒ行ヲ 白妙〔しろたへ〕ノ ウキヨノ色ト
オドロケバ ネデモミヘケル ユメノミチ ウツゝニナラデ マヨフコロ哉
「初霜が置いて色うつろう白菊の色を憂き世の色かと驚くと、寝ないでもわが君にお逢いできるという夢を見ますが、それが現実のこととならないので、迷っているこの頃です」
19 イトヘドモ猶〔なほ〕ナガラヘテ世ノ中ニウキヲシラデヤ春ヲマツベキ
「つらい世と厭うもののやはり生き永らえて、憂さつらさに堪えて春の訪れを待つべきでしょうか」
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以上、こちらも私が※を付した二箇所を除き、ほぼ全訳になっていますが、実に素晴らしい現代語訳ですね。
素人が普通に読んでいる限り、滑らかに意味が通じているように思えます。
しかし、渡邉裕美子氏は、7の「アフヒグサ」、8の「日カゲ」と「ソノカミ山」は「唐突に賀茂社の縁で歌い出している」点が不審だとされます。
そして、「細かな検討は、紙幅の都合上、省略に従わざるを得ないのだが、一点だけ確認しておきたい」と前置きした上で、「入江ノ水モ」から13の「ハツシグレ」、14の「アハ雪」までは、「四季の移ろいが歌われている。しかし、それぞれの季節の景がきちんと形象化されないまま、次の表現に流れてしまっている。連歌的とも言える表現方法で、和歌としてはとても落ち着きが悪い」とされます。
そして、結論として「やはり、代々歌壇の庇護者であった九条家の伝統を受け継ぎ、歌人として活動していた道家の歌とは到底思われない」とのことです。
順徳院と九条道家の長歌贈答について(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37eac5fd77df4203bf373db57e9e6502
私には和歌の細かな表現を分析する能力はありませんが、「唐突」という点では、「アスカ河」以下、様々な地名が交錯するのも珍しく、渡邊氏の「連歌的とも言える表現方法」に倣えば「早歌的とも言える表現方法」なのかもしれませんが、「落ち着き」は悪いですね。
ただ、実は道家の長歌の最大の謎は、個々の表現にあるのではありません。
道家の長歌は順徳院の長歌に全く対応していない点が本当に奇妙なのです。
順徳院と九条道家の長歌贈答について(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/95463ff3ed9d424ab627e6c5ae5ede87