学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

渡邉裕美子論文の達成と限界(その5)

2023-06-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

九条道家の長歌についても、久保田淳氏の注釈・現代語訳の素晴らしさを確認しておきたいと思います。(岩波新大系、p358以下。数字は注記の番号。19番が反歌)

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7 久堅〔ひさかた〕ノ 月日ヘダツル 空ノクモ [       ] ヨソニシテ
  イツトモシラヌ アフヒグサ

「わが君にお別れしてから月日は隔たり、空の雲……すっかり局外に置かれて、わが君にお逢いできるのはいつともわかりません」

8 日カゲニムスブ 心モテ 朝夕君ニ ツカヘコシ ソノカミ山ニ 吹風ノ 目ニミヌカタヲ
  オモヒヤリ サカヒハルカニ ナルマゝニ ヤスムコゝロモ

「摂政を解任されたわたしは日蔭の身で愁えに結ぼおれた心を抱きつつ、朝に夕にわが君にお仕えしてきたその昔を偲び、目に見えない遠く佐渡の方向を思いやり、そこが都から遥か彼方と思うと心安らぐ折もありません」

9 ナミダノミ トゞマラヌ日ニ 流レツゝ シヅミハツルモ アスカ河 キノフノハルノ
  イツノマニ 今日ノウキヨニ

「涙だけは過ぎてゆく日同様止まることなく流れ、すっかり沈淪してしまったにつけ、飛鳥川の淵瀬が変るように、昨日は我が世の春だったのにいつのまに今日の憂き世に遇ったのだろうかと思われます」

10 アフミナル トコノ山路ニ 有〔あり〕トキク イサヤアヤナク アヤムシロ 
  シキシノベドモ 

「近江の鳥籠(とこ)の山路にあると聞いている不知哉(いさや)川ではありませんが、さあわけもなく綾席を敷いて、わが君をしきりにお偲び申しあげますが」

11 シキシマノ 道ニハアラヌ

「和歌の道ではない。上の「シキシノベ」から言い起こす」

12 <本ノ> [   ] 

「底本で欠字となっていたことを示す」

※ 入江ノ水モ 山ノハモ ミドリノ空ニ 日ノ色モ ウスキ衣ニ 秋クレテ 

13 人メカレ行〔ゆく〕 シタ草ノ オトロヘハツル ハツシグレ フル<本ノ>[  ] 
  道ノソラ

「人の訪れも絶え下草もすっかりすがれ、初時雨の降る冬となりました」

14 空ノケシキモ アラチ山 道ノアハ雪 サムキヨノ ミギハノ千鳥 打ワビテ
  鳴音〔なくね〕カナシキ 

「空の様子も荒々しい愛発(あらち)山を越えて行く道には淡雪が降って寒い夜、汀の千鳥がわびしげに鳴く声も悲しい。

15 袖ノウヘヤ モシホタレツゝ

「わたしも袖の上に涙をこぼしています」

16 アマノスム 里ノシルベモ ユウケブリ 煙モ浪モ 立〔たち〕ヘダテ

「海人の住む郷のしるべとなる藻塩焼く夕煙ではありませんが、都から佐渡までは雲煙波濤を隔てています。「海人の住む里のしるべにあらなくにうらみむとのみ人のいふらん」(古今集・恋四・小野小町)」

17 雲井ニミヘシ 在明〔ありあけ〕ノ アフギシ人ヲ マガヘツゝ コゝロノヤミノ
  ハレマナキ 

「かつて禁中で見た有明の月を仰ぎ見たわが君にまがえつつ、わたしの心の闇は晴れる間もありません」

※ 秋ノ都ノ ナガキヨニ

18 ハツシモムスブ 白〔しら〕ギクノ ウツロヒ行ヲ 白妙〔しろたへ〕ノ ウキヨノ色ト
  オドロケバ ネデモミヘケル ユメノミチ ウツゝニナラデ マヨフコロ哉

「初霜が置いて色うつろう白菊の色を憂き世の色かと驚くと、寝ないでもわが君にお逢いできるという夢を見ますが、それが現実のこととならないので、迷っているこの頃です」

19 イトヘドモ猶〔なほ〕ナガラヘテ世ノ中ニウキヲシラデヤ春ヲマツベキ

「つらい世と厭うもののやはり生き永らえて、憂さつらさに堪えて春の訪れを待つべきでしょうか」
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以上、こちらも私が※を付した二箇所を除き、ほぼ全訳になっていますが、実に素晴らしい現代語訳ですね。
素人が普通に読んでいる限り、滑らかに意味が通じているように思えます。
しかし、渡邉裕美子氏は、7の「アフヒグサ」、8の「日カゲ」と「ソノカミ山」は「唐突に賀茂社の縁で歌い出している」点が不審だとされます。
そして、「細かな検討は、紙幅の都合上、省略に従わざるを得ないのだが、一点だけ確認しておきたい」と前置きした上で、「入江ノ水モ」から13の「ハツシグレ」、14の「アハ雪」までは、「四季の移ろいが歌われている。しかし、それぞれの季節の景がきちんと形象化されないまま、次の表現に流れてしまっている。連歌的とも言える表現方法で、和歌としてはとても落ち着きが悪い」とされます。
そして、結論として「やはり、代々歌壇の庇護者であった九条家の伝統を受け継ぎ、歌人として活動していた道家の歌とは到底思われない」とのことです。

順徳院と九条道家の長歌贈答について(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37eac5fd77df4203bf373db57e9e6502

私には和歌の細かな表現を分析する能力はありませんが、「唐突」という点では、「アスカ河」以下、様々な地名が交錯するのも珍しく、渡邊氏の「連歌的とも言える表現方法」に倣えば「早歌的とも言える表現方法」なのかもしれませんが、「落ち着き」は悪いですね。
ただ、実は道家の長歌の最大の謎は、個々の表現にあるのではありません。
道家の長歌は順徳院の長歌に全く対応していない点が本当に奇妙なのです。

順徳院と九条道家の長歌贈答について(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/95463ff3ed9d424ab627e6c5ae5ede87

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渡邉裕美子論文の達成と限界(その4)

2023-06-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

順徳院と九条道家の長歌贈答に関する久保田淳氏の注釈・現代語訳がどれほど素晴らしいものであるかを確認しておくことにします。
まずは順徳院の長歌から見て行きます。(岩波新大系、p357以下。数字は注記の番号。途中で頁が変わって1に戻り、2番が反歌)

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28 天ノ原 空行月日〔そらゆくつきひ〕 クモラネバ 清キコゝロハ サリトモト
  タノムノ雁ノ ナクナクモ 花ノ都ヲ タチ放〔ハナ〕レ 

「大空をめぐる月や日は曇らないから、わたしの清廉な心はいくら何でもはっきりするだろうと、それを頼みにしつつ、雁が鳴くように泣く泣く花洛を離れた」

29 秋風吹〔フカ〕バト チギルダニ 越路ニオフル クズノハノ 帰ラン程ハ サダメナシ

「秋風が吹くころには帰れるだろうと約束したが、この越後路に生えている葛の葉は秋風に翻るけれども、いつ帰洛できることか、その期限ははっきりしない」

30 マシテアダナル 露ノ身ノ 道ノ草葉ニ ハルバルト ナニニカゝリテ 今日マデハ
  ナヲアリソ海ノ マサゴヂニ オヒタル松ノ音ヲヨハミ カハクマモナキ 袖ノ上ニ

「ましてはかない命は道の草葉の露と消えてしまいそうなのに、はるばる遠くまで来て、何をたよって今日まで生き永らえ、荒磯海の砂地に生える松の根のように泣く音も弱く、袖の上は涙で乾く間もない」

31 ヌルモネラレヌ 夜半〔よは〕ノ月 アフギテ空ヲ 詠〔なが〕ムレバ 雲ノ上ニテ 
  見シ秋ノ 過ニシカタモ ワスラレズ 

「寝ても寝られぬまま空を仰いで夜半の月を眺めると、過ぎし日禁中で見た時のことも忘れられない」

※ マドロムヒマハ 無〔なけ〕レドモ サナガラ夢ノ 心地シテ

32 モユルオモヒノ 夕フ煙〔けぶ〕リ ムナシキ空ニ ミチヌラン 

「胸を焦がす憂苦の思いの火から立ち昇る夕煙は虚空に充ち満ちていることであろう」

※ ソレニ附〔つけ〕テモ 故郷〔ふるさと〕ノ 人ノ事サヘ

33 数々ニ シノブノノキヲ 吹結〔ふきむす〕ブ 風ニ浪ヨル 呉竹〔くれたけ〕ノ 

「あれこれと偲んでいるわたしの配所の軒に生えた忍ぶ草を風が吹き結び、浪が寄せる」

34 カゝルウキ世ニ メグリキテ 是モムカシノ 契リゾト オモヒシラズハ ナケレドモ
  人ノコゝロノクセナレバ ナグサム程ノ 事ゾナキ 

「このような憂くつらい世の中に転生輪廻してきたのも前世の因縁なのであろうと悟らない訳ではないが、人心の常だから心の慰めようもない」

35 是ハ明石ノ 秋ナレバ 四方〔よも〕ノ紅葉ノ 色々ニ タノムカゲナク シグレツゝ
  我身ヒトツニ ウツロヒテ 霜ヨリサキニ クチハテン 

「明石の浦の秋も同じだから四方の紅葉は色とりどりだが、わたしが身を寄せる木蔭もなく、やがて時雨が降り、散ってしまい、霜の降りる前に朽ちはててしまうだろう」

1  ウキナハサテモ 山河ノ 色ニタゞヨフ 水ノアハノ キヘヌモノカラ ナガラヘテ
  イカナル世ヲカ ナヲタノムベキ 

「わが憂き名はそれでもやまず、紅葉が彩る山川の水の泡が消えないように、死なないものの、生き永らえて、どのような世の中をなおも期待したらよいのであろうか」

2  ナガラヘテタトヘバ末ニカヘルトモウキハコノ世ノ都成ケリ

「たとえ生き永らえた末に帰洛できたとしても、この世は憂くつらいことの多い都であるよ」
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以上、私が※を付した二箇所を除き、ほぼ全訳になっていますが、実に素晴らしい現代語訳で、これを読んだ人は特に変な歌とは思わず、順徳院の歌であることを決して疑わないと思います。
しかし、渡邉裕美子氏によれば、29の「「葛」を「越路ニオフル」とする点は、やや不審」で、何故なら「伝統的な歌ことばの世界では、「葛」は「越路」の景物として認知されていない」からだそうです。
また、30の「ハルバルト」という副詞句も変で、そもそも何に掛かっているのかすら分からず、「何とも落ち着きが悪い」上に、「有磯海」は「院政期以降、越中の名所と捉えられるようになっている」にもかかわらず、「佐渡の海を目前にして、海を隔てた越中の「有磯海」を取り上げるのでは理屈が合わない」そうです。
そして特に問題なのは32の「モユルオモヒ」と「ムナシキ空ニミチヌ」で、こうした「恋心と結びつけられてきた表現は、臣下に贈る述懐歌にはどうにもそぐわない」とのことです。
後半に入ると、33の「吹結ブ」に「「露(玉)」等の目的語があれば問題ないが、当該歌では何を「吹結ブ」のか明確では」なく、35の「明石」も「なぜ唐突に出て来たのか理解し難い。佐渡の秋が「明石」と同じであることを言うのであろうか。であるとすれば、相当、舌足らずな表現」とのことです。
同じく35の「タノムカゲナク」は「臣下が主君を思って詠む表現である。王が詠むべき表現ではない」とのことです。
頁が変わって1の「山河ノ色ニタゞヨフ水ノアハ」については、「紅葉の散り敷いた川面に浮かぶ水の泡を表現しようとしているのであろうか。それが消えることのない「ウキナ」(憂き名)の比喩なのだろうか。表現として不十分であるし、比喩として適切であるとも思われない」とのことです。
このように久保田訳を読んでいれば何となく分かったような気分になる箇所も、渡邉氏の解説を聞くと、やっぱり変に思えてきますが、しかし、これは本当に微妙な、和歌の専門家だけに違いが分かる高度なレベルの話ですね。
久保田氏にすれば、渡邉氏に反論したい部分があるのかもしれません。
しかし、「恋心と結びつけられてきた表現は、臣下に贈る述懐歌にはどうにもそぐわない」といった点は、私には致命的な問題点のように思われます。

順徳院と九条道家の長歌贈答について(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/30b9827f1d9d41a2a0dcc3ce0e2e3fed
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6bfcfb2614c9d9de0a3660ef4c0261b4

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