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順徳院と九条道家の長歌贈答について(その2)

2023-02-07 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

それでは渡邉裕美子先生の解説を拝聴することにしましょう。(p83以下)
古文書・古記録は読めても、名誉教授・教授・准教授といった立派な肩書を持っていたとしても、大半の歴史研究者の文化・教養の水準は隠岐の海を泳いでいるクジラやイルカとたいして違わないのだから、謙虚な気持ちで、心して聞くように。

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 五、順徳院の長歌

 では、順徳院と道家で交わされた長歌はどうであろうか。まず順徳院の長歌を、以下六つに分けて見てみよう。

 ①天ノ原 空行月日 クモラネバ 清キコゝロハ サリトモト タノムノ雁ノ ナクナクモ
  花ノ都ヲ タチ放レ 秋風吹バト チギルダニ 越路ニオフル クズノハノ 帰ラン程ハ
  サダメナシ

 歌い出しの「空行月日」という表現の用例はごく限られる。「空行く月」「空行く雲」であれば古くから例があるが、「空行月日」となると、新古今時代になって良経と定家に僅かな例が見える程度である。そのうち良経歌は、「さりともと光は残るよなりけり空行く月日のりの灯し火」(秋篠月清集・南海漁夫百首・五九七「述懐」)、「くもりなき雲ゐに末ぞ遥かなる空行く月日果てを知らねば」(正治初度百首・五〇〇「祝」)といったもので、「空行月日」以外にも長歌と重なる表現があって注意される。
 長歌に戻ると、その先では、雁が「花の都」を離れて「秋風」吹くころ都に戻ることに重ねて帰京の願いが歌われる。ここでは、「ゆく空もなくなく帰る雁がねは花の都や立ち憂かるらん」(万代集・春上・一八三・禖子内親王家式部)を踏まえていると考えられる。順徳院が都を出立したのは七月なので時節が合わないが、順徳院には、「聞秋雁」という題で「越路より花の都の旅なれや宿もさだめず雁ぞ鳴くなる」(紫禁和歌集・一一五六)という歌がある。「花の都」は都の美称だと考えればよいのだろう。続く「秋風吹バト」以下の表現は、次の『拾遺集』の詠み人不知歌を本歌として構成されている。
  忘るなよ別れぢにおふる葛の葉の秋風吹かば今帰りこむ
                     (別・三〇六)
 後鳥羽院の『遠島百首』には、同じ拾遺集歌を本歌として、帰京できない歎きを詠む「古郷を別路におふるくずの葉の風は吹けどもかへるよもなし」(四一)という秋歌が見える。ただ、当該長歌で「葛」を「越路ニオフル」とする点は、やや不審である。伝統的な歌ことばの世界では、「葛」は「越路」の景物として認知されていない。先に進んでみよう。

 ②マシテアダナル 露ノ身ノ 道ノ草葉ニ ハルバルト ナニニカゝリテ 今日マデハ ナヲ
  アリソ海ノ マサゴヂニ オヒタル松ノ 音ヲヨハミ カハクマモナキ 袖ノ上ニ ヌルモ
  ネラレヌ 夜半ノ月 アフギテ空ヲ 詠ムレバ 雲ノ上ニテ 見シ秋ノ 過ニシカタモ ワ
  スラレズ

 「道の草葉」の「露」のようにはかない我が身でありながら生き長らえ、涙に濡れつつ宮中を懐かしむ内容である。「真砂地」に生えた「松の根」の頼りなさを歌う例に、順徳院主催の『建保名所百首』において、「高師浜」題で詠まれた家隆の歌「うつ波の高しの浜の真砂ぢにおいける松のねこそあだなれ」(七九七)がある。
 ただし、当該長歌では「ハルバルト」という表現に問題がある。「ありそ海」について「はるばると」と詠む例は他にもあるのだが、「はるばると」という副詞句は、「見る」という眺望する行為や、「通ふ」という移動する行為に掛かるのが一般的である。ここでは、「カゝリテ」に掛かるのだろうか。それとも「アリソ海」の掛詞「有る」(生き長らえる)に掛かるのだろうか。何とも落ち着きが悪い。「有磯海」は元来は普通名詞だったが、院政期以降、越中の名所と捉えられるようになっている。越中国の「有磯海」は「葛」の名所とされたので、①に「葛」が出てきたのはその縁だろうか。しかし、当該長歌では佐渡の海を目前にして、海を隔てた越中の「有磯海」を取り上げるのでは理屈が合わない。やはり、「岩石が露出し、荒波の打ち寄せる海辺」(日本国語大辞典)という普通名詞の意で解釈すべきなのだろうか。いろいろと不分明なことが多い。

 ③マドロムヒマハ 無レドモ サナガラ夢ノ 心地シテ モユルオモヒノ 夕フ煙リ ムナシ
  キ空ニ ミチヌラン

 夢のようで信じられない現状を訴え、述懐の思いを「煙」に託して表現する。しかし、ここでも不自然な表現が見られる。述懐の思いを「煙」に託す例は、定家に「下燃ゆるなげきの煙空に見よ今も野山の秋の夕暮れ」(定家卿百番自歌合・一六二「於北野聖廟詠之」)のような例があって、異例ではない。しかし、述懐歌の場合、定家の歌のように「なげき」(「歎き」と「投げ木」の掛詞)が共に詠み込まれる例が多い。対して、当該長歌で詠まれる「モユルオモヒ」は、『古今集』の長歌に「世の人の 思ひするがの 富士のねの 燃ゆる思ひも あかずして」(雑体・一〇〇二・貫之)と恋の表象として詠まれている。さらに続く「ムナシキ空ニミチヌ」というのも、著名な『古今集』読人不知の恋歌「わが恋はむなしき空にみちぬらし思ひやれどもゆく方もなし」(恋一・四八八)を踏まえた表現である。これら恋心と結びつけられてきた表現は、臣下に贈る述懐歌にはどうにもそぐわない。
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いったん、ここで切ります。
①の部分は他と比べるとそれほど変なところはないけれども、「「葛」を「越路ニオフル」とする点は、やや不審」で、何故なら「伝統的な歌ことばの世界では、「葛」は「越路」の景物として認知されていない」からですね。
ついで②の部分は、「ハルバルト」という副詞句が変で、そもそも何に掛かっているのかすら分からず、「何とも落ち着きが悪い」上に、「有磯海」は「院政期以降、越中の名所と捉えられるようになっている」にもかかわらず、「佐渡の海を目前にして、海を隔てた越中の「有磯海」を取り上げるのでは理屈が合わない」訳ですね。
そして一番問題なのは③の部分で、確かに「恋心と結びつけられてきた表現は、臣下に贈る述懐歌にはどうにもそぐわない」ですね。
まあ、順徳院(1197-1242)が九条道家(1193-1252)に「恋心」を抱いていたのであれば、このアポリアを解決できるのかもしれませんが、そういう話もあまり聞きません。

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