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「この日〔建武二年九月二七日〕は尊氏にとって生涯の一大転機となった」(by 森茂暁氏)

2021-08-21 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月21日(土)11時27分5秒

新田義貞率いる東征軍が出発した時期について少し検討してみましたが、一番不思議なのは何故に森氏がこんな論点にこだわるのか、ですね。
『太平記』の流布本には「十一月八日新田左兵衛督義貞朝臣、朝敵追罰の宣旨を下し給て、兵を召具し参内せらる」とあるので、『大日本史料 第六編之二』ではこの当否について一応の検討がなされていますが、十九日が正しいだろうという結論です。
そして、以後、この論点を真剣に論じている研究者はおそらくいないはずです。
この日時のずれが後醍醐・尊氏の関係を考察する上で重大な影響を与えるならともかく、森説においても特にそんなことはないようで、結局、森氏のこだわりの理由は謎ですね。

「この奏状、未だ内覧にも下されざりければ、普く知る人もなかりける所に」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/78c8b87b0df9444dc6cfaf14304e3d0c

さて、森氏は「尊氏に即してみると、後醍醐の制止をよそに、すでに建武二年九月二七日には勲功の武士に恩賞給付の袖判下文を一斉に発給しながら、なおも後醍醐との決別を意図的に忌避していたことになる」(p110)とされていますが、こちらは森氏の独自説ではなく、佐藤進一氏を始めとして圧倒的な通説です。
ただ、亀田俊和氏が「足利尊氏─室町幕府を樹立した南北朝時代の覇者」(『南北朝武将列伝 北朝編』所収、戎光祥出版、2021)において、「充行の袖判下文は陸奥将軍府の北畠顕家も同時期に大量に発給している」(p180)と指摘されているように、尊氏の権限が北畠顕家と同等になった程度の話ともいえます。
また、亀田氏を含め、従来の研究者は尊氏が後醍醐の命に反して、自己に与えられた権限を越えて恩賞給付を行なったとされる訳ですが、私はこの点にも疑問を抱いています。
そこで、中先代の乱勃発後の尊氏の権限の変化について検討したいと思いますが、私見を述べる前に、まずは森著を少し遡って、関係する文書の内容を確認しておきます。(p87以下)

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 さて本論に戻ろう。『梅松論』によれば、尊氏はこの乱を平定すべく同年八月二日に軍勢を率いて京都を立ち、力戦の末、同八月十九日鎌倉を奪回した。この武力騒乱が結果的に眠っていた尊氏の武門の棟梁としての統治権的支配権を目覚めさせたといえる。武士たちの武家政権樹立への期待感はとくに関東で急速に高まりかつ実質化したものと思われる。
 おりしも乱平定後、後醍醐は勅使を派遣して尊氏に帰洛を催促している。『梅松論』によれば、関東に下着した勅使頭中将中院具光は、

  今度東国の逆浪、速に静謐する条、叡感再三なり。但し、軍兵の賞におゐては京都に
  於て、綸旨をもて宛行るべきなり。先早々に帰洛あるべし。

と、つまり「兵乱の早期平定に後醍醐天皇はご満悦であるが、軍兵の恩賞沙汰は京都において天皇の綸旨をもって行うのでこれには関与することなく、まず京都に帰るように」との後醍醐の意向を尊氏に伝えている。要するに、後醍醐は尊氏に対して「恩賞のあてがいをしないように」とクギをさしているのである。
 しかし、封印されていた尊氏の袖判下文発給は、右述のように限定的ではあるが一旦再開され、まもなく全面的に解禁されることになる。それは建武二年九月二七日のことであった。時期的にみると、さきの勅使による禁止通達の直後であろう。この日は尊氏にとって生涯の一大転機となった。勲功の武士に対して恩賞地を給付する袖判下文がこの日付で全九点も残存している(「倉持文書」「佐々木文書」等)。尊氏にとっては、のちの後醍醐による官位の剥奪(建武二年一一月二六日)を待つまでもなく、この日が後醍醐との実質的な決別のときであったとみてよい。おそらく尊氏は中先代の乱で力戦した軍功の武士たちの要求の声に押されて、彼らに対する恩賞給付を行ったのであろう。
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「時期的にみると、さきの勅使による禁止通達の直後であろう」とあるので、森氏は中院具光の関東下向を九月中・下旬のことと考えられておられる訳ですね。
この点、私も以前に少し検討したことがあり、『大日本史料 第六編之二』では中院具光の下向記事は十月十五日条に置かれているものの、私は九月上旬くらいの出来事だったのでは、と考えていました。
中院具光については、後で再検討したいと思います。

『大日本史料』建武二年十月十五日条の問題点(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/922a40e05ad18c71fbe1ac76dde7f549
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/98f75d77eb2d51b956fd26d01a2d47a8
「尊氏奏状が十一月十八日到達では遅すぎるか?」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4f7d739295be49fa2da42716bb912de7

さて、森氏はこの後、些か奇妙なことを言われます。(p89)

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 ここで注意すべきことがある。『太平記巻一三』「足利殿東国下向の事」によると、尊氏は中先代の乱鎮圧のために東下するとき、関東での裁量権について後醍醐と条件交渉をする場面がある。それによると、最終的には征夷将軍の称はお預けになったものの「直ニ軍勢ノ恩賞ヲ取行様ニ」(『太平記』三四七頁)、つまり軍功の将士に恩賞を直接与える権限を獲得することに成功するのである。右で述べた尊氏の袖判下文はこれを踏まえたものであると考えられるから、一方的な越権行為とはいえない。
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うーむ。
私は尊氏が八月二日の関東下向時に「後醍醐と条件交渉をする場面」は『太平記』の創作と考えますが、仮にこれが事実であり、しかも尊氏が「軍功の将士に恩賞を直接与える権限を獲得することに成功」していたならば、尊氏による恩賞給付は「一方的な越権行為とはいえない」どころか、尊氏の正当な権限の範囲内の行為であり、全く何の問題もないことになります。
とすると、何故に九月二十七日が「のちの後醍醐による官位の剥奪(建武二年一一月二六日)を待つまでもなく、この日が後醍醐との実質的な決別のとき」となるのか。
森氏の主張には論理的一貫性がないように思われます。
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