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西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その5)

2020-11-25 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月25日(水)18時46分28秒

昨日の投稿では桃崎有一郎氏『室町の覇者足利義満』の記述について、「桃崎氏はいったい何を根拠にこんなことを言っているのだろう、と不思議に感じた次第です」などと息巻いてしまいましたが、これは『大日本史料』ですね。
私の場合、『大日本史料』は某大学図書館で閲覧できるのですが、コロナの関係でちょっと行きづらくなってしまっていて、代わりに何かないかなと考えて、『続史愚抄』を見て昨日の投稿となりました。
ただ、結果的には『大日本史料』を見ないまま色々考えたことが良かったようです。
というのは、『大日本史料』の記述にも少し問題がありそうだからです。
まず、『大日本史料 第六編之二』の建武二年八月一日条を見ると、

-------
一日、<庚戌>成良親王ヲ征夷大将軍ト為ス、

〔相顕抄<前田侯爵家本>〕<鎌倉将軍次第> 成良親王<自元弘三十二、至建武二年、>建武二八一、為征夷大将軍云々、

〔神皇正統記〕<後醍醐天皇> <〇上文、足利直義、成良親王ヲ奉ジテ鎌倉ニ赴キシコトヲ記セリ、元弘三年十二月十四日ノ条ニ収ム。>
此親王、<〇成良>後にしばらく征夷大将軍を兼させ給ふ、

〔職原抄〕征夷大将軍一人、元弘一統之初、兵部卿護良親王暫任之、其後上野太守成良親王令兼之給、建武三年二月、被止其号畢、<〇号ヲ止メラレシコトハ、明年二月々末ニ本条アリ>

  〇是ヨリ先、親王出デゝ、鎌倉ニ鎮セラレ、執権以下ノ諸職ヲ補セラ
  レシモ、仍ホ上野太守ニテ在シゝガ、<元弘三年十二月十四日、建武元年正月十三日ノ条参看、>此ニ
  至リテ、遂ニ征夷大将軍ニ兼補セラレ給ヒシナリ、是時、尊氏自ラ東伐
  セントシテ、征夷大将軍タランコトヲ請ヒ奉リシモ、聴サレザルコト、
  二日ノ条ニ見ユ、参看スベシ、
-------

となっています。
『相顕抄』『神皇正統記』『職源抄』のうち、成良親王が建武二年(1335)八月一日に征夷大将軍になったことを明示するのは『相顕抄』だけで、北畠親房の『神皇正統記』は「後にしばらく征夷大将軍を兼させ給ふ」、同じく北畠親房の『職原抄』は「建武三年二月、被止其号畢」と終期のみ記し、始期ははっきりしません。
とすると、『相顕抄』がどれだけ信頼できる史料なのかが問題となりますが、今の私には判断材料がないので、後日の課題とします。
『大日本史料』の編者はもちろん『続史愚抄』の存在を知っていて、他の箇所では引用していますが、成良親王の征夷大将軍任免に関しては『続史愚抄』の引用はありません。
そして、南北朝時代の研究者にとって、『続史愚抄』など所詮は近世の編纂物でしょうから、『大日本史料』で採用していないのにわざわざ見ようとする人は少ないでしょうね。
さて、『大日本史料』の編者が、この時、尊氏が征夷大将軍にしてくれと言ったけれども後醍醐の勅許はなかったことについては二日条を参照せよ、と書いているので、二日条を見ると、「前中納言従二位久我通定出家ス」関係の記事が少し、ついで「西園寺公宗、及ビ日野氏光、三善文衡ヲ誅ス」関係の記事が延々と続いた後、

-------
足利尊氏、自カラ往キテ北条時行ヲ伐タント請ヒ、且、征夷大将軍総追捕使タランンコトヲ望ム、未ダ許サズ、是日、命ヲ待タズシテ発ス、尋デ、尊氏ヲ征東将軍ニ補ス、

〔元弘日記裏書〕建武二年八月二日、尊氏卿出京、

〔武家年代記〕<下 裏書>今年七月先代一族、并諏訪祝、自信州令蜂起、打入鎌倉ノ間、足利源宰相家、蒙征夷将軍ノ宣旨、同八二進発、為凶徒追伐関東御下向、

〔神皇正統記〕<後醍醐天皇> 高氏ハ申うけて東国にむかひけるか、征夷将軍ならひに諸国の総追捕使を望けれと、征東将軍<〇印本征夷ニ作レルハ誤レリ、>になされて、ことことくはゆるされず、<〇下文十一月十八日ノ条ニ収ム>

〔梅松論〕<〇前文七月二十二日ノ条ニ収ム> 扨関東の合戦の事、先達て京都へ申されけるに依て、将軍<〇尊氏ヲ指ス、>御奏聞有けるは、関東にをいて、凶徒既に合戦をいたし、鎌倉に責入間、直義朝臣無勢にして、ふせき戦ふへき智略なきに依て、海道に引退きし其聞え有上は、いとまを給ひて合力を加へき旨、御申たひたひにをよふといへとも、勅許なき間、所詮私にあらす、天下の御為のよしを申し捨て、八月二日京を御出立あり、此比公家を背奉る人々、其数をしらす有しか、皆喜悦の眉をひらきて、御供申けり、三河の矢作<〇三河碧海郡>に御著有て、京都鎌倉の両大将御対面あり、<〇下文十八日ノ条ニ収ム、>

〔太平記〕【中略】

〔保暦間記〕<〇前文七月二十五日ノ条ニ収ム、> 京都ノ騒動不斜、其時尊氏可罷向由仰ラル、直義打負テ落上ハ、申請テ可罷向由存候、但頼朝カ任例、征夷将軍ノ宣旨ヲ蒙ラント申ス処ニ、不叶シテ征夷<〇征夷ハ征東ノ誤リ、>将軍ノ官ヲ送ラル、無念ニ乍存、既ニ高氏<〇尊氏ニ作ルベシ>ハ発向シケリ、直義ニハ三河国ニシテ行合、共下向ス、<〇下文十八日ノ条ニ収ム、>

〔保暦間記〕【中略】
〔難太平記〕【中略】
〔応仁記〕【中略】
〔源氏系図〕【中略】
〔吉野御事書案〕【中略】
〔室町家伝〕【中略】
〔石川系図〕【中略】

  〇尊氏ノ東下、諸書或ハ勅許ヲ得タリトセルモノアリ、今、梅松論ニ従
  ヒテ掲書ス、又、尊氏ノ征東将軍ニ補セラレシハ、九日ナレドモ、文連ナ
  ルヲ以テ、此ニ合叙ス、其征夷大将軍ニ補セラレシハ、南朝延元三年、北
  朝暦応二年八月十一日ニ在リ、諸書往々征夷征東ヲ混ゼルハ非ナリ、
  此後、尊氏連戦シテ、凶徒ヲ破リ、鎌倉ニ入ルコトハ、十八日ノ条ニ見ユ、
  参看スベシ、
-------

とあります。
編者が一番信頼したらしい『梅松論』には尊氏が征夷大将軍を望んだという記述はなく、『太平記』を除いて、尊氏が何らかの地位を望んだと記すのは、

『神皇正統記』:「征夷将軍ならひに諸国の総追捕使を望けれと」
『保暦間記』:「頼朝カ任例、征夷将軍ノ宣旨ヲ蒙ラント申ス処ニ、不叶シテ征夷<〇征夷ハ征東ノ誤リ、>将軍ノ官ヲ送ラル、無念ニ乍存」

だけです。
『梅松論』が「直義朝臣無勢にして、ふせき戦ふへき智略なきに依て、海道に引退きし其聞え有上は、いとまを給ひて合力を加へき旨」云々と記すように、尊氏にしてみれば愛する弟が死ぬかもしれない緊急事態ですから、下向の勅許はともかく、その際にあれこれ官職を望むものなのか。
「征夷大将軍」の肩書に敵を撃退する魔法の力があればともかく、北条時行らの「凶徒」にそんな肩書は全く通用しないでしょうから、『太平記』が強調するところの「征夷大将軍」をめぐる尊氏と後醍醐の厳しい折衝は後付けの作り話ではなかろうか、という疑問を感じます。
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