投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月19日(木)10時53分54秒
私は『太平記』の尊氏奏状は創作で、『神皇正統記』の「義貞を追討すべき奏状を奉る」という記述も不正確であり、尊氏奏状は義貞追討を目的としたものではないと考えますが、こう考えると建武二年十一月以降の各種古文書の発給状況を最も合理的に説明できるのではないかと思っています。
そこで、先ずは関係する古文書の概要について、最新の研究である森茂暁氏の『足利尊氏』(角川選書、2017)に即して基礎的事項を確認しておきます。
ただ、一般的な理解では、義貞に率いられた東征軍の京都出発は十一月十九日、実際の戦闘行為は三河矢矧川で十一月二十五日から始まるとされているにもかかわらず、森氏は「はたして義貞の関東下向はいつのことか明確でない」(p109)という立場なので、私にとっては不可解な記述も散見されます。
ま、それは個別に指摘することとして、同書の「第二章 足利尊氏と後醍醐天皇」の「三 建武政権からの離脱」から紹介して行きます。(p107以下)
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新田義貞との主導権争い
足利尊氏が新田義貞と厳しく対立したのは事実で、その具体的様相については『太平記巻一四』の「足利殿と新田殿確執の事、付 両家奏状の事」に詳しく描かれている。その主導権争いは両者の軍事的立場から考えると、ある意味では必然的であったといえるが、その確執は具体的にはどのように進展したか特に文書史料を利用して検討してみよう。
尊氏と直義の発した軍勢催促状を網羅的に収集し整理してみると、直義が尊氏に先んじて新田義貞誅伐の軍勢催促状を発していることがわかる。直義のそれは、建武二年一一月二日付がもっとも早く、この日付だけで一〇点が残存している(「入来院文書」『南北朝遺文 九州編一』三三二号など)。これを手始めにして、この種(義貞誅伐)の直義軍勢催促状は、建武三年八月一七日付(「朽木古文書」、『大日本史料六編三』七〇三頁)まで全部で二七点収集することができた。
同様に尊氏についてみると、尊氏の義貞追討の軍勢催促状は、建武二年一二月一三日付(「大友家文書」、『南北朝遺文 九州編一』三五六号)を諸賢として、建武三年九月三日付(「安芸田所文書」、『南北朝遺文 中国・四国編一』四六六号)まで全部で三〇点収集することができた。
これらのことから考えると、尊氏・直義─義貞との間の軍事的抗争は、建武二年一一月初めにまず直義─義貞の間で始まり、それより約四〇日おくれて同年一二月半ばになって尊氏も行い始めたとみることができる(なお建武三年九月を最後に尊氏・直義の軍勢催促状に義貞誅伐の文言が登場しなくなる)。
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いったん、ここで切ります。
「尊氏・直義─義貞との間の軍事的抗争は、建武二年一一月初めにまず直義─義貞の間で始まり、それより約四〇日おくれて同年一二月半ばになって尊氏も行い始めたとみることができる」とありますが、別に足利側は尊氏に直属する軍隊と直義に直属する軍隊に分かれていて、それぞれが別個独立に「義貞との間の軍事的抗争」を行なった訳ではないのだから、少し変な書き方ですね。
なお、直義が十一月二日付で発した軍勢催促状の一例は既に紹介済みです。
「尊氏奏状が十一月十八日到達では遅すぎるか?」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4f7d739295be49fa2da42716bb912de7
さて、続きです。(p108以下)
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他方、『太平記』『梅松論』『保暦間記』などの記録類・編纂物によると、この間のいきさつについて様々に描くところがあるが、それらが事実か否かを裏付けるのは至難のわざである。しかしなかでも割と正確そうにみえるのが『梅松論』で、以下のように描く。
今度両大将〔尊氏・直義〕に供奉の人々には、信濃・常陸の闕所を勲功の賞に宛行はるゝ処に、
義貞を討手の大将として関東へ下向のよし風聞しける間、元義貞の分国上野の守護職
を上杉武庫禅門〔憲房〕に任せらる。
このうち「信濃・常陸の闕所を勲功の賞に宛行はるゝ処」とは、先の建武二年九月二十七日の恩賞あてがいの尊氏袖判下文の大量発給のことをさすと考えられ、これをうけて「義貞を討手の大将として関東へ下向のよし」と続いている。
はたして義貞の関東下向はいつのことか明確でない。このとき以下の『太平記巻一四』の記事が参考となる。すなわち、「四国・西国ヨリ、足利殿成レタル軍勢催促ノ御教書トシテ数十通是ヲ(後醍醐に)進覧ス」とし、それが後醍醐を尊氏追討に踏み切らせた決定的要因となったと記す点である。ここにみる「数十通」の「軍勢催促ノ御教書」とは先にみた、主として西国武将たちにあてて足利直義が建武二年一一月二日付で大量に発給した軍勢催促状であった可能性が高く、またそのことが義貞の関東下向という事態を引き起こしたと考えることができる。となると義貞の関東発向は建武二年一一月のこととみなされる。
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うーむ。
流布本を除く『太平記』の諸本には義貞が十一月十九日に京都を出発したと書かれており、『元弘日記裏書』にも「同十九日尊良親王以下東征」とあります。
また、矢矧川の戦闘が二十五日から始まったことは『太平記』以外の史料で裏付けられていて、京都から矢矧川への移動の行程を考えても十九日出発を疑う必要は特にないように思いますが、森氏は何故にこの点にこだわるのか。
「となると義貞の関東発向は建武二年一一月のこととみなされる」という結論は正しいでしょうし、この結論を疑った歴史研究者もいないはずですが、果たしてこれは『太平記』の曖昧な記述から推論しなければならないような話なのか。
「両家奏状の事」(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8936a924b049ea0d11c4ca738d1083f3
「この奏状、未だ内覧にも下されざりければ、普く知る人もなかりける所に」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/78c8b87b0df9444dc6cfaf14304e3d0c
私は『太平記』の尊氏奏状は創作で、『神皇正統記』の「義貞を追討すべき奏状を奉る」という記述も不正確であり、尊氏奏状は義貞追討を目的としたものではないと考えますが、こう考えると建武二年十一月以降の各種古文書の発給状況を最も合理的に説明できるのではないかと思っています。
そこで、先ずは関係する古文書の概要について、最新の研究である森茂暁氏の『足利尊氏』(角川選書、2017)に即して基礎的事項を確認しておきます。
ただ、一般的な理解では、義貞に率いられた東征軍の京都出発は十一月十九日、実際の戦闘行為は三河矢矧川で十一月二十五日から始まるとされているにもかかわらず、森氏は「はたして義貞の関東下向はいつのことか明確でない」(p109)という立場なので、私にとっては不可解な記述も散見されます。
ま、それは個別に指摘することとして、同書の「第二章 足利尊氏と後醍醐天皇」の「三 建武政権からの離脱」から紹介して行きます。(p107以下)
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新田義貞との主導権争い
足利尊氏が新田義貞と厳しく対立したのは事実で、その具体的様相については『太平記巻一四』の「足利殿と新田殿確執の事、付 両家奏状の事」に詳しく描かれている。その主導権争いは両者の軍事的立場から考えると、ある意味では必然的であったといえるが、その確執は具体的にはどのように進展したか特に文書史料を利用して検討してみよう。
尊氏と直義の発した軍勢催促状を網羅的に収集し整理してみると、直義が尊氏に先んじて新田義貞誅伐の軍勢催促状を発していることがわかる。直義のそれは、建武二年一一月二日付がもっとも早く、この日付だけで一〇点が残存している(「入来院文書」『南北朝遺文 九州編一』三三二号など)。これを手始めにして、この種(義貞誅伐)の直義軍勢催促状は、建武三年八月一七日付(「朽木古文書」、『大日本史料六編三』七〇三頁)まで全部で二七点収集することができた。
同様に尊氏についてみると、尊氏の義貞追討の軍勢催促状は、建武二年一二月一三日付(「大友家文書」、『南北朝遺文 九州編一』三五六号)を諸賢として、建武三年九月三日付(「安芸田所文書」、『南北朝遺文 中国・四国編一』四六六号)まで全部で三〇点収集することができた。
これらのことから考えると、尊氏・直義─義貞との間の軍事的抗争は、建武二年一一月初めにまず直義─義貞の間で始まり、それより約四〇日おくれて同年一二月半ばになって尊氏も行い始めたとみることができる(なお建武三年九月を最後に尊氏・直義の軍勢催促状に義貞誅伐の文言が登場しなくなる)。
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いったん、ここで切ります。
「尊氏・直義─義貞との間の軍事的抗争は、建武二年一一月初めにまず直義─義貞の間で始まり、それより約四〇日おくれて同年一二月半ばになって尊氏も行い始めたとみることができる」とありますが、別に足利側は尊氏に直属する軍隊と直義に直属する軍隊に分かれていて、それぞれが別個独立に「義貞との間の軍事的抗争」を行なった訳ではないのだから、少し変な書き方ですね。
なお、直義が十一月二日付で発した軍勢催促状の一例は既に紹介済みです。
「尊氏奏状が十一月十八日到達では遅すぎるか?」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4f7d739295be49fa2da42716bb912de7
さて、続きです。(p108以下)
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他方、『太平記』『梅松論』『保暦間記』などの記録類・編纂物によると、この間のいきさつについて様々に描くところがあるが、それらが事実か否かを裏付けるのは至難のわざである。しかしなかでも割と正確そうにみえるのが『梅松論』で、以下のように描く。
今度両大将〔尊氏・直義〕に供奉の人々には、信濃・常陸の闕所を勲功の賞に宛行はるゝ処に、
義貞を討手の大将として関東へ下向のよし風聞しける間、元義貞の分国上野の守護職
を上杉武庫禅門〔憲房〕に任せらる。
このうち「信濃・常陸の闕所を勲功の賞に宛行はるゝ処」とは、先の建武二年九月二十七日の恩賞あてがいの尊氏袖判下文の大量発給のことをさすと考えられ、これをうけて「義貞を討手の大将として関東へ下向のよし」と続いている。
はたして義貞の関東下向はいつのことか明確でない。このとき以下の『太平記巻一四』の記事が参考となる。すなわち、「四国・西国ヨリ、足利殿成レタル軍勢催促ノ御教書トシテ数十通是ヲ(後醍醐に)進覧ス」とし、それが後醍醐を尊氏追討に踏み切らせた決定的要因となったと記す点である。ここにみる「数十通」の「軍勢催促ノ御教書」とは先にみた、主として西国武将たちにあてて足利直義が建武二年一一月二日付で大量に発給した軍勢催促状であった可能性が高く、またそのことが義貞の関東下向という事態を引き起こしたと考えることができる。となると義貞の関東発向は建武二年一一月のこととみなされる。
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うーむ。
流布本を除く『太平記』の諸本には義貞が十一月十九日に京都を出発したと書かれており、『元弘日記裏書』にも「同十九日尊良親王以下東征」とあります。
また、矢矧川の戦闘が二十五日から始まったことは『太平記』以外の史料で裏付けられていて、京都から矢矧川への移動の行程を考えても十九日出発を疑う必要は特にないように思いますが、森氏は何故にこの点にこだわるのか。
「となると義貞の関東発向は建武二年一一月のこととみなされる」という結論は正しいでしょうし、この結論を疑った歴史研究者もいないはずですが、果たしてこれは『太平記』の曖昧な記述から推論しなければならないような話なのか。
「両家奏状の事」(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8936a924b049ea0d11c4ca738d1083f3
「この奏状、未だ内覧にも下されざりければ、普く知る人もなかりける所に」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/78c8b87b0df9444dc6cfaf14304e3d0c
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