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「尊氏追討のための義貞関東下向(一一月上旬か)」(by 森茂暁氏)

2021-08-20 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月20日(金)10時11分4秒

続きです。(p110)

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 このように、尊氏の勲功賞をあてがう袖判下文の発給(建武二年九月二七日)から尊氏追討のための義貞関東下向(十一月上旬か)までに一ヵ月以上の時間的空白があった。それに加えて、尊氏が後醍醐天皇の綸旨によって追討される身になるのが建武二年一一月二二日、そして勅勘によって解官(直義も同様であったろう)されるのが同年一一月二六日であるから(「足利家官位記」。『公卿補任二』では二七日)、尊氏の軍勢催促状の発給(同年一二月一三日)はそれよりなお以降のこととなる。
 つまり結論的にいうと、鎌倉(足利側)と京都(後醍醐側)の対立は、第一に、中先代の乱鎮定ののち、まず足利直義と新田義貞の間で始まったこと、第二に、直義が義貞追討の目的で発給した建武二年一一月二日付の軍勢催促状をみた後醍醐が尊氏に謀叛の意図ありと判断して同一一月二二日に追討綸旨を発し、さらに同一一月二六日には勅勘という形で解官したこと、第三に、尊氏はこの段階に至って初めて軍勢催促状を発し、自らの意志で軍事行動を開始したこと、の三段階に整理することができる。
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うーむ。
直前に「はたして義貞の関東下向はいつのことか明確でない」、「となると義貞の関東発向は建武二年一一月のこととみなされる」と書かれていた森茂暁氏は、ここで「尊氏追討のための義貞関東下向(十一月上旬か)」と時期を限定されていますが、その理由については特に説明はありません。
まあ、強いて史料的根拠を挙げれば『太平記』の流布本ということになりそうですが、森氏は「『太平記』のテキストとしては基本的に古態本の一つ、鷲尾順敬校訂『西源院本 太平記』(刀江書院、一九三六年六月)を使用した」(p26)との立場なので、流布本に依拠されている訳ではなさそうです。
結局、様々な古文書の発給状況から「十一月上旬か」と判断されたのでしょうが、森氏の考え方に従ったとしても十一月上旬では早すぎるような感じがします。
というのは、森氏は、

直義名義の十一月二日付軍勢催促状が全国各地の武士に送られる。
  ↓
「四国・西国ヨリ、足利殿成レタル軍勢催促ノ御教書トシテ数十通是ヲ(後醍醐に)進覧」
  ↓
「後醍醐が尊氏に謀叛の意図ありと判断」
  ↓
後醍醐の指示で新田義貞率いる東征軍が出発

という順番で考えておられますが、直義の軍勢催促状(「足利殿成レタル軍勢催促ノ御教書」)が「四国・西国」の武士たちに届き、そこから更に京都に送られて後醍醐に「進覧」されるまでの期間を加えると、義貞の出発が十一月上旬というのはあまりに慌ただしい日程です。
具体的に『大日本史料 第六編之二』に掲載されている十一月二日付の直義の軍勢催促状七通を見ると、例えば「広峯文書」のものは「本文、宛名を闕きたれども、本書前後の文書に参照するに、広峯社別当広峯貞長に与へしものなり」とのことです。
当時、鎌倉から京都へ使者を発遣した場合、相当急いでも五日くらいかかったはずなので、播磨の広峯社であれば、連絡に要する時間が鎌倉から六日、広峯社から一日として、後醍醐の許に十一月九日に「進覧」されることになり、直ちに後醍醐が準備万端整えていた新田義貞に出陣を命ずれば翌十日に出発、となってギリギリセーフですが、まあ、いかにも無理が多いですね。
結局、森氏の発想に従ったとしても、やはり十九日くらいが自然であり、西源院本等の十九日説を疑う必要はないと思います。
さて、森氏は「第二に、直義が義貞追討の目的で発給した建武二年一一月二日付の軍勢催促状をみた後醍醐が尊氏に謀叛の意図ありと判断して同一一月二二日に追討綸旨を発し」とされますが、直義名義の文書を見て「尊氏に謀叛の意図ありと判断」するのは論理の飛躍がありそうです。
後醍醐だけでなく、軍勢催促状を受け取った武士たちも、何故に十一月二日付の軍勢催促状が足利家当主の尊氏ではなく直義名義で出されているのか、という疑問を抱いたはずです。
室町幕府成立後の直義の活躍を知っている後世の学者から見れば、「二頭政治」を担った直義が軍勢催促状を発することにそれほどの驚きはありません。
しかし、建武二年(1335)十一月の時点では、同年八月に昇進したばかりの尊氏の官位は従二位、そして役職は参議・鎮守府将軍・左兵衛督・武蔵守という華麗さなのに対し、直義は従四位下、左馬頭・相模守であって、それなりの地位ではあるものの、尊氏に較べれば地味な存在です。
即ち、尊氏が足利家の当主であって、直義とは社会的地位が隔絶した存在であることは天下周知の事実です。
とすると、直義から軍勢催促状をもらった側としては、何故にこの文書は尊氏名義ではないのだろう、足利家にクーデターでも起きて尊氏が当主の地位を奪われたのだろうか、といった疑問を抱いても不思議ではありません。
足利家の内情に通じ、尊氏と直義が全く異なった考え方をしていることを熟知しているごく少数の人々を除けば、この直義の軍勢催促状はかなり不可解な文書ですね。
ま、この点は改めて論ずるとして、森氏の見解をもう少し見ておきます。(p110以下)

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 尊氏に即してみると、後醍醐の制止をよそに、すでに建武二年九月二七日には勲功の武士に恩賞給付の袖判下文を一斉に発給しながら、なおも後醍醐との決別を意図的に忌避していたことになる。その間に先行していた直義と義貞との間の軍事的抗争が尊氏の本意にたがう形で急速かつ激烈に展開し、そのあおりをうけた尊氏が勅勘による解官処分を受けたのち、やっと重い腰をあげて反撃の意思を固めた、というのが真相だったのではあるまいか。
 こうしたどちらかというと尊氏と後醍醐の間の緩慢な対応は、双方のこれまでの、特に討幕戦での艱難辛苦を通じて形成された連帯感・信頼感と、それに伴う離反するのは忍びがたいという心情が働いたからではあるまいか。
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うーむ。
「その間に先行していた直義と義貞との間の軍事的抗争が尊氏の本意にたがう形で急速かつ激烈に展開」とありますが、どうにも奇妙な書き方ですね。
仮に足利家に尊氏直属軍と直義直属軍が別個独立に存在していて、直義直属軍だけが十一月二十五日から始まる矢矧川合戦に先行して義貞軍と戦闘を開始していたとすれば、こうした書き方も納得できますが、それは仮想戦記の世界ですね。
その他の感想は次の投稿で書きます。
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