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「後醍醐の怨霊を封じ込める物語は、そのまま室町幕府成立の物語へと昇華する」(by 森茂暁氏)

2021-07-08 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 7月 8日(木)12時52分50秒

森茂暁氏が「この方向性は西源院本などの古態本よりも、慶長八年古活字本などの流布本系において一層顕著となる」とされている部分、私には森氏の論理が分かりません。
森氏が引用された流布本の箇所を西源院本と比較しておくと、まず恒良・成良親王毒殺については、西源院本第十九巻「金崎の東宮并びに将軍宮御隠れの事」が、

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 あはれなるかな、尸鳩樹頭の花、連枝一朝の雨に随ひ、悲しいかな鶺鴒原上の草、同根忽ちに三秋の霜に枯れぬる事を。去々年、兵部卿親王鎌倉にて失はれさせ給ひ、また去年の春は、中務卿親王御自害ありぬ。これらをこそ、例少なくあはれなる事を聞く人心を傷ましめつるに、今また、東宮、将軍宮、同時に御隠れありぬれば、心あるも心なきも、これを聞き及ぶ人ごとに、悲しまずと云ふ事なし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/813ca39bbecae0e66bb100692c945ea5

で終わっているのに対し、流布本の第十九巻「金崎東宮並将軍宮御隠事」では、上記に相当する部分に、

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かくつらくあたり給へる直義朝臣の行末、いかならんと思はぬ人も無りけるが、果して毒害せられ給ふ事こそ不思議なれ。

https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98/%E5%B7%BB%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%B9%9D

という一文が追加されています。
ただ、これは西源院本にも登場する尊氏による直義「毒害」に軽く触れているだけですね。
また、西源院本の第三十巻「恵源禅門逝去の事」は、

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 去々年の秋は、師直、上杉、畠山を亡ぼし、去年の春は、禅門、師直、師泰以下を誅せらる。今年の春は、禅門また、怨敵のために毒を呑みて、失せ給ひけるこそあはれなれ。「三過門間の老病死、一弾指頃の去来今」(とも、かやうの事をや申すべき。因果歴然の理りは)、いまに始めぬ事なれども、三年の中に日を替へず、酬ひけるこそ不思議なれ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eeca8d4324a187cfc7d7ae54aa597620

で終わっているのに対し、流布本第三十巻「慧源禅門逝去事」は、上記に相当する部分に、

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さても此禅門は、随分政道をも心にかけ、仁義をも存給しが、加様に自滅し給ふ事、何なる罪の報ぞと案ずれば、此禅門依被申、将軍鎌倉にて偽て一紙の告文を残されし故に其御罰にて、御兄弟の中も悪く成給て、終に失給歟。又大塔宮を奉殺、将軍宮を毒害し給事、此人の御態なれば、其御憤深して、如此亡給ふ歟。災患本無種、悪事を以て種とすといへり。実なる哉、武勇の家に生れ弓箭を専にすとも、慈悲を先とし業報を可恐。我が威勢のある時は、冥の昭覧をも不憚、人の辛苦をも不痛、思様に振舞ぬれば、楽尽て悲来り、我と身を責る事、哀に愚かなる事共也。

https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98/%E5%B7%BB%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8D%81

が追加されていて、分量はかなり増えていますね。
もっとも、「此禅門依被申、将軍鎌倉にて偽て一紙の告文を残されし故に其御罰にて、御兄弟の中も悪く成給て」はちょっと分かりにくい書き方です。
まあ、建武二年(1335)十一月、後醍醐に叛くのを嫌がって出家しようとした尊氏を翻意させるため、直義が後醍醐綸旨を偽造したという話(西源院本第十四巻「箱根軍の事」、流布本「矢矧、鷺坂、手超河原闘事」)だとは思いますが、この「御罰」は、後醍醐の綸旨だから、というよりも天皇の綸旨を偽造するという(一般的な)大罪の「御罰」のようにも見えます。

https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98/%E5%B7%BB%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%9B%9B

また、大塔宮護良親王を殺害し、将軍宮成良親王を「毒害」したことによる「御憤」も、必ずしも後醍醐の「御憤」ではなく、両親王の「御憤」とも読めそうです。
いずれにせよ、追加部分は補足的な説明程度にとどまっており、私には、流布本でこうした文章が追加されたことにより、「後醍醐の鎮魂という方向」への「方向性」が「西源院本などの古態本よりも、慶長八年古活字本などの流布本系において一層顕著」になったとは思えません。
以上、細かな話になってしまいましたが、そもそも私には「後醍醐の怨霊が直義にとりつく必然性」を「作為」することが、何故に「後醍醐の鎮魂」につながるのか、という森氏の発想の基本的部分が分かりません。
直義を極悪非道の人物と描けば描くほど「後醍醐の怨霊」は満足し、「後醍醐の鎮魂」になるのだ、という論理のようですが、「後醍醐の鎮魂」をしたければ、後醍醐を口から火を噴く化け物などにすることなく、後醍醐がいかに立派な帝王であったかをひたすら讃美する物語を作ったりする方がよっぽどよさそうな感じがします。
ま、そんな話はたいして面白くはなさそうで、人気は出ないでしょうが。

松尾著(その3)「ただあらまほしき事を、思ひ寝の夢にも見るらん」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/46ea79ab4c8b481adac03836dc0b1bac

さて、森氏は、

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ようするに、原『太平記』を修訂した足利直義は、観応の擾乱に敗北して最終的には毒殺されたが、しかし、室町幕府草創期において二頭政治の片方を担い、幕府政治史にじつに大きな足跡を残した直義の役割はこれで終わったのではなかった。次には『太平記』の世界で、身をもって後醍醐天皇の魂を慰める役割を背負わされたのである。後醍醐を鎮魂する物語、いいかえれば後醍醐の怨霊を封じ込める物語は、そのまま室町幕府成立の物語へと昇華する性質のものだった。その意味で、『太平記』を二部構成でみる場合、後醍醐物語を内容とする第一部は、室町幕府の確立の物語である第二部と調和こそすれ、決して齟齬したり矛盾したりすることはないのである。
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と言われますが、「室町幕府草創期において二頭政治の片方を担い、幕府政治史にじつに大きな足跡を残した直義」が『太平記』では本当にろくでもない極悪非道な人間として描かれ、「身をもって後醍醐天皇の魂を慰める役割を背負わされ」てしまうと、「室町幕府成立の物語」としては何とも陰惨で情けない感じになってしまいますね。
森氏は「後醍醐の怨霊を封じ込める物語」が「そのまま室町幕府成立の物語へと昇華」しており、第一部の「後醍醐を鎮魂する物語」と第二部の「室町幕府成立の物語」は「調和こそすれ、決して齟齬したり矛盾したりすることはない」と強調されますが、まるで室町幕府が「原罪」を負っていて、直義が十字架に磔になったことで室町幕府は「原罪」を免れたのだ、みたいな玄妙な論理は、森氏のような現代の屈折したインテリはともかく、南北朝期の『太平記』の聴衆・読者には理解しがたいのではなかろうか、と私は思います。
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