学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

「この奏状、未だ内覧にも下されざりければ、普く知る人もなかりける所に」

2021-08-12 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月12日(木)11時17分44秒

峰岸純夫氏の『人物叢書 新田義貞』(吉川弘文館、2005)には、「十一月八日に足利尊氏・直義追討の宣旨が下され、新田義貞は節度使(反乱鎮圧使)として錦旗・節刀を賜り出陣する」(p99)とありますが、「十一月八日」は『太平記』の流布本に基づく記述ですね。
先に少し触れたように、西源院本では、

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 十一月十九日、新田左兵衛督義貞朝臣、朝敵追罰の宣旨を下し給はつて、その勢三千余騎にて、参内せらる。馬、物具、事柄、真に爽やかに勢ひあつて出で立たれたり。
 内弁〔ないべん〕、外弁〔げべん〕の公卿、近衛の階下に陣を引き、中儀〔ちゅうぎ〕の節会を行はれて、節刀を下さる。治承四年に、権亮三位中将惟盛を頼朝追罰のために下されし時、鈴ばかりを給はつてありしかば、不吉なりとて、今度は、天慶、承平の例をぞ追はれける。義貞、節刀を給はつて、二条河原へ打ち出でて、先づ尊氏卿の宿所、二条高倉へ船田入道を差し向けて、時の声を三度揚げさせ、鏑を三矢射させて、中門の柱を伐つて落とす。これは、嘉承三年、讚岐守正盛が、義親追罰のために出羽国へ下りし時の佳例なりとぞ声〔き〕こえし。
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とあって(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p358)、義貞の出陣は十九日です。
流布本も内容は殆ど同じですが、何故か冒頭は、

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懸ける程に、十一月八日新田左兵衛督義貞朝臣、朝敵追罰の宣旨を下し給て、兵を召具し参内せらる。

https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98/%E5%B7%BB%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%9B%9B

となっています。
この点、『大日本史料 第六編之二』では、建武二年十一月十九日条に流布本を引用した上で、

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懸ケル程ニ、十一月八日、<〇参考太平記ニ、今川家、毛利家、北条家、金勝院、西源院、南都本、作十九日トアリ、天文本モ亦同シ、従フベシ>【後略】
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とあって(p706)、流布本の記述が誤りであることは明らかですが、何故か峰岸純夫氏は流布本に従っておられますね。
ところで、この「朝敵追罰の宣旨」の内容は不明のようですが、十一月二十二日以降、各地の武士宛てに多数の綸旨が出されており、そこには尊氏・直義の名前が明記されています。
松浦文書の例では、

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足利尊氏、同直義已下輩、有反逆之企之間、所〔被〕誅罰也、松浦小二郎入道蓮賀、
令発向鎌倉、可致軍忠者、天気如此、悉之、
   十一月廿二日           右中将
-------

といった具合であり(p723)、「朝敵追罰の宣旨」でも尊氏と直義の名前が明記されていたのでしょうね。
なお、念のためと思って佐藤進一氏の『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)を見たところ、「尊氏離反から南北朝分裂まで」という一覧表(p115)に、

11.19 後醍醐、尊氏追討のため義貞を出陣せしめる。

とあって、やはり十九日出発説ですね。
ただ、この直前に、

11.8 尊氏、義貞誅伐を上奏。

という妙な記述がありますが、こちらは単純に佐藤氏が十一月十八日と間違えただけのようですね。
さて、以上の検討から尊氏奏状が朝廷に到達したのは十一月十八日であることは確実で、その翌日には新田義貞は出発しています。
まあ、十八日に到達した尊氏奏状の内容が義貞に伝えられ、同日、義貞が直ちに反論の奏状を書き上げて提出し、朝議の場で二人の奏状について坊門清忠が意見を述べ、本当に護良親王が「禁殺」されたなら大変なことだけれども、まずは「実否」を調べてから、という一応の結論が出た後に「南の御方」が登場し、護良殺害の状況が明らかにされ、更に「四国、西国より、足利殿のなされたる軍勢催促の御教書とて、数十通」が提出されたので、「諸卿重ねて僉議あつて、「この上は、疑ふ所にあらず。急ぎ討手を下さるべし」と、一宮中務卿親王を東国の管領に成し奉り、新田左兵衛督義貞を大将軍と定めて、国々の大名どもをば添へられける」との決定がなされた、という可能性も皆無ではないでしょうが、あまりに慌ただしい日程ですね。
決定の翌日に出陣するというのはいくら何でも無理で、恐らく「四国、西国より、足利殿のなされたる軍勢催促の御教書とて、数十通」が決め手となって、数日前の朝議で尊氏・直義の「朝敵」認定と東征軍の派遣が決定されており、その後に尊氏奏状が届いたけれども既に方針は決定済み、とのことで無視されたのだろうと思います。
こうしたかなり慌ただしい日程を前提とすると、尊氏奏状と義貞奏状の間に、

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この奏状、未だ内覧にも下されざりければ、普〔あまね〕く知る人もなかりける所に、義貞朝臣、伝へ聞いて、同じく奏状をぞ奉りける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/764f11e9a737d8e3ffce3715aaf34543

という奇妙な一節が挿入されている理由も何となく見えてきます。
「内覧」とは帝への上奏を、摂政・関白が下見することですが、後醍醐の方針で建武新政期には関白は置かれていないので、「内覧」自体があり得ません。
その点はともかく、尊氏奏状が来たから義貞に反論の提出が命じられた、と書けば誰も何の疑問も抱かないのに、わざわざ「内覧」云々以下、不自然な記述が続くのは、実際には義貞に反論を書く暇などなかったことを熟知している作者の言い訳なんでしょうね。
それもこのような慌ただしい日程を知っている人には意味のある言い訳ですが、普通の読者には、何でこんな言い訳を書くのか、全く伝わらなくなってしまっていますね。
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