学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

亀田俊和氏「足利尊氏─室町幕府を樹立した南北朝時代の覇者」(その2)

2021-08-22 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月22日(日)11時23分58秒

続きです。(p180以下)

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 だが尊氏は、後醍醐の帰京命令を無視し、旧鎌倉幕府将軍邸跡に移住し、後醍醐に無断で恩賞充行袖判下文を発給し始めるなどした。これは尊氏にしてみれば、時行の残党を掃討するために必要不可欠な措置であったと筆者は推定している。事実、時行残党討伐を行なっていたことを裏づける史料も残るし、充行の袖判下文は陸奥将軍府の北畠顕家も同時期に大量に発給している。後醍醐に信頼されている自分なら、事後承諾してもらえると尊氏は考えていたのではないだろうか。
 だが結局、後醍醐は尊氏の行為を謀叛と判断し、十一月十九日に新田義貞を大将とする討伐軍を出陣させた。これに衝撃を受けた尊氏は家督を直義に譲り、浄光明寺に引きこもってしまった。これは古来より不可解とされ、ついには躁鬱病説まで出されたが、主君として心底から慕っていた後醍醐に誤解されて朝敵認定され、恭順の意志を示しただけであろう。
 しかし、直義の迎撃軍が義貞軍に連敗し箱根まで後退したのを見て、ついに尊氏は挙兵した。天皇か弟かの究極の選択で、弟を選んだのである。十二月十一日、箱根・竹ノ下の戦いで義貞軍を撃破した尊氏は東海道を西へ攻め上り、翌建武三年正月に京都を占領した。だが、奥州から陸奥国司北畠顕家の援軍が到着したことで形勢は逆転し、破れて西国へ敗走した。
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北条時行を鎌倉から追い出しただけで関東に静謐がもたらされたはずがなく、軍事的な緊張状態はなお継続し、時行残党による反撃は当然に予想されていた訳ですね。
従って、九月二十七日の恩賞給付は、私も「時行の残党を掃討するために必要不可欠な措置であった」と思います。
この点、森茂暁氏は「この日〔建武二年九月二七日〕は尊氏にとって生涯の一大転機となった」などと言われる訳ですが、もともと陸奥将軍府と鎌倉将軍府の権限には大きな違いがあって、北畠顕家は朝廷にいちいち伺いを立てることなく、独自に恩賞給付をどんどんやっていた訳ですから、尊氏が恩賞給付を始めたことは、尊氏が北畠顕家と同じ程度の立場に立っただけ、とも言えます。
ただ、亀田氏は尊氏の恩賞給付が越権行為であったとする点は従来の学説を維持され、「後醍醐に信頼されている自分なら、事後承諾してもらえると尊氏は考えていたのではないだろうか」とされる訳ですが、本当に越権行為だったのか。
そもそも『太平記』は八月二日、尊氏は征夷大将軍と「東八ヶ国の管領」の二つを要求し、後醍醐は前者は拒否したものの、後者は許可したという立場です。
史実として、尊氏がこの二つを本当に求めたのか、そして後醍醐が後者を本当に認めたのかは別途問題になりますが、少なくとも『太平記』は、「東八ヶ国の管領」については、尊氏が、

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乱を鎮めて治を致す謀り事、士卒功ある時、即時に賞を行ふに如く事なし。もし注進を経て、軍勢の忠否を奏聞せば、挙達道遠くして、忠戦の輩勇みをなすべからず。しかれば、暫く東八ヶ国の管領を許されて、直に軍勢の恩賞を取り行ふやうに、勅裁を成し下されば、夜を日に継いで罷り下つて、朝敵を退治仕るべきにて候。
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と言上したので後醍醐はこれを認めた(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p334以下)、という立場です。
「乱を鎮めて治を致す」ためには大将が「即時に賞を行ふ」のが一番で、大将にその権限を与えず、注進を経た後にやっと恩賞が決定されるならば、「挙達道遠くして、忠戦の輩勇みをなすべからず」となってしまうのだ、だから私に「暫く東八ヶ国の管領を許されて、直に軍勢の恩賞を取り行ふやうに、勅裁を成し下」して下さい、ということなので、「東八ヶ国の管領」とは、地域的な限定はあるものの、具体的には「直に軍勢の恩賞を取り行ふ」権限のことですね。
そして、後醍醐は尊氏にそれを認める「勅裁」を下した訳です。
とすると、尊氏が独自の判断で恩賞を与えたことは後醍醐が与えた権限の範囲内の行為であって、越権行為でも何でもない、ということになりそうです。
この点は、義貞奏状に即して検討したことがあります。

「両家奏状の事」(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fcb2d4aef0659d140681ac911d464ae8

さて、『太平記』の「東八ヵ国の管領」に関する記述と、『梅松論』の勅使中院具光が「今度東国の逆浪、速に静謐する条、叡感再三なり。但し、軍兵の賞におゐては京都に於て、綸旨をもて宛行るべきなり。先早々に帰洛あるべし」と言ったという記述は整合性が取れるのか。
『太平記』と『梅松論』のいずれも、あるいは一方が虚偽と言ってしまえば話は簡単ですが、作り話が極めて多い『太平記』はともかく、『梅松論』の記述は、以後の展開を考えるとそれなりに史実を反映しているように思えます。
そこで、両者の記述を整合的に捉えようとするならば、時間的変化があった、ということになろうかと思います。
即ち、後醍醐は中先代の乱を鎮めるために、いったんは尊氏に「東八ヶ国の管領」、即ち独自の恩賞給付権を認めたものの、尊氏があっさり乱を平定してしまうと、この許可を勝手に撤回し、中院具光を通じてその旨を尊氏に伝えたのではないか、と私は考えます。
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