学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「モスクワ横丁」こと駒場寮中寮二階

2015-12-28 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年12月28日(月)13時33分21秒

『竹山道雄と昭和の時代』の「第十一章 『昭和の精神史』」には平川祐弘氏の次のような思い出話が出てきます。(p263以下)

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 ここで個人的な思い出を挟ませていただく。私は一高では社会科学研究会の部屋で暮して、上級生から唯物史観の正しさを自明の真理のように聞かされていた。同じ部屋には後に不破哲三の名前で日本共産党書記長になった上田建二郎もいたが、後に共産党から追放されて不遇のうちに人生を了えた者もいた。昭和二十三年当時の私は、竹山ら一高教授連が蔭で「モスクワ横丁」と揶揄して呼んでいた駒場の中寮二階の住人だったのである。中寮二階の二室続きの十六名の社研の隣はソビエト研究会の部屋で、その少し先には中国研究会の部屋があった。もちろん共産主義中国を待望する若者の部屋で、後に魯迅研究者となる丸山昇もそこにいた。そうした一連の赤の巣窟のような部屋が並ぶ中で珍奇とすべきは社研の隣の中寮十八番がカトリック研究会であったことで、ときどき神妙なお祈りの声が聞こえた。紀念祭のときの出し物は窓に洗面器が一つ、水をなみなみと張ってそれに丸木が浮かべてあるだけである。「マルキシズムハ誤リナリ」という冷やかしであった。
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ここで個人的な思い出を挟ませていただくと、私は平川祐弘氏が駒場寮で暮らした31年後の昭和54年、同じ駒場寮の中寮二階、23番Bという部屋に住んでいました。
政治の季節は完全に過去のものとなり、「モスクワ横丁」の面影など全く失われていて、私はこの言葉も知りませんでした。
旧制一高が本郷向ヶ岡から駒場に移転したのは昭和10年ですから、平川氏の時代はまだ建物は良かったのでしょうが、大学紛争期に相当荒れてしまったようで、私が入った当時は殆ど廃墟に近いような雰囲気でしたね。
ま、そんな状態だったので生活環境は決して良くはありませんでしたが、とにかく大学に近い、というかキャンパスの中ですから交通費はかからず、寮費も安くて経済的には非常に助かりました。
その駒場寮も今は撤去されて、中寮跡は生協の施設になってイタリアン・トマトか何かが入っているそうですが、私はまだ行ったことがありません。

いにしえの モスクワ横丁の 華やぎを
 仄かに偲ぶ 赤きトマトに

イタトマや つわものどもが 夢の跡
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