投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 9月10日(月)11時11分28秒
『日本近代思想大系5 宗教と国家』には「御岳行者皇居侵入事件」に関連して五つの供述書が掲載されており、最初が既に紹介ずみの源之助ら三名のものです。
ついで「病身」のため皇居侵入には参加しなかった「久宝丸船頭 角佐十郎」、臆病者だとして船内に残された「久宝丸水主 庄吉」、熊沢利兵衛の弟で侵入の準備段階で協力はしたものの侵入には参加しなかった「八丁堀長嶌町六番地 山口幸七」、幸七の知人で、やはり準備段階で協力はしたものの侵入には参加しなかった「元韮山県下 豆州加茂郡片瀬村農 久次郎倅 山西小伝次」の供述書が掲載されています。
重複が目立ちますが、参考までに「久宝丸船頭 角佐十郎」の供述書も紹介しておきます。(p173以下)
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去る十八日暁、大手御門に於て水夫頭利兵衛以下九名の者乱暴相働き候事件御吟味御座候。
この段、私儀尾州智多郡内海東端村農角佐兵衛倅にて、当申二十四歳に御座候。亡父佐兵衛代より久宝丸へ引続き船頭仕りおり候。然るに水主頭利兵衛儀は、亡父の時より抱え置き候者にて、私若年につき船の儀は万事同人へ任せ置き候。この者は八ヶ年前眼病にて困苦の節、讃岐国坂出茶臼山に一祠建立守りおり候篠田虎之助ならびに妻何某、両人行者の由にて祈念致しくれ、眼病平癒候につき、それより利兵衛同人の弟子と相成り、平日船中にても神仏信仰致し、終に神秘免許を受け、咒ひ・祈祷等の事ども相覚え、奇異の所業致し候につき、私始め水主一同偏に信仰仕りおり候。
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途中ですが、いったんここで切ります。
角佐十郎は船頭ではあるものの、二十四歳という若年なので久宝丸は実際上全て熊沢利兵衛に支配されていた訳ですね。
利兵衛の年齢は分かりませんが、弟の山口幸七が四十七歳とのことなので(p175)、更に年上となります。
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去る正月中伊豆国網代と申す処に滞船中、神下し致し、種々容易ならざる事件申し出し、同所に於て売婦四人相惑し、信仰の余り髪を切り衣類等海中に投じ一味に相成り、十三日婦人乗組み候まま出帆仕るべき折から、売女屋主人どもかれこれ差支へ、右売女を連れ行き、かつ遊蕩勘定の代り、通ひ小船引き留められ候。右滞船中申し聞かせ候には、讃州光照寺の弘法大師へ和光同塵の法を五ヶ年の内に天下へ流布せしむと立願致し候旨承り候。
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「神下(おろ)し」という表現、そして「讃州光照寺の弘法大師へ和光同塵の法を五ヶ年の内に天下へ流布せしむと立願致し候」というのは源之助らの供述書には出てこない新情報ですね。
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当月十三日網代出帆、下田御番所を夜中に乗り抜け、既に十四日、品川に着船、又々神下し致し、無信心者は船頭たりとも乗組み相成らざる由申し聞かせ、その余、容易ならざる事件等相語り申し候。水主一同へ撃剣組打稽古致すべき様申し付け、折々試合仕り候。
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「無信心者は船頭たりとも乗組み相成らざる由」というのは、船頭の佐十郎にとってはなかなか厳しい表現です。
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同十五日、兼ねて白衣誂えに遣し候斧吉・常吉両人、幸七・小伝次と申す者同道にて帰舟仕り候ところ、同様神託を以て撃剣駆引試合を致させ、右事件に同意致すべき旨申し聞かせ、全くこの度の大望は利兵衛に惑はされ、神の教へと存じ、その願意は天下神仏混淆に致し、経文・珠数を以て諸人拝礼致し候様、かつ夷人追討、神社仏閣・諸侯の領地旧に復したき旨、直に奏聞致すべき願書一枚づつ、皇城まで往来図面等幸七認めくれ候につき、一同御所へ出願の砌、もし道路差し留め候者これあり候へば打ち果たし、通行の上直に奏聞仕り、勅許これなき節は 玉体に迫り奉るべき心組みにこれあり、
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「神託」という表現はここを含め二箇所に出てきます。
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十八日朝八字までには大願成就疑いなき由神託につき、十人の者異体の行装にて出発の節、私儀病身、庄吉は臆病者ゆえ船に残し置き、小船にて鍛冶橋辺より上陸、大手御門に於て暴動仕り候趣、全く右利兵衛煽動に因り神仏の託宣と申すに惑はされ候より、容易ならざる事件に一味同心仕り候ところ、船中に於て御召捕りに相成り、右の廉々御糺問蒙り重々恐れ入り奉り候。この上如何様の厳科に処せられ候へども、一言の申し上ぐべき様御座なく候。
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「病身」の佐十郎は皇居侵入に参加せず、事件後、久宝丸内で逮捕された訳ですね。
佐十郎の供述書と安丸良夫氏の解説「近代転換期における宗教と国家」を読み比べると、安丸氏は事件の要約に際し、佐十郎の供述書を相当に利用していることが分かります。
御岳行者皇居侵入事件(その1)
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