学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

『木曽のおんたけさん その歴史と信仰』

2018-09-14 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 9月14日(金)11時17分7秒

御岳行者皇居侵入事件は細かく調べて行くと面白いことが色々出てきそうな予感はするのですが、後日の課題とし、このあたりで一応終りにしたいと思います。
私も山岳信仰には全然詳しくないので、熊沢利兵衛の師が「讃州坂出茶臼山」の篠田虎之助夫婦と聞き、何故に香川県に御岳信仰があるのか、と思いましたが、菅原寿清・時枝務・中山郁編『木曽のおんたけさん その歴史と信仰』(岩田書院、2009)によれば、四国、特に徳島県は御岳信仰が盛んな土地柄だそうですね。

http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-569-0.htm

同書の「第三章 御嶽信仰の広がり」は、

一 東海地域の講社と霊神さん
二 関東の講社と霊神さん
三 広がる御嶽信仰

と構成されていて、「三 広がる御嶽信仰」の「2 藍商人─西開行者と四国伝播」には、

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 御嶽信仰が四国に伝播した理由は幾つかあります。その中でも、とりわけ重要な役割をなしたのは、阿波徳島の藍商人たちでした。【中略】
 そして、御嶽信仰と四国をつなぐ際に最も重要な人物、それが阿波藍の商人であった西開行者でした。西開行者は四国の御嶽信仰の嚆矢とされ、徳島県名西郡石井町高原桑島の白川神社(御嶽太祖福寿講)には、この西開行者に関わる「白川神社御由緒並に起源」の縁起が伝えられています。それによれば、西開行者は、名西郡藍畑村高畑の藍商人で、俗名を小川増助といい、尾張、美濃、駿河、遠江を販路として藍玉を商っていました。その小川増助(西開行者)が、天保八年(一八三七)、尾張本町六丁目の玉屋町※屋小七方に滞在中、突然病に罹り重篤となり、医師や薬も効果がなく、死を待つのみの状態になってしまいました。その折に、奇しくも尾張の御嶽行者木村庄右衛門(寿覚行者)に出会い、加持祈祷を受けたところ、病気が全快したのでした。そして、全快した際に神勅を授かり、西国での御嶽講の開基と拡張を託されました。増助は、「万死に一生を得たる無限の御霊験」に感激し、それ以後身命を賭して西国における御嶽信仰の拡大に奔走したのでした。そして、天保十二年(一八四一)には、百七十余人の同行を率いて御嶽山へ登拝するまでに興隆していたと、縁起書には記されています。
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とあります。(p155以下)
篠田虎之助夫婦は、おそらく西開行者の直弟子か孫弟子くらいの世代なのでしょうね。
熊沢利兵衛が入信する理由もやはり病気の治癒で、これはこの時期の新興宗教発展の典型的なパターンのひとつですね。
コメント
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