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「シュタンムラー先生と(1923年5月、ベルリンにて)」(by 南原繁)

2018-09-26 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 9月26日(水)10時36分27秒

成城大学名誉教授・池田浩太郎氏は2012年に87歳で亡くなられたそうですね。
池田氏の論文に、

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1. 1923年はじめ、誇り高いベルリン大学の経済学正教授でありながら、破局的インフレーションのもとでドル稼ぎの必要から、日頃見下してしたであろう日本人留学者に、ドル建ての授業料を受取って、個人教授をせざるをえなくなったこと、
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とあったのを見て、ドイツ留学中の南原繁が有名教授から個人授業を受けていたことを思い出し、『聞き書 南原繁回顧録』(東大出版会、1989)を確認してみました。
1922年5月にベルリンに行った南原は、矢内原忠雄の紹介で「カイゼル時代からの元軍人、カンターという中佐か少佐」が「戦後数年をへたころですから、恩給生活でうらぶれて暮らして」いた家に下宿したそうですが(p110)、当時の経済状況はというと、

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福田〔歓一〕 インフレは如何だったのですか。
南原 そう、ひどいインフレーションで私らも週に一回ずつ銀行へ行かなければならない。ビールを飲んで、そのビールビンが高く売れて儲かったという笑い話があったくらいの時代です。マルクが下落してゆくから、私ら日本人はドイツ人に気の毒なほど金をもっていた。内務省の役人なんかも多勢きておりましたが、金があるものだから贅沢をして、なかには悪い病気になるものもおったほどです。ぼくらは文部省の留学生ですけれど、それでも本が沢山買えた。乱費というほどでもないけれど、恵まれたいい時代でした。私の唯一の贅沢といえば、私に似合わないんだけれども、オペラ・ハウスに通った。いい席を買って、下宿のお嬢さんのイムハルトと一緒に馬車に乗ってゆく。雪の降る晩にね。ぼくの唯一の楽しみでした。
丸山〔眞男〕 当時の文部省留学生は、本屋にあるだけの本を買い占めたとか、いろいろ伝説がありますね。
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といった具合ですね。(p113)
丸山眞男の言う「伝説」の例は大内兵衛の回想に出てきますね。

「ベルリンで櫛田、リヤザノフの大格闘」(by大内兵衛)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a556772a8d3947693c24610f5ade90d3

南原の回顧録に戻ると、

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【前略】ですからベルリン大学に登録だけして、もっぱら家にいて本格的にカントの全集に取り組んだ。そのときに、名前は忘れてしまったけれども文学士を頼んで、それを相手に質問したり、ディスカッションをしたりして三批判を読みました。
 またそれに並行してルードルフ・シュタンムラー先生の所に通いました。シュタンムラー先生はベルリン大学で法理学と民法を講じていた。先生の講義は人気があって、ほとんど講堂を満員にしていました。黒板に数行書きましてね。ごく少し筆記をさせる。それから、それをとうとうと説明するというような講義の仕方だった。老境でしたけれども、渋い大きな声で、ひげを動かしながら、なかなか雄弁だった。みんな感心して聞いておったものです。名講義の一つでしょうね。私は先生に手紙を書いて訪問を許された。先生は大きなアパートに住んでいて、外国人の留学生に興味をもっていたのか、私だけでなく、日本人の留学生を何人か世話しておりました。田中耕太郎君もいったのではないですかね。
丸山 一種の家庭教師ですか。
南原 こっちから出向いて、対でやるのです。お礼は差し上げました。先生もそれを必要としておられたのではないですかね。あとで家を建てられました。ま、それはそれとして、カントの『実践理性批判』を一年近く読むことができました。
【中略】
福田 シュタンムラーの「近世法学の系列」という論文は……。
南原 なにか使い途があったら使ってくれといって私に下さったものです。カメノコ文字とラテン文字が半々くらいずつの、上手なハンドライティングの原稿です。いまでも私の手許にあります。本当のオリジナルですね。私に読ませたいということだったのでしょう。私も礼儀として日本語に訳して出しましょうと申し上げて、まあ原稿料に当るようなものを差し上げました。
丸山 それはたいへんに貴重なものですね。また考えられないほど、親切なことですね。
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などと思い出話が続くのですが(p114以下)、「お礼は差し上げました。先生もそれを必要としておられたのではないですかね。あとで家を建てられました」や「原稿料に当るようなものを差し上げました」といった部分には皮肉な響きがあり、南原の優越感が少しイヤミったらしいですね。
また、同書の冒頭は8ページ分の写真集になっていますが、その中に「シュタンムラー先生と(1923年5月、ベルリンにて)」と題する一葉があって、シュタンムラーが椅子に座って足を組み、その右横に高級なテーラーで仕立てたと思われるスーツに身を固めた南原が立って、その右手をシュタンムラーの椅子の背に置いています。
撮影場所は明らかに高級写真館であって、わざわざ老教授にそこまで行ってもらうにも、それなりの「お礼」を差し上げる必要があったかもしれません。
南原がどんな「使い途」を意図してこの写真を撮ったのかは知りませんが、いろいろと嫌味な想像をしたくなります。
「ま、それはそれとして」、シュタンムラーにしても、別に「外国人の留学生に興味をもっていた」のではなく、おそらく留学生が持っていたドルに興味があり、そのドルを自分にもたらしてくれる留学生に「考えられないほど、親切」だったのでしょうね。
さて、南原はゾンバルトにも少し言及していて、

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南原 シュタンムラー先生とならんで、もう一つベルリン大学で人気を集めていたのは経済学のゾンバルトです。彼は若かったけれど多くの聴講生を集めていた。当時、教授の収入は聴講生の数に応じて上下していたから、たいへんなものだったでしょう。社会政策をやっていました。内容はもう忘れてしまったが。
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とあります。(p117)
「彼は若かったけれど」とありますが、ゾンバルトは1863年生まれなので、南原がシュタンムラーと写真を撮った1923年には既に六十歳ですね。

ヴェルナー・ゾンバルト(1863-1941)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%BE%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88

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