学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「巻四 三神山」(その2)─承明門院

2018-01-06 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月 6日(土)14時21分51秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、213以下)

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 土御門殿の宮は二十〔はたち〕にもあまり給ひぬれど、御かうぶり沙汰もなし。城興寺の宮僧正真性〔しんしやう〕と聞ゆる、御弟子にとかたらひ申し給ひければ、さやうに思〔おぼ〕して女院にもほのめかし申させ給ひけるを、いとあるまじき事とのみいさめ聞えさせ給ふ。その冬ころ、宮いたうしのびて、石清水の社にまうでさせ給ふ。御念誦〔ねんじゆ〕のどかにし給ひて、少しまどろませ給へるに、神殿の中に「椿葉〔ちんえふ〕の影ふたたびあらたまる」といとあざやかにけだかき声にてうち誦〔ずん〕じ給ふ、と聞きて御覧じあげたれば、明け方の空すみわたれるに、星の光もけざやかにて、いと神さびたり。いかにみえつる御夢ならんとあやしくおぼさるれど、人にものたまはず。とまれかくもあれと、いよいよ御学問をぞせさせ給ふ。
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「城興寺の宮僧正真性」の下で出家云々は前回投稿で紹介したように『五代帝王物語』に出てきますが、「椿葉の影」の話は同書にはありません。
その代わり、同書には先に引用した部分の後に、

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後鳥羽院御位すべらんと思食たりける此、七日御精進ありて、毎夜石灰の壇にて神宮の御拝ありて、土御門院と光台院の御室<道助法親王>俗名長仁親王とて御座す、継体いづれにてかおはしますべきと、くじをとらせ給たりければ、土御門院なるべしととらせ給ぬ。さて夕の御膳まいりけるが、まいりもやらず、物を案たる御気色にて、あちからなし/\と仰ありければ、何事なるらんと人々も思まいらせけるに、承明門院の宰相殿とて、御膳の御加用してさふらひ給けるに、今宮<土御門>の御膳などびんなからぬ様にせよと大納言<通親>に云べしと仰有ければ、承明門院は極て御心はやくて、聖覚法印説法をばそらに聞おぼえ給ほどの上根の人にておはしませば、あはれこの事よなど心えて、あまりの嬉しさにつぼねへはしりおるるままに、うす衣ばかり打かづきて人もぐせず、物をだにもはかでおはしまして、事のやうかうかうと仰せられければ、子細なき事にこそとて大納言なのめならず悦ばれけり。さて案のごとく御位ゆずりまいらせられぬ。
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という具合に、譲位しようと思った後鳥羽院が、次の天子を為仁親王(土御門天皇)と長仁親王(道助法親王)のどちらにすべきか籤を引いたら為仁親王と出て、食事の用意をする承明門院付きの女房に「今宮<土御門>の御膳などびんなからぬ様にせよ」と仄めかすと、それを聞いた極めて頭の回転の速い承明門院が悦びのあまり薄い衣装だけを引っかけ、お供も伴わず、裸足で養父・源通親のところへ行って報告し、通親も大喜びしたという話になっていて、つながりが妙な具合です。
この話よりも「椿葉の影」云々の方が遥かに流れが良く、格調も高いですね。
また、『五代帝王物語』では、四条天皇の後継者を誰にするかについて北条泰時が若宮社で籤を引いて土御門院の宮と出た、という話もあって、これがそのまま『増鏡』にも載っているのですが、籤引き話の連続は不自然で、些か興を削がれます。
ということで、このあたり、『増鏡』と『五代帝王物語』の関係を考える上で、かなり興味深い部分です。
要は『五代帝王物語』の不自然な話の流れが『増鏡』では非常にすっきりした、しかしドラマチックな展開になっている点をどう考えるか、ということです。

源在子(承明門院、1171-1257)
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「巻四 三神山」(その1)─阿波院の宮

2018-01-06 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月 6日(土)14時12分40秒

それでは巻四に入ります。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、208以下)
最初は土御門院皇子(後嵯峨天皇)の生い立ちについてです。

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 さても源大納言通方のあづかり奉られし阿波院の宮は、おとなび給ふままに、御心ばへもいと警策〔きやうざく〕に、御かたちもいとうるはしく、けだかくやんごとなき御有様なれば、なべて世の人もいとあたらしきことに思ひ聞えけり。大納言さへ暦仁の頃うせにしかば、いよいよま心につかうまつる人もなく、心細げにて何を待つとしもなく、かかづらひておはしますも、人わろくあぢきなう思〔おぼ〕さるべし。御母は、土御門の内大臣通親の御子に宰相中将通宗とて若くてうせにし人の御女〔むすめ〕なり。それさへ隠れ給ひにしかば、宰相のはらからの姫君ぞ御めのとのやうにて、瞿曇弥〔けうどんみ〕の、釈迦仏やしなひ奉りけん心地しておはしける。二つにて父御門〔みかど〕には別れ奉り給ひしかば、御面影だに覚え給はねど、猶〔なほ〕この世の中におはすと思されしまでは、おのづからあひみ奉るやうもや、など、人知れず幼な心地にかかりて思し渡りけるに、十二の御年かとよ、隠れさせ給ひぬと伝へ聞き給ひし後は、いよいよ世のうさを思し屈〔くん〕じつつ、いとまめだちてのみおはしますを、承明門院は心苦しうかなしと見奉り給ふ。
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「阿波院の宮」、後の後嵯峨天皇(1220-72)の母親は「土御門の内大臣」源通親(1149-1202)の長男・通宗(1168-98)の娘、通子ですね。
通子は後嵯峨天皇を産んだ翌年、承久の乱の終息直後に亡くなります。
「宰相のはらからの姫君」が乳母のようにして育てたとのことですが、この女性と通宗の二十一歳下の異母弟、中院通方(1189-1239)の役割分担は『増鏡』からは分からないですね。
「大納言さへ暦仁の頃うせにしかば、いよいよま心につかうまつる人もなく」とありますが、『五代帝王物語』を見ると、

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御母は宰相中将<贈左大臣通宗>の女。同御腹の御兄円満院の法親王<仁助>をば、承明門院の養たてまいらさせ給て、よの中もしの事あらばと思食けれども、さのみ長大せさせ給ひしかば、円満院の大僧正<円浄>の室に入て出家させ給ひぬ。今御位につかせ給宮は通方大納言養ひまいらせて、三条坊門にわたらせ給ひしほどに、大納言うせて後はもとの様にもかしづきまいらせざりけるを、うるさく思食て土御門殿へ入せ給う。是も御年たけさせ給へば、城興寺の宮僧正<真生>の弟子にならせ給べきにて、内々は御対面などもありけるに、かかる聖運のわたらせ給ける申てもをろかなり。
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とあって(『群書類従・第三輯』、p433)、同母兄の円満院仁助(1214-62)が先に承明門院のもとにいて、後嵯峨は暦仁元年(1238)に中院通方が亡くなった後、承明門院御所の土御門殿に移ったようですね。

源通子(?-1221)

さて、冒頭で後嵯峨天皇の生い立ちを見た後、四条天皇の女御入内の話になります。

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 はかなく明けくれて仁治二年にもなりにけり。御門は今年は十一にて、正月五日御元服し給ふ。御いみ名秀仁〔ひでひと〕と聞ゆ。その年の十二月に洞院故摂政殿<教実>の姫君、九つになり給ふを、祖父〔おほぢ〕の大殿、御をぢの殿原などゐたちて、いとよそほしく、あらまほしきさまにひびきて女御参り給へば、父の殿ひとりこそ物し給はねど、大方の儀式よろづあかぬ事なくめでたし。上〔うへ〕もきびはなる御程に、女御もまたかくちひさうおはすれば、ひひな遊びのやうにぞみえける。天〔あめ〕の下はさながら大殿の御心のままなれば、いとゆゆしくなん。
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仁治二年(1241)の正月に四条天皇が十一歳で元服、その年の十二月に九条教実(1211-35)の娘、彦子(宣仁門院、1227-62)が入内します。
「九つになり給ふを」とありますが、実際には十五歳ですね。
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第一回中間整理

2018-01-06 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月 6日(土)11時31分49秒

12月28日から『増鏡』を序文、「巻一 おどろのした」、「巻二 新島守」、「巻三 藤衣」と読んできましたが、ここで当初設定しておいた二つの留意点に基づき、中間的な整理をしておきます。
まず第一に、二条家その他の摂関家関係者が『増鏡』においてどのように描かれているか、についてです。
「巻一 おどろのした」には月輪関白・九条兼実(1149-1207)が登場しますが、後鳥羽院天皇の女御入内の場面で父親として名前が出てくるだけで、源頼朝との信頼関係に基づいて平家滅亡・鎌倉幕府草創という困難な時期に朝廷をリードした側面など全く描かれていないですね。

「巻一 おどろのした」(その1)─九条兼実
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25f4a89f6c5e5554fa9364d4c9012a47

土御門天皇の摂政だった普賢寺関白・近衛基通(1160-1233)も名前が出てくるだけです。

「巻一 おどろのした」(その2)─源通親
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/54d8b02b75e0d0d8da9868b828e0d95d

九条兼実の息子、後京極摂政・良経(1169-1206)は後鳥羽院の歌人としての活動を補佐する人物として描かれていますね。

「巻一 おどろのした」(その3)─宮内卿
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e5e22ff00545e0a62e0ca070ce679837

九条兼実の弟、天台座主の吉水僧正・慈円(1155-1225)は巻一の終わりの方で藤原定家と長歌のやりとりをしていて、分量的にはそれなりに多いのですが、あくまで歌人としての活動を描いているだけです。
「巻二 新島守」に入ると、実朝が公暁に暗殺された後、九条道家(1193-1252)の息子・三寅(頼経、1218-56)が摂家将軍として東下しますが、この場面でも主役は道家ではなく西園寺公経ですね。
また、摂関家を荘厳する「二神約諾神話」っぽい話も一応は出てきますが、分量は少なく、『平家物語』を読んだ人なら誰でも書けそうな内容です。

「巻二 新島守」(その4)─西園寺公経
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/17a180bcfe7ca48f321ac3dc15711280

承久の乱に際しては摂関家関係者はそれほど後鳥羽院に加担してはいませんが、良経の娘(東一条院)を母とし、乱の直前に践祚したばかりの懐成親王(仲恭天皇)は廃され、道家も摂政の地位を喪います。

「巻二 新島守」(その7)─九条廃帝(仲恭天皇)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8111effe1a7eac3ee2ee79a29d92cb46

「巻三 藤衣」に入ると、九条廃帝とその母東一条院の悲哀を描いた後、後堀河天皇の後宮の場面となりますが、ここに登場する三人の女性のうち、三条有子(安喜門院、1207-86)は割と良い描かれ方をされているのに、猪隈関白・近衛家実(1179-1243)の娘、長子(鷹司院、1218-75)の扱いは冷ややかです。

「巻三 藤衣」(その2)─安喜門院・鷹司院・藻璧門院
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d8d999f1434a5680309b35430d0b0619

九条道家の娘、竴子(藻璧門院、1209-33)が入内した後、道家の息子たちの栄達の場面となりますが、道家一門の繁栄も結局は背後に岳父・西園寺公経が控えているから、というような描かれ方です。

「巻三 藤衣」(その3)─九条道家と法助
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25c08962d0e5dac1d2bd4798396f7acf

そして藻璧門院を悩ます物の怪の話の後、その薨去という暗い展開になります。

「巻三 藤衣」(その5)─藻璧門院薨去
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/63e92d4d280c1d33812576229765f57e

ということで、巻一から巻三までの間、摂関家の描かれ方はどうにもパッとしない感じですね。
ただ、そうかといって、源通親とその子孫が特別に良く描かれている訳でもありません。
また、西園寺家は公経が九条道家の背後に控えていることが何度か描かれるものの、分量的にはそれほどでもないですね。
結局、巻一から巻三までは圧倒的に「後鳥羽院の物語」であって、作者の情熱は後鳥羽院の誕生と活発な文化活動、承久の乱の勃発と戦後処理、そして隠岐での寂しい生活を描くことに注がれており、摂関家・西園寺家・村上源氏はあくまで脇役に止まっています。

さて、当初設定した着眼点の第二は「愛欲エピソード」、即ち歴史的重要性がないにもかかわらず相当の頻度で登場する、当時の公家社会の倫理水準に照らしても問題があると思われる男女間・同性間の挿話の出現時期・内容ですが、これは皆無ですね。
「後鳥羽院の物語」は終始一貫、格調が高い話だけが続きます。

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