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「深秘御沙汰」

2009-11-12 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年11月12日(木)00時03分38秒

>筆綾丸さん
>相模の太郎
これは時宗ですね。
秋山哲雄氏『北条氏権力と都市鎌倉』の「第一章 都市鎌倉における北条氏の邸宅と寺院」には次の記述があります。(p35)

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時頼の子である時宗の邸宅は、文応元年(一二六〇)三月廿一日条に

  御息所入御、先寄御輿於東御亭<相模太郎御亭>檜皮寝殿妻戸(中略)町大路南行、入御所東門

とあるように「東御亭」と記されている。ここを出た御息所が小町大路を南に行って若宮大路御所の東門から入っているので、その位置は御所の北西、つまり時頼の宝戒寺小町亭と同じ郭内と考えられる。時宗の弟の宗政は「西殿」と呼ばれ、その子の師時や孫の貞規も「西殿」と呼ばれていたから、あるいは宝戒寺小町亭の東側に「東御亭」があり、西側には宗政から師時、貞規と継承された邸宅があったのかもしれない。この「東御亭」では、文永三年(一二六六)六月二十日に「深秘御沙汰」があった。時宗は当時まだ連署であったから、得宗としてこの会議を催したことになる。評定は執権の邸宅で行われていたが、寄合の原形と言われる「深秘御沙汰」は得宗の邸宅で開催されていたのである。
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この「深秘御沙汰」では、時宗・政村・実時、そして安達泰盛の四人が征夷大将軍・宗尊親王の鎌倉追放の是非を議論した訳ですが、この会合は檜皮葺の邸宅内で行われたのですね。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/126606.html
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