続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p134以下)
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いつの年よりも五月雨はれまなくて、富士川・天竜など、えもいはずみなぎりさわぎて、いかなる竜馬もうち渡しがたければ、攻め上る武者どももあやしくなやめり。かかれどもつひに都に近づくよし聞ゆれば、君の御武者も出で立つ。その勢ひ六万余騎とかや。宇治・勢多へ分かち遣す。世の中響きののしるさま、言の葉も及ばずまねびがたし。あるは深き山へ逃げ籠り、遠き世界に落ち下り、すべて安げなく騒ぎみちたり。「いかがあらん」と君も御心乱れ、思しまどふ。かねては猛く見えし人々も、まことのきはになりぬれば、いと心あわたたしく、色を失ひたるさまども頼もしげなし。六月廿日あまりにや、いくばくの戦ひだになくて、つひに味方いくさやぶれぬ。荒き磯に高潮などのさし来るやうにて、泰時と時房乱れ入りぬれば、いはん方なくあきれて、上下物にぞあたりまどふ。
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軍記物ではないので、戦闘の描写はあっさりしてますね。
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東よりいひおこするままに、かの二人の大将軍はからひおきてつつ、保元のためしにや、院の上、都の外に移し奉るべしと聞ゆれば、女院・宮々、所々に思しまどふ事さらなり。本院は隠岐の国におはしますべければ、まづ鳥羽殿へ網代車のあやしげなるにて、七月六日いらせ給ふ。今日を限りの御歩き、あさましうあはれなり。「物にもがな」と思さるるもかひなし。その日やがて御くしおろす。御年四十に一二や余らせ給ふらん。まだいとほしかるべき御程なり。信実の朝臣召して御姿うつしかかせらる。七条院へ奉らせ給はんとなり。かくて同じ十三日に御船に奉りて、遙かなる浪路をしのぎおはします御心地、この世の同じ御身とも思されずいみじ。いかなりける代々の報ひにかと恨めしく、新院も佐渡国に移らせ給ふ。
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関東からの指令に従って、「かの二人の大将軍」即ち北条泰時と北条時房が戦後の処分を行います。
「本院」(後鳥羽院)は隠岐に、「新院」(順徳院)は佐渡にそれぞれ流されます。
後鳥羽院が自分の姿を藤原信実に描かせ、その絵を送った七条院は後鳥羽院の母親ですね。
藤原殖子(1157-1228)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%AE%96%E5%AD%90
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まことや、七月九日御門をもおろし奉りき。この卯月かとよ、御譲位とてめでたかりしに、夢のやうなり。七十余日にて降り給へるためしも、これや初めなるらん。もろこしにぞ四十五日とかや位におはする例ありけるとぞ、唐の書読みし人のいひし心地する。それもかやうの乱れやありけん。さて上達部・殿上人、それより下はた残るなく、この事に触れにしたぐひは、重く軽く罪にあたるさま、いみじげなり。
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践祚したばかりの懐成親王(仲恭天皇)も廃され、九条道家に引き取られて「九条廃帝」と呼ばれることになります。
「仲恭天皇」の名前が与えられたのは実に明治三年(1870)であることは以前にも書きました。
仲恭天皇(1218-34)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E6%81%AD%E5%A4%A9%E7%9A%87
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中の院は初めよりしろしめさぬ事なれば、東にもとがめ申さねど、父の院はるかに移らせ給ひぬるに、のどかにて都にてあらんこと、いと恐れありと思されて、御心もて、その年閏十月十日土佐国の幡多といふ所に渡らせ給ひぬ。去年の二月ばかりにや若宮いでき給へり。承明門院の御兄に通宗の宰相中将とて、若くて失せ給ひし人の女の御腹なり。やがてかの宰相の弟に、通方といふ人の家にとどめ奉り給ひて、近くさぶらひける北面の下臈一人、召次などばかりぞ、御供仕うまつりける。いとあやしき御手輿にて下らせ給ふ。道すがら雪かきくらし、風吹きあれ、吹雪して来しかた行く先も見えず、いとたへがたきに、御袖もいたく氷りてわりなきこと多かるに、
うき世にはかかれとてこそ生まれけめことわり知らぬわが涙かな
せめて近き程にと東より奏したりければ、後には阿波の国に移らせ給ひにき。
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「中の院」(土御門院)は乱には全く荷担しておらず、幕府も咎めなかったにもかかわらず、父院が隠岐に流されたのに自分だけ京でのんびり過ごすことはできないとして自発的に土佐に行きます。
幕府の要請で二年後に阿波に移りますが、結局、京に戻ることはなく、寛喜三年(1231)に阿波で亡くなります。
「去年の二月ばかりにや若宮いでき給へり」とある若宮が後の後嵯峨天皇(1220-72)で、父の土御門院が幕府に同情を買ったことが、後にこの若宮の人生を好転させることになりますが、それは暫く先の話です。