学問空間

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「巻二 新島守」(その7)─九条廃帝(仲恭天皇)

2018-01-02 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月 2日(火)17時29分0秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p134以下)

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 いつの年よりも五月雨はれまなくて、富士川・天竜など、えもいはずみなぎりさわぎて、いかなる竜馬もうち渡しがたければ、攻め上る武者どももあやしくなやめり。かかれどもつひに都に近づくよし聞ゆれば、君の御武者も出で立つ。その勢ひ六万余騎とかや。宇治・勢多へ分かち遣す。世の中響きののしるさま、言の葉も及ばずまねびがたし。あるは深き山へ逃げ籠り、遠き世界に落ち下り、すべて安げなく騒ぎみちたり。「いかがあらん」と君も御心乱れ、思しまどふ。かねては猛く見えし人々も、まことのきはになりぬれば、いと心あわたたしく、色を失ひたるさまども頼もしげなし。六月廿日あまりにや、いくばくの戦ひだになくて、つひに味方いくさやぶれぬ。荒き磯に高潮などのさし来るやうにて、泰時と時房乱れ入りぬれば、いはん方なくあきれて、上下物にぞあたりまどふ。
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軍記物ではないので、戦闘の描写はあっさりしてますね。

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 東よりいひおこするままに、かの二人の大将軍はからひおきてつつ、保元のためしにや、院の上、都の外に移し奉るべしと聞ゆれば、女院・宮々、所々に思しまどふ事さらなり。本院は隠岐の国におはしますべければ、まづ鳥羽殿へ網代車のあやしげなるにて、七月六日いらせ給ふ。今日を限りの御歩き、あさましうあはれなり。「物にもがな」と思さるるもかひなし。その日やがて御くしおろす。御年四十に一二や余らせ給ふらん。まだいとほしかるべき御程なり。信実の朝臣召して御姿うつしかかせらる。七条院へ奉らせ給はんとなり。かくて同じ十三日に御船に奉りて、遙かなる浪路をしのぎおはします御心地、この世の同じ御身とも思されずいみじ。いかなりける代々の報ひにかと恨めしく、新院も佐渡国に移らせ給ふ。
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関東からの指令に従って、「かの二人の大将軍」即ち北条泰時と北条時房が戦後の処分を行います。
「本院」(後鳥羽院)は隠岐に、「新院」(順徳院)は佐渡にそれぞれ流されます。
後鳥羽院が自分の姿を藤原信実に描かせ、その絵を送った七条院は後鳥羽院の母親ですね。

藤原殖子(1157-1228)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%AE%96%E5%AD%90

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 まことや、七月九日御門をもおろし奉りき。この卯月かとよ、御譲位とてめでたかりしに、夢のやうなり。七十余日にて降り給へるためしも、これや初めなるらん。もろこしにぞ四十五日とかや位におはする例ありけるとぞ、唐の書読みし人のいひし心地する。それもかやうの乱れやありけん。さて上達部・殿上人、それより下はた残るなく、この事に触れにしたぐひは、重く軽く罪にあたるさま、いみじげなり。
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践祚したばかりの懐成親王(仲恭天皇)も廃され、九条道家に引き取られて「九条廃帝」と呼ばれることになります。
「仲恭天皇」の名前が与えられたのは実に明治三年(1870)であることは以前にも書きました。

仲恭天皇(1218-34)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E6%81%AD%E5%A4%A9%E7%9A%87

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 中の院は初めよりしろしめさぬ事なれば、東にもとがめ申さねど、父の院はるかに移らせ給ひぬるに、のどかにて都にてあらんこと、いと恐れありと思されて、御心もて、その年閏十月十日土佐国の幡多といふ所に渡らせ給ひぬ。去年の二月ばかりにや若宮いでき給へり。承明門院の御兄に通宗の宰相中将とて、若くて失せ給ひし人の女の御腹なり。やがてかの宰相の弟に、通方といふ人の家にとどめ奉り給ひて、近くさぶらひける北面の下臈一人、召次などばかりぞ、御供仕うまつりける。いとあやしき御手輿にて下らせ給ふ。道すがら雪かきくらし、風吹きあれ、吹雪して来しかた行く先も見えず、いとたへがたきに、御袖もいたく氷りてわりなきこと多かるに、

  うき世にはかかれとてこそ生まれけめことわり知らぬわが涙かな

せめて近き程にと東より奏したりければ、後には阿波の国に移らせ給ひにき。
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「中の院」(土御門院)は乱には全く荷担しておらず、幕府も咎めなかったにもかかわらず、父院が隠岐に流されたのに自分だけ京でのんびり過ごすことはできないとして自発的に土佐に行きます。
幕府の要請で二年後に阿波に移りますが、結局、京に戻ることはなく、寛喜三年(1231)に阿波で亡くなります。
「去年の二月ばかりにや若宮いでき給へり」とある若宮が後の後嵯峨天皇(1220-72)で、父の土御門院が幕府に同情を買ったことが、後にこの若宮の人生を好転させることになりますが、それは暫く先の話です。
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「巻二 新島守」(その6)─北条泰時

2018-01-02 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月 2日(火)16時16分30秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p125以下)

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 かくてうち出でぬる又の日、思ひかけぬ程に、泰時ただ一人鞭をあげて馳せ来たり。父、胸うち騒ぎて、「いかに」と問ふに、「戦のあるべきやう、大かたのおきてなどをば仰せの如くその心をえ侍りぬ。もし道のほとりにも、はからざるに、かたじけなく鳳輦を先立てて御旗をあげられ、臨幸の厳重なることも侍らんに参りあへらば、その時の進退はいかが侍るべからん。この一事を尋ね申さんとて一人馳せ侍りき」といふ。義時とばかりうち案じて、「かしこくも問へるをのこかな。その事なり。まさに君の御輿に向ひて弓を引くことはいかがあらん。さばかりの時は、兜をぬぎ、弓の弦を切りて、ひとへにかしこまりを申して、身をまかせ奉るべし。さはあらで、君は都におはしましながら、軍兵を賜はせば、命を捨てて千人が一人になるまでも戦ふべし」と、いひも果てぬに急ぎ立ちにけり。
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これが古来、『増鏡』屈指の名場面とされる「かしこくも問へるをのこかな」のエピソードですね。
義時・泰時親子が涙の別れをした翌日、泰時がただ一人鞭を振るって馳せ帰ってきます。
義時は胸が騒いで、「どうした」と問うたところ、泰時は、「戦術や基本的な戦略などは仰せの通り心得ました。しかし、仮に後鳥羽院御自身が畏れ多くも鳳輦を先立てて錦の御旗を上げられ、戦さの最前線に親しく臨まれた場合、どのように対処したらよろしいでしょうか。この一事をお尋ねしようと一人駆け戻ってきたのです」と言います。
義時は暫く考えて、「賢くも尋ねたものだ、わが子よ。そのことだ。後鳥羽院の御輿に向かって弓を引くことは絶対に許されない。そのような時は兜を脱ぎ、弓の弦を切ってひたすら恐懼の旨を言上し、後は後鳥羽院の御判断にお任せするのみだ。そうではなくて、後鳥羽院が都に御滞在のまま、軍兵だけをお遣わしになったのなら、命を捨てて千人が一人になるまで戦え」と言いも終わらぬうちに泰時は急ぎ出立した、ということで、最後の「いひも果てぬに急ぎ立ちにけり」が特に劇的で良いですね。
さて、このエピソードは『増鏡』にしか見えない話なのですが、井上氏は「公家の、武家に対する期待・願望にすぎぬ話であろう。つまり王朝貴族の立場に立つ作者の創作か、伝えられて来た挿話を大きく取り上げたかであろう」(p129)と言われます。
国文学者の認識は概ね井上氏と同様なのですが、私はかなり異なった解釈をしています。
この点は、承久の乱に関する長い描写の後、作者自身のまとめがありますので、その記事を検討する際に併せて論じたいと思います。
ということで、原文の紹介を先に行います。

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 都にも思しまうけつることなれば、武士ども召しつどへ、宇治・勢多の橋をひかせて、敵を防ぐべき用意、心ことなり。公経の大将ひとりのみなん、御孫のこともさることにて、北の方は一条の中納言能保といふ人の女なり。その母北の方は故大将のはらからなれば、一かたならず東を重く思してさしいらへもせず、「院の御心の軽きこと」と危ながり給ふ。七条院の御ゆかりの殿原、坊門大納言忠信、尾張中将清経、中御門大納言宗家、また修明門院の御はらからの甲斐の宰相中将範茂など、次々あまた聞ゆれど、さのみはしるしがたし。軍にまじりたつ人々、この外、上達部、殿上人にもあまたありき。
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後鳥羽院周辺の中で西園寺公経だけが孤立していることが強調されています。
公経室は一条能保(1147-97)の娘で、その母親は「故大将」源頼朝の妹ですから、公経は特別に関東と密接な関係を有する公家であり、後鳥羽院に批判的であった訳ですね。

坊門姫(一条能保室)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%8A%E9%96%80%E5%A7%AB_(%E4%B8%80%E6%9D%A1%E8%83%BD%E4%BF%9D%E5%AE%A4)

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 御修法ども数知らず行なはる。やんごとなき顕密の高僧も、かかる時こそ頼もしきわざならめ。各々心を致して仕うまつる。御身づからも念ぜさせ給ふ。日吉の社に忍びて詣でさせ給へり。大宮の御前に、夜もすがら御念誦し給ひて、御心の内にいかめしき願どもをたてさせ給ふ。夜すこしふけしづまりて、御社すごく、燈籠の光かすかなる程に、幼き童の臥したりけるが、俄かにおびえあがりて、院の御前にただ参りに走り参りて託宣しけり。「かたじけなくもかく渡りおはしてうれへ給へば、聞き過し難く侍れど、一年の輿振の時、情なく防がせ給ひしかば、衆徒おのれを恨みて、陣のほとりにふり捨て侍りしかば、空しく馬牛の蹄にかかりしことは、いまだ怨めしく思ひ給ふるにより、この度の御方人は、仕うまつり侍るまじ。七社の神殿を黄金白銀に磨きなさんと承るも、もはらうけ侍らぬなり」とののしりて息もたえぬるさまにて臥しぬ。聞し召す御心地、ものに似ずあさましう思さるるに、御涙のみぞ出で来る。過ぎにし方くやしうとり返さまほし。さまざま、おこたりかしこまり申させ給ふ。山の御輿防ぎ奉りけんこと、必ずしもみづから思し寄るにはあらざりけめど、「責め一人に」といふらんことにやとあぢきなし。
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乱の直前の承久三年(1221)六月八日、後鳥羽院の日吉御幸があったことは『百錬抄』に記され、事実と思われますが、その後の不気味な話は『増鏡』作者の創作っぽいですね。

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 中の院はあかで位をすべり給ひしより、言に出でてこそものし給はねど、世のいと心やましきままに、かやうの御騒ぎにもことにまじらひ給はざめり。新院は同じ御心にて、よろづいくさの事なども、おきて仰せられたり。
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「新院」(順徳院)は後鳥羽院に完全に同調しますが、「中の院」(土御門院)は同心せず、幕府も乱後に土御門院が無関係であったことを認めます。
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「巻二 新島守」(その5)─北条義時

2018-01-02 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月 2日(火)12時09分21秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p121以下)

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 かくて世をなびかししたため行なふ事も、ほとほと古きにはこえたり。まめやかにめざましき事も多くなり行くに、院の上、忍びて思したつ事あるべし。近く仕うまつる上達部・殿上人、まいて北面の下臈・西面などいふも、みなこの方にほのめきたるは、あけくれ弓箭・兵仗のいとなみよりほかの事なし。剣などを御覧じ知る事さへ、いかで習はせ給へるにか、道の者にもややたちまさりてかしこくおはしませば、御前にてよきあしきなど定めさせ給ふ。
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「忍びて思したつ事」は討幕計画ですね。
後鳥羽院は多芸多才で、刀剣の鑑定も出来たのだそうです。

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 かやうのまぎれにて承久も三年になりぬ。四月廿日御門おりさせ給ふ。春宮四つにならせ給ふに譲り申させ給ふ。近頃みなこの御齢にて受禅ありつれば、これもめでたき御行末ならんかし。同じ廿三日今おりさせ給へるを新院と聞ゆれば、御兄の院をば中の院と申し、父御門をば本院とぞ聞えさする。この程は家実の大臣、関白にておはしつれど、御譲位の時、左大臣道家の摂政になり給ふ。かの東の若君の御父なり。
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九条廃帝(仲恭天皇、1218-34)の運命を考えれば「これもめでたき御行末ならんかし」(これもめでたい将来でいらっしゃるだろう)もないだろうと思いますが、『増鏡』には特定時点での慶事であればとりあえず誉めておいて、次の場面であっさりと切り捨てる、というパターンがけっこうあります。
ここもそのひとつですね。
近衛家実(1179-1243)、九条道家(1193-1252)への言及も簡単ですね。

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 さても院の思し構ふること、忍ぶとすれど、やうやう洩れ聞えて、東ざまにもその心づかひすべかめり。東の代官にて伊賀判官光季といふものあり。かつがつかれを御勘事の由、仰せらるれば、御方に参る兵押し寄せたるに、逃がるべきやうなくて腹切りてけり。まづいとめでたしとぞ院は思しめしける。
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伊賀光季はその姉か妹が北条義時(1163-1225)の後室(伊賀の方)となって義時に重用され、実朝横死の翌月、大江広元の長男・親広とともに京都守護として上洛します。
大江親広は後鳥羽院に丸め込まれてしまったものの、伊賀光季は後鳥羽院の誘いを拒否して自決した訳ですね。
『増鏡』には言及がありませんが、大江親広も村上源氏との関係で興味深い人物です。
この人は源通親の猶子となって源親広を称した後、大江に復姓しますが、その室は北条義時の娘(竹殿)で、重時・朝時の同母妹です。
承久の乱に加担した親広が、死罪は免れたものの京都を追放された後、義時娘は土御門定通(1188-1247)に再嫁しますが、四条天皇の頓死後、後嵯峨が践祚するに当たっては、この義時娘を通じての定通と幕府の関係が後嵯峨に有利に働いたといわれています。
ま、それはかなり先の話ですが。

伊賀光季
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B3%80%E5%85%89%E5%AD%A3
大江親広
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E8%A6%AA%E5%BA%83
竹殿
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%AE%BF

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 東にもいみじうあわて騒ぐ。「さるべくて身の失すべき時にこそあんなれ」と思ふものから、「討手の攻め来たりなん時に、はかなき様にて屍をさらさじ、おほやけと聞ゆとも、みづからし給ふ事ならねば、かつは我が身の宿世をも見るばかり」と思ひなりて、弟の時房と泰時といふ一男と、二人をかしらとして、雲霞のつはものをたなびかせて都にのぼす。
 泰時を前に据ゑていふやう、「おのれをこのたび都に参らする事は思ふ処多し。本意の如く清き死をすべし。人に後ろ見えなんには、親の顔また見るべからず。今を限りと思へ。賤しけれども義時、君の御為に後ろめたき心やはある。されば横さまの死をせんことはあるべからず。心を猛く思へ。おのれうち勝つならば、二たびこの足柄箱根山は越ゆべし」など、泣く泣くいひ聞かす。「まことにしかなり。また親の顔拝まん事もいと危し」と思ひて、泰時も鎧の袖をしぼる。かたみに今や限りにあはれに心細げなり。
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なかなかの名文ですが、有名なのはこの後の「かしこくも問へるをのこかな」のエピソードですね。
長くなったので、いったん、ここで切ります。

北条義時(1163-1225)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E7%BE%A9%E6%99%82
北条泰時(1183-1242)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B3%B0%E6%99%82
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「巻二 新島守」(その4)─西園寺公経

2018-01-02 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月 2日(火)10時01分12秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p113以下)

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 時政は建保三年かくれにしかば、義時はあとを継ぎける。故左衛門督の子にて、公暁といふ大徳あり。親の討たれにしことを、いかでか安き心あらん。いかならん時にかとのみ思ひわたるに、この大臣また右大臣にあがりて、大饗など珍しく東にて行ふ。京より尊者をはじめ、上達部・殿上人多くとぶらひいましけり。さて鎌倉にうつし奉れる八幡の御社に神拝に詣づる、いといかめしき響きなれば、国々の武士は更にもいはず、都の人々も扈従しけり。たち騒ぎののしる者、見る人も多かる中に、かの大徳うちまぎれて、女のまねをして、白き薄衣ひきをり。大臣の車より降るる程を、さしのぞくやうにぞ見えける。あやまたず首をうち落しぬ。その程のどよみいみじさ、思ひやりぬべし。かくいふは承久元年正月廿七日なり。そこらつどひ集れる者ども、ただあきれたるより外の事なし。京にも聞し召し驚く。世の中火を消ちたるさまなり。扈従に西園寺宰相中将も下り給ひき。さならぬ人々も泣く泣く袖をしぼりてぞ上りける。
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「時政は建保三年かくれにしかば、義時はあとを継ぎける」とありますが、時政は元久二年(1205)、政子と義時によって伊豆に追放され、建保三年(1215)に死去するまでの十年間は全く権力と縁のない存在ですね。
『増鏡』の作者はそのあたりの関東の事情は良く知らず、後に北条氏が執権の地位を世襲したことから時政・義時間も世襲と想像したようです。
あるいは、そもそもそうした関東の細かい事情には興味がなかったかもしれません。
実朝が建保七年(承久元年、1218)に頼家の遺児・公暁に暗殺された事件に際し、京都から「尊者をはじめ、上達部・殿上人多く」がいた中で「西園寺宰相中将」、即ち西園寺実氏(1194-1269)の名前だけが挙げられていることは、次の摂家将軍の下向に関する西園寺公経の描き方と併せ、少し気になるところです。

公暁(1200-19)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%9A%81

さて、実朝没後の若干微妙な朝幕関係についてです。

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 いまだ子もなければたち継ぐべき人もなし。事しづまりなん程とて、故大臣の母北の方二位殿といふ人、二人の子をも失ひて、涙ほすまもなく、しをれ過ぐすをぞ将軍に用ゐける。かくてもさのみはいかがにて、「公達一ところ下し聞えて、将軍になし奉らせ給へ」と公経の大臣に申しのぼせければ、「あへなん」と思す所に、九条右大臣殿の上はこの大臣の御女なり。その御腹の若君の二つになり給ふを下し聞えんと、九条殿のたまへば、御孫ならんも同じ事と思し定め給ひぬ。
 その年の六月に東に率て奉る。七月十九日におはしまし着きぬ。むつきの中の御有様は、ただ形代などをいはひたらんやうにて、よろづの事、さながら右京権大夫義時朝臣心のままなれど、一の人の御子の将軍に成り給へるは、これぞはじめなるべき。かの平家の亡びがた近く、人の夢に、「頼朝が後はその御太刀あづかるべし」と春日大明神仰せられけるは、この今の若君の御事にこそありけめ。
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「故大臣の母北の方二位殿といふ人、二人の子をも失ひて、涙ほすまもなく、しをれ過ぐすをぞ将軍に用ゐける」とあるので、『増鏡』の作者は「故大臣の母北の方二位殿」即ち北条政子(1157-1225)が短期間であっても将軍職に就いたと認識している訳ですね。
実朝横死を受けて、幕府は当初、朝廷に親王将軍の下向を要請したものの、後鳥羽院に拒否され、代わりに九条道家(1193-1252)と西園寺公経(1171-1242)の娘・倫子の子、三寅(後の頼経、1218-56)が僅か二歳で鎌倉に下向することになります。
『増鏡』の書き方だと、「公達一〔ひと〕ところ」としているので幕府側は親王を要請した訳ではなく、また朝廷側は西園寺公経が「あへなん」(まあよかろう)と思っているところに公経の女婿である九条道家が三寅でどうかと提案し、公経が「孫でもいいかな」と了解したということで、全て西園寺公経中心になっていますね。
承久の乱の直前の時期、誰を将軍として下向させるかは朝廷の最重大事であり、それを決定できるのはもちろん後鳥羽院だけです。
西園寺公経は親幕府派として特に警戒され、承久の乱に際しては後鳥羽院の指示で監禁され、殺されかかった人ですから、この時期に自由な裁量で誰を下向させるかを決定できたはずはないのですが、『増鏡』は西園寺公経の存在を際立たせていますね。

北条政子(1157-1225)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%94%BF%E5%AD%90
九条頼経(1218-56)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E7%B5%8C
西園寺公経(1171-1244)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E7%B5%8C

最後の方、「かの平家の亡びがた近く、人の夢に、『頼朝が後はその御太刀あづかるべし』と春日大明神仰せられけるは、この今の若君の御事にこそありけめ」はおそらく『平家物語』巻五・物怪之沙汰を受けたものです。
すなわち、「神祇官の議定の場のような所で、平家に味方していた厳島大明神が追い立てられ、源氏の守護神八幡大菩薩が、平家の預かっていた節刀を頼朝に与えたいというと、藤原氏の氏神春日大明神が、その後で私の子孫に与えてください、といった」という話で(井上、p120)、近年、研究が盛んな「二神約諾神話」の一変形ですね。
「二神約諾神話」は慈円の『愚管抄』に相当な分量の記述があり、様々なバリエーションがあるものの、基調は摂関家の存在を荘厳する神話であって、『増鏡』の作者が摂関家関係者であれば取り上げたいと思うはずの題材です。
ただ、ここでの書き方は『平家物語』を読んでいれば誰でも書けるもので、これを根拠のひとつとして摂関家関係者が『増鏡』作者だろうと想定するのは些か苦しいような感じがします。
「二神約諾神話」については小川剛生氏なども論文を書かれていますが、ネットでは藤森馨氏の次の論文が参考になりますね。

藤森馨「二神約諾神話の展開」
https://www.gcoe.lit.nagoya-u.ac.jp/result/pdf/236-244%E8%97%A4%E6%A3%AE.pdf

なお、蘭渓道隆にも「二神約諾神話」の要素を取り入れた説法があって、以前、少し触れたことがあります。

二神約諾神話
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/697686aea7e8431c51f8a2a7ac800d18

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