続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p81以下)
-------
披講果てて夜ふけ行く程、御遊びはじまる。笛花山院の中納言<長雅>、茂道の中将、笙公秋の中将にておはせしにや。篳篥忠輔の中将、琵琶は太政大臣<公相>、具氏中将も弾きけるとぞ。御簾の内にも御箏どもかきあはせらる。ひがしの御方と聞えしは新院の若宮の御母君にや。刑部卿の君も弾かれけり。楽のひまひまに、太政大臣・土御門大納言<通成>など朗詠し給ふ。忠輔・公秋声加へたる程おもしろし。
河浪もふけゆくままにすごう、月は氷をしける心ちするに、嵐の山の紅葉、夜の錦とはたれかいひけん、吹きおろす松風にたぐひて、御前の簀子、御酒参る。かはらけのうちなどに散りかかる、わざと艶あることのつまにしつべし。若き人々は身にしむばかり思へり。うち乱れたる様に、おのおの御かはらけども、あまたたびくだる。明け行く空も名残多かるべし。
-------
披講が終って夜が更けて行く頃、管弦の御遊びが始まります。
花山院長雅(1235-87)・藤原茂通(頼宗流、1231-93)は明確に特定できますが、「公秋」は井上氏が用いている古本系の底本で「きんあきら」となっていて、そのままではこの時期に該当する人物がいないそうですね。
井上氏は岩波大系にならって西園寺公経の子、実藤男の「公秋」としていますが、西園寺家とはいっても傍流で、本人も「正四位下左中将」程度で終わった人のようです。
「忠輔の中将」もはっきりせず、井上氏は「道隆流の参議親定男か」としています。
これが正しければ水無瀬家の傍流ですね。
さて、「ひがしの御方」は「新院の若宮の御母君にや」とあるので、熈仁親王(伏見天皇、1265-1317)を生んだ洞院実雄の娘、愔子(玄輝門院、1246-1329)ですね。
『増鏡』の亀山殿歌合の年次には二年のずれがあることは前述しましたが、洞院愔子はこの行事が実際に行なわれた文永二年(1265)の四月二十三日に熈仁親王を生んだばかりです。
ま、閏四月も入れて半年後の行事ですから、愔子が出席していても全然不思議ではありません。
「ひがしの御方」は『とはずがたり』に頻繁に登場する女性で、西園寺公子(東二条院)が意地悪な女として描かれているのと対照的に、「ひがしの御方」は非常に好意的に描かれています。
また、愔子は『徒然草』の第三十三段で、文保元年(1317)に新造された二条富小路内裏の「櫛形の穴」の形が正元元年(1259)に焼失した閑院殿のそれと異なることを指摘した女性でもあります。
閑院内裏の焼失時、愔子はまだ十四歳で、小川剛生氏は「閑院内裏は古き良き時代の象徴であった。女院はこの時代の数少ない生き残りであることを驚異的な記憶力で証明したのである」と評されていますね。(角川文庫版『新版徒然草』、p44)
「ひがしの御方」の登場は『増鏡』の世界が『とはずがたり』に近づいてきたことを予感させるもので、もう少し後になると『とはずがたり』からの膨大な引用が始まります。
伏見天皇(1265-1317)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%A4%A9%E7%9A%87
洞院愔子(玄輝門院、1246-1329)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E9%99%A2%E3%81%84%E3%82%93%E5%AD%90