学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「巻七 北野の雪」(その9)─洞院愔子(玄輝門院)

2018-01-23 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月23日(火)21時06分50秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p81以下)

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 披講果てて夜ふけ行く程、御遊びはじまる。笛花山院の中納言<長雅>、茂道の中将、笙公秋の中将にておはせしにや。篳篥忠輔の中将、琵琶は太政大臣<公相>、具氏中将も弾きけるとぞ。御簾の内にも御箏どもかきあはせらる。ひがしの御方と聞えしは新院の若宮の御母君にや。刑部卿の君も弾かれけり。楽のひまひまに、太政大臣・土御門大納言<通成>など朗詠し給ふ。忠輔・公秋声加へたる程おもしろし。
 河浪もふけゆくままにすごう、月は氷をしける心ちするに、嵐の山の紅葉、夜の錦とはたれかいひけん、吹きおろす松風にたぐひて、御前の簀子、御酒参る。かはらけのうちなどに散りかかる、わざと艶あることのつまにしつべし。若き人々は身にしむばかり思へり。うち乱れたる様に、おのおの御かはらけども、あまたたびくだる。明け行く空も名残多かるべし。
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披講が終って夜が更けて行く頃、管弦の御遊びが始まります。
花山院長雅(1235-87)・藤原茂通(頼宗流、1231-93)は明確に特定できますが、「公秋」は井上氏が用いている古本系の底本で「きんあきら」となっていて、そのままではこの時期に該当する人物がいないそうですね。
井上氏は岩波大系にならって西園寺公経の子、実藤男の「公秋」としていますが、西園寺家とはいっても傍流で、本人も「正四位下左中将」程度で終わった人のようです。
「忠輔の中将」もはっきりせず、井上氏は「道隆流の参議親定男か」としています。
これが正しければ水無瀬家の傍流ですね。
さて、「ひがしの御方」は「新院の若宮の御母君にや」とあるので、熈仁親王(伏見天皇、1265-1317)を生んだ洞院実雄の娘、愔子(玄輝門院、1246-1329)ですね。
『増鏡』の亀山殿歌合の年次には二年のずれがあることは前述しましたが、洞院愔子はこの行事が実際に行なわれた文永二年(1265)の四月二十三日に熈仁親王を生んだばかりです。
ま、閏四月も入れて半年後の行事ですから、愔子が出席していても全然不思議ではありません。
「ひがしの御方」は『とはずがたり』に頻繁に登場する女性で、西園寺公子(東二条院)が意地悪な女として描かれているのと対照的に、「ひがしの御方」は非常に好意的に描かれています。
また、愔子は『徒然草』の第三十三段で、文保元年(1317)に新造された二条富小路内裏の「櫛形の穴」の形が正元元年(1259)に焼失した閑院殿のそれと異なることを指摘した女性でもあります。
閑院内裏の焼失時、愔子はまだ十四歳で、小川剛生氏は「閑院内裏は古き良き時代の象徴であった。女院はこの時代の数少ない生き残りであることを驚異的な記憶力で証明したのである」と評されていますね。(角川文庫版『新版徒然草』、p44)
「ひがしの御方」の登場は『増鏡』の世界が『とはずがたり』に近づいてきたことを予感させるもので、もう少し後になると『とはずがたり』からの膨大な引用が始まります。

伏見天皇(1265-1317)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%A4%A9%E7%9A%87
洞院愔子(玄輝門院、1246-1329)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E9%99%A2%E3%81%84%E3%82%93%E5%AD%90
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「巻七 北野の雪」(その8)─亀山殿歌合

2018-01-23 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月23日(火)14時55分22秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p80以下)

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 その年九月十三夜、亀山殿の桟敷にて御歌合せさせ給ふ。かやうのことは白河殿にても鳥羽殿にても、いとしげかりしかど、いかでかさのみはにて、みなもらしぬ。このたびは心ことにみがかせ給ふ。右は関白殿にて歌どもえりととのへらる。左は院の御前にて御覧ぜられけり。この程、殿と申すは円明寺殿、新院の御位のはじめつかた摂政にていませしが、又この二年ばかりかへらせ給へり。前関白殿は院の御方にさぶらはせ給ふ。
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弘長三年(1263)の行事のように書かれていますが、実際には文永二年(1265)ですね。
「円明寺殿」は一条実経(1223-84)で、後深草天皇践祚とともに寛元四年(1246)一月に摂政となるも宮騒動の影響で翌年一月に辞めさせられ、十八年後の文永二年(1265)に「前関白殿」二条良実(1216-1270)に代って関白となり、文永四年に辞します。
従って、「新院の御位のはじめつかた摂政にていませし」は正しいのですが、「又この二年ばかりかへらせ給へり」は二年ずれていますね。
ただ、文永二年九月十三日の亀山殿歌合のときは確かに一条実経が関白です。

「巻五 内野の雪」(その8)─一条実経
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6eefe42b09da7e9263e62382e0f9c056

「いかでかさのみはにて、みなもらしぬ」は歌合のような行事は白川殿でも鳥羽殿でも頻繁に開かれたので「どうしてそんなに一々は述べられようか、ということでみんな省略した」という意味で、ここも語り手の老尼がちょこっと顔を出している場面です。
歌合の右方は関白・一条実経が歌を選び整え、左方は後嵯峨院が自ら選び整えられたとのことで、「前関白殿」二条良実は左方に属した訳ですね。

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 そのほかすぐれたる限り、右は関白殿・今出川の太政大臣・皇后宮の御父の左大臣殿よりも下、みなこの道の上手どもなり。左は大殿よりかずたてつくりて風流の洲浜、沈にてつくれる上に白銀の舟二つに色々の色紙をまき重ねてつまれたり。数も沈にてつくりて舟に入れらる。左右の読師、一度に御前に参りてよみあぐ。左具氏の中将、右行家なり。山紅葉、本院の御製、

  ほかよりは時雨もいかがそめざらむ我が植ゑて見る山の紅葉ば

つひに左御勝の数勝りぬ。
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「今出川の太政大臣」は西園寺公相(1223-37)、「皇后宮の御父の左大臣殿」は洞院実雄(1219-73)です。
「かずたて」は「勝った数を数えるため、串や枝を差し入れる道具」(p84)だそうで、私はこの種の行事のことが分からないので、井上氏の訳を引用すると、

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左方は良実公から数取りを作って(奉り)趣向をこらした洲浜を沈の木で造った上に銀の舟二艘を置き、それにいろいろの色紙を巻き重ねて積まれている。数取りも沈の木で作って舟の中に入れられている。左右の読師はそろって御前に進んで歌を詠みあげる。左は具氏中将、右は行家である。「山の紅葉」という題で詠まれた後嵯峨院の御製【後略】
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ということです。(p82)
単に歌の優劣を競い合うだけでなく、なかなか豪華絢爛たる行事のようですね。
「具氏中将」は『徒然草』第135段に登場する村上源氏の「具氏宰相中将」で、「むまのきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいり、くれんとう」の意味を「資末大納言入道」に質問した人です。

中院具氏(1231-75)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%B7%E6%B0%8F

「行家」は「六条藤家」の歌人、九条行家で、すぐ後に出てくる『続古今集』の撰者の一人です。

九条行家(1223-75)(水垣久氏『やまとうた』内、「千人万首」)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yukiie.html

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「巻七 北野の雪」(その7)─後嵯峨院、如法写経

2018-01-23 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月23日(火)13時08分0秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p77以下)

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 その年にや、五月のころ、本院亀山殿にて御如法経書かせ給ふ。いとありがたくめでたき御事ならんかし。後白河院こそ、かかる御事はせさせ給ひけれ、それも御髪おろして後のことなり。いとかく思したたせ給へる、いみじき御願なるべし。さるはあまたたび侍りしぞかし。男は花山院の中納言<師継>一人さぶらひ給ひける。やごとなき顕密の学士どもを召しけり。
 昔、上東門院も行はせ給ひたりし例にや、大宮院、同じく書かせおはしますとぞ承りし。十種供養はてて後は、浄金剛院へ御みづから納めさせ給へば、関白・大臣・上達部歩み続きて御供つかうまつられけるも、さまざまめづらしくおもしろくなん。
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「如法経」は一定の形式で経文を書写することで、法華経が多いようですね。
後白河院(1127-92)の先例はあるけれども、それは法体になってからのことで、後嵯峨院は俗体で如法経を行なったのが素晴らしいのだそうです。
その際に奉仕したのは在俗では花山院師継一人だけで、師継は後嵯峨院崩御の前年、文永八年(1271)に内大臣となり、建治元年(1275)まで在職しています。
後嵯峨院側近の一人ですね。

花山院師継(1222-81)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%B8%AB%E7%B6%99

大宮院も藤原道長の娘、上東門院彰子(988-1074)の先例にならってか、如法経を行なったとのことですが、このあたりの記述は『五代帝王物語』を参照したものと言われています。
『五代帝王物語』では、亀山殿造営の記事と一緒になって、後嵯峨院と大宮院の如法経の記事が載っていますね。
既に紹介済みですが、再掲すると、

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さて院は西郊亀山の麓に御所を立て、亀山殿と名付。常に渡らせ給ふ。大井河嵐の山に向て桟敷を造て、向の山にはよしの山の桜を移し植られたり。自然の風流求ざるに眼をやしなふ。まことに昔より名をえたる勝地とみえたり。殊更に梅宮に事由を申されて、橘大后の御願壇林寺の跡に浄金剛院を建られて、道観上人を長老として浄土宗を興行せらる。又大御所の乾角に当りて、西には薬草院をたてられ、東には如来寿量院を立て、御幽閑の地に定らる。是法花の本迹二門を表せらる。事に触て叡慮のそこ思食入ずといふことなし。又大御所に大多勝院と云御持仏堂を造て、天台三井両門の碩学を供僧になされて、春秋の二季、止観の御談義あり。山の経海僧正を御師範として、止観玄文の御稽古、上代にも超てや侍らんと覚き。されば南北の碩徳、我も我もと先をあらそふ。ゆゆしき勧学の階となれり。上の好処に下したがふ習にて、観道の法門などは、近来無下にすたれたりしを、此御代には昔にかへりてこそ聞侍りしか。毎日、いかにも、本書十丁をば叡覧あるよし仰ありけり。当道の学徒だにも、日をへて本書などを、さ程に見る事は有がたくこそ侍らめ。後白川院文治の御修行の例をたづねて、亀山殿仙洞にて、如法写経の御願をはじめらる。彼は御法体の後なり。此は御俗体也といへども、三衣をかけさせ給て万機諮詢の御隙はなけれども、たびたび此御願をはたさる。四ヶ年の御修行のうち、三度は俗体の御体にてぞ有し。又上東門院の佳例を追て、大宮院も妙経に伴ひまいらせ給ふ。簾中にわたらせ給て、六時の御懺法御写経などはありけり。十種供養の儀はまことに菩薩聖衆もかけりくだり給らんとみえき。文治の御経を霊山左大弁宰相定長卿奉行して侍けるが、御賀の儀に准ずべしなど記録にもかける。誠にさりと覚侍き。円宗の教法、此御時に再興する成べし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/87ea3bec1b7d2395782298f1b0d33ae2

ということで、後嵯峨院は合計四回如法経を行なっていて、そのうち三回は俗体だそうです。
井上氏の解説によれば後嵯峨院と大宮院の如法写経については『叡岳要記』に記録があり、『増鏡』とは若干の異同があるようですが(p80)、細かくなるので省略します。

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「巻七 北野の雪」(その6)─亀山天皇、亀山殿行幸

2018-01-23 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月23日(火)11時20分44秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p73以下)

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 かくて弘長三年二月のころ、大方の世の気色もうららかに霞みわたるに、春風ぬるく吹きて、亀山殿の御前の桜ほころびそむる気色、常よりもことなれば、行幸あるべく思しおきつ。関白<二条殿良実>この三年ばかり又かへりなり給へば、御随身ども花を折りて、行幸より先に参りまうけ給ふ。そのほかの上達部は例のきらきらしき限り、残るは少なし。新院も両女院も渡らせ給ふ。
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弘長三年(1263)二月、亀山天皇が亀山殿を訪問する場面です。
二条家の祖の良実は仁治三年(1242)から寛元四年(1246)まで関白となり、十五年後の弘長元年(1261)から文永二年(1265)まで、再度関白となります。
関白良実は亀山天皇の行幸に先だって準備のために亀山殿に参上したが、その際、随人が「花を折りて」、即ち華やかに飾り立てていた、のだそうです。
良実は今までにも何度か登場していますが、いつも名前だけか、せいぜいこの場面程度の分量で描かれているだけですね。
なお、「花を折る」という表現が『とはずがたり』の冒頭にあるので、以前、この表現が『とはずがたり』と『増鏡』の関係を考える上で重要なのではないかと思って少し調べたことがあるのですが、結局、鎌倉時代でも割と普通に用いられていた表現で、特定の筆者に帰することはできない、というしょぼい結論になってしまいました。

二条良実(1216-70)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E8%89%AF%E5%AE%9F

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 御前のみぎはに船ども浮めて、をかしきさまなる童、四位の若きなど乗せて、花の木かげより漕ぎ出でたる程、二なくおもしろし。舞楽さまざま曲など、手をつくされけり。御遊びののち人々歌奉る。「花契遐年」といふ題なりしにや。内の上の御製、

  たづね来てあかぬ心にまかせなば千とせや花の影に過ごさん

かやうのかたまでもいとめでたくおはしますとぞ、古き人々申すめりし。かへらせ給ふ日、御贈り物ども、いとさまざまなる中に、延喜の御手本を、鴬のゐたる梅の造り枝につけて奉らせ給ふとて、院の上、

  梅が枝に代々の昔の春かけてかはらず来ゐる鴬の声

御返しを忘れたるこそ、老いのつもりもうたて口惜しけれ。
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管弦の遊びの後、「花契遐年」(花、はるかなる年を契る)という題で歌会があり、まだ十五歳の亀山天皇が見事な歌を詠んだので、歌の方面の才能も優れておられると老人たちは申しているようだ。
還幸の日、天皇への贈り物がいろいろあった中で、延喜の帝、醍醐天皇の御宸筆を、鶯の止まっている梅の造り枝に付けて差し上げなさる後嵯峨院の御製への天皇の返歌を忘れてしまったのは年を取ったせいで、まことに口惜しいことです。

ということで、「御返しを忘れたるこそ、老いのつもりもうたて口惜しけれ」は、例によって語り手の老尼がちょこっと顔を出す場面です。
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