学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「巻五 内野の雪」(その14)─後嵯峨院、熊野御幸

2018-01-13 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月13日(土)14時31分1秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p283以下)

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 そのころほひ、熊野の御幸侍りしにもよき上達部あまたつかうまつらる。都出でさせ給ふ日、例の桟敷など、心ことにいどみかはすべし。車はたてぬ事なりしかど、大宮院ばかり、それも出し車はなくて、ただ一輌にて見奉り給ひしこそ、やんごとなさもおもしろく侍りけれ。弁の内侍、

  をりかざすなぎの葉風のかしこさにひとり道あるを車のあと

御幸、熊野の本宮につかせ給ひて、それより新宮の川ぶねに奉りてさしわたすほど、川のおもて所せきまで続きたるも、御覧じなれぬさまなれば、院のうへ、

  くまの川瀬切りに渡す杉舟のへ波に袖のぬれにけるかな

その後も又ほどへてく御幸ありしかば、女院も参り給ひけり。みな人しろしめしたらん。中々にこそ。
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後嵯峨院は熊野に建長二年(1250)と建長七年(1255)の二度行っています。
『五代帝王物語』には、

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さて院は建長二年三月に熊野へ御幸ありしが、同七年三月にかさねて参らせおはします。御先達は三山検校にて、桜井宮<後鳥羽皇子覚仁法親王>参り給。親王にて御先達、是がはじめなるべし。
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とあります。(『群書類従・第三輯』、p441)
『増鏡』に戻ると、都を出発する日、物見車を立てるのは禁止されていたが、大宮院だけが、女房の出し車はなく、ただ一両で御見物申されたのは尊く趣深いことであった、とのことですね。
弁内侍の歌が紹介されていますが、この場面は『弁内侍日記』の建長二年三月前後にはありません。
この歌は井上訳によると、

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「梛〔なぎ〕の葉を折って挿頭〔かざし〕にする熊野路の、その葉風、すなわち神威〔みいつ〕のおそれおおきに─物見車はみな禁止されて、女院の車一両のみだが、道にはただ一筋の小車〔おぐるま〕の跡しかついていないのは、なんとも尊いことである。
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という意味だそうですが、井上氏が特に何も書かれていないので、『増鏡』にしか見られない歌のようですね。
後嵯峨院の歌は『続古今集』巻七・神祇歌に出ているそうです。(p286)
なお、「みな人しろしめしたらん。中々にこそ」は、例によって語り手の老尼がちょっと顔を出している場面です。
その後も暫くして(五年後に)熊野御幸があったので、その時には大宮院も一緒に行かれた。「それは皆さんご存知の通りなので、お話するのもわずらわしいから省略します」、という意味ですね。
老尼が嵯峨清凉寺で語っているのは後醍醐天皇が隠岐から戻った元弘三年(1333)以降のある日、という設定ですから、建長七年(1255)に後嵯峨院が大宮院を伴って二度目の熊野御幸をしたというような、他の歴史的事象と比較して特に重要とも思われない出来事について、みなさん御存知の通り、というのはちょっと変な感じもします。
さて、これでやっと「巻五 内野の雪」は終りです。
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河北騰『増鏡全注釈』(その2)

2018-01-13 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月13日(土)12時58分4秒

少し脱線しますが、前回投稿で紹介した、

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 あくる年は建長五年なり。正月三日御門御冠し給ふ。御年十一、御いみな久仁と申す。いとあてにおはしませど、余りささやかにて、また御腰などの怪しく渡らせ給ふぞ、口惜しかりける。いはけなかりし御程は、なほいとあさましうおはしましけるを、閑院内裏焼けけるまぎれより、うるはしく立たせ給ひたりければ、内裏の焼けたるあさましさは何ならず、この御腰のなほりたる喜びをのみぞ、上下思しける。
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という記述に関し、河北騰氏は次のように言われています。(『増鏡全注釈』、p180以下)

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 ここでは、後深草帝がひどく小柄な異様な程の猫背の帝であったが、それが内裏焼亡の折、幸いにも殆ど良くなり、立てる程には直ったという幸せと、帝元服後の朝覲行幸のめでたさが述べられている。前者については、「増鏡」の後出の巻「草枕」でも触れられ、又「とはずがたり」でも述べられて居り、史実の面からは極めて重要な、原因となる様の事の指摘なのである。即ち、後深草帝には、右の様な身体的欠陥が幼年期少年期を通じて、強く心を悩まし続けて、それは帝自身に強い不幸感と劣等意識を募らせたようである。特に、すべてに優秀な六歳年下の弟亀山帝に対しては、烈しく強い対抗感・排他意識が、この少年期ごろから、彼の心内に、一層増大して行った事は容易に想像できる所である。この様な意識の強い、そして体貌もすぐれない一種内向的な、執拗な所のある皇子は、父後嵯峨からも母后からも、どうしても「かわいい子供」と思われない様な皇子であった。この事が、ずっと後の帝位継承・遺産授与の重大原因ともなり、ひいては持明院・大覚寺両統の永い確執の源ともなって行くのである。
 後者、即ち朝覲行幸については、その時の帝と随臣たちの華麗豪華な行装のさまや、幸福感に浸り切る大宮院や実氏大臣の有様が、例によって、言葉を尽くして語り上げられる。中でも、実氏、即ち西園寺家の至福は、これから展開するのだと言いたい作者の意図が、伺えるような含みのある文章表現である。
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確かに『増鏡』巻九「草枕」には、後深草院は「いとささやかにおはする人」と描かれています。

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 明日は宮も御帰りと聞ゆれば、今宵ばかりの草枕、なほ結ばまほしき御心のしづめがたくて、いとささやかにおはする人の、御衣など、さる心して、なよらかなるを、まぎらはし過ぐしつつ、忍びやかにふるまひ給へば、驚く人も無し。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b66ecfbbbb8585e29499abc8f9d4725

また、「天子摂関御影」という絵巻には後深草院が他の天皇と比較して小さく描かれているので、後深草院が小柄であったことはおそらく事実だろうと思います。

天子摂関御影
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AD%90%E6%91%82%E9%96%A2%E5%BE%A1%E5%BD%B1

しかし、腰が悪かった云々は『増鏡』にしか出て来ない話ですね。
河北騰氏は身体障害者は精神的にも歪んだ人間になるという人間観をお持ちのようですが、私は賛成できません。
なお、このような見方は河北氏のみのものではなく、いちいち名前を上げるのは控えますが、相当多くの国文学者・歴史学者の認識のようです。
河北氏の『増鏡全注釈』は大部で高価ではあるものの、学問的価値があまり感じられない本であることは以前にも書きましたが、『増鏡』に関する国文学者の共通認識ないし共通の誤解、共通の偏見を知るには便利な本ですね。

河北騰『増鏡全注釈』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5b5ad59292e56bd94e7c14970e019a06

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「巻五 内野の雪」(その13)─後深草天皇元服・朝覲行幸

2018-01-13 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月13日(土)11時35分15秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p280以下)

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 あくる年は建長五年なり。正月三日御門御冠し給ふ。御年十一、御いみな久仁と申す。いとあてにおはしませど、余りささやかにて、また御腰などの怪しく渡らせ給ふぞ、口惜しかりける。いはけなかりし御程は、なほいとあさましうおはしましけるを、閑院内裏焼けけるまぎれより、うるはしく立たせ給ひたりければ、内裏の焼けたるあさましさは何ならず、この御腰のなほりたる喜びをのみぞ、上下思しける。
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前々回の投稿で「閑院焼亡と京都大火はこの時期の大事件ですが、『増鏡』の十七巻本においては、華やかな後嵯峨院御幸と西園寺家の繁栄を傷つけることを懸念してか、一切言及せず、その無視の徹底ぶりは清々しいほどです」と書いたばかりですが、閑院の火事についてはここで一応触れてはいましたね。

「巻五 内野の雪」(その11)─後嵯峨院、住吉御幸
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1ca91c7059f07fdedf83418d43c11d5d

ただ、後深草天皇には腰に障害があって、幼いころはもっとひどかったけれど閑院内裏の火事のときに立派に立てるようになりました、という話が本当なのか、私はかなり疑問に思っています。
『弁内侍日記』には、まさにこの閑院内裏焼亡に関する詳細な記事がありますが、『増鏡』の記述を根拠づけるような箇所はありません。
また、閑院内裏の火事があった宝治三年(建長元、1249)には後深草天皇は数えで七歳ですが、『弁内侍日記』を通読すると、閑院内裏の火事以前に「記録所の行幸」として幼帝が後嵯峨院の御所にある記録所を訪問し、後嵯峨院も息子を喜ばせるために趣向を凝らす、といった記事が複数あります。
また、歩行不能なほどの障害があれば、後嵯峨院に敵対的な廷臣の誰かが日記にその旨を記していてもおかしくないのに、その種の記録の存在を聞きません。
更に、そもそも天皇には正月一日の四方拝のような、自ら行なわなければならない多数の儀礼行事がありますが、歩行不能なほど身体障害の程度が重いのであれば、そんな人には天皇の資格がないとして四歳での践祚自体がありえなかったはずです。
以上から、閑院の火事で後深草天皇が立てるようになったという不自然なエピソードは、ドラマチックな展開を好む『増鏡』作者の作り話だと私は考えます。
さて、次は鳥羽殿への朝覲行幸の場面です。

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 院の上、鳥羽殿におはします頃、神無月の十日頃、朝覲の行幸し給ふ。世にあるかぎりの上達部、殿上人つかうまつる。色々の菊、紅葉をこきまぜて、いみじうおもしろし。女院もおはしませば、拝し奉り給ふを、大き大臣、見奉り給ふに、悦びの涙ぞ人わろき程なる。

  ためしなき我身よいかに年たけてかかるみゆきにけふつかへぬる

げに大方の世につけてだに、めでたくあらまほしき事どもを、わが御末と見給ふ大臣の心地、いかばかりなりけん。こし方もためしなきまで、高麗・唐土の錦綾をたちかさねたり。大き大臣ばかりぞねび給へれば、うらおもて白き綾の下襲を着給へるしも、いとめでたくなまめかし。池にはうるはしく唐のよそひしたる御舟二さう漕ぎ寄せて、御遊びさまざまの事ども、めでたくののしりてかへらせ給ふ響きのゆゆしきを、女院も御心行きて聞しめす。
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建長五年(1253)の後深草天皇元服の記事の後になっていますが、この鳥羽殿への朝覲行幸は、実際には建長二年(1250)十月十三日の出来事ですね。
『弁内侍日記』には、

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十月十三日、鳥羽殿へ朝覲の行幸なり。宵の程は、時雨もやなど思ひ侍りしに、朝、ことに晴れていとめでたくぞ侍りし。鳥羽殿の御所の景気の面白さ、ことわりにも過ぎたり。色々の紅葉も、折を得たる心地す。龍頭鷁首浮べる池の汀の紅葉など、たてへむ方なし。髪上の内侍、勾当内侍・少将内侍なり。日暮し髪上げて、さまざま面白くめでたき事ども見出だして、「老の後の物語はいくらも侍るべし」など言ひて、少将内侍、
  語り出でん行末までの嬉しさは今日の行幸のけしきなりけり
これを聞きて、弁、
  世々を経て語り伝えん言の葉や今日[   ]の紅葉なるらん
 還御の後、めでたかりしその日の事ども申し出でて、染下襲、誰がしは何色、何色と、少将萩の戸にて記し侍りしに、太政大臣殿の裏表白き御下襲、ことにいみじく覚えて、弁内侍、
  白妙の鶴の毛衣何として染めぬを染むる色といふらん
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とあります。(『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』、p228以下)
詳しい解説は省略しますが、『増鏡』の「大き大臣ばかりぞねび給へれば、うらおもて白き綾の下襲を着給へるしも、いとめでたくなまめかし」は『弁内侍日記』の記述に基づいているようですね。
そにしても、『増鏡』作者は明らかに『弁内侍日記』を読んでいるのに、何で建長二年(1250)の出来事を建長五年(1253)の後深草天皇元服の記事の後ろに持ってくるのか。
まあ、考えられる理由としては、建長元年(1249)に腰が直ったばかりの幼帝が、その翌年に鳥羽あたりにまで元気一杯行幸するのはまずかろう、という編集上の都合によるのでしょうね。
なお、ここでも多くの陪臣の中から西園寺実氏の歌だけを取り上げていて、西園寺家賛美の色合いを感じさせます。

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