続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p283以下)
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そのころほひ、熊野の御幸侍りしにもよき上達部あまたつかうまつらる。都出でさせ給ふ日、例の桟敷など、心ことにいどみかはすべし。車はたてぬ事なりしかど、大宮院ばかり、それも出し車はなくて、ただ一輌にて見奉り給ひしこそ、やんごとなさもおもしろく侍りけれ。弁の内侍、
をりかざすなぎの葉風のかしこさにひとり道あるを車のあと
御幸、熊野の本宮につかせ給ひて、それより新宮の川ぶねに奉りてさしわたすほど、川のおもて所せきまで続きたるも、御覧じなれぬさまなれば、院のうへ、
くまの川瀬切りに渡す杉舟のへ波に袖のぬれにけるかな
その後も又ほどへてく御幸ありしかば、女院も参り給ひけり。みな人しろしめしたらん。中々にこそ。
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後嵯峨院は熊野に建長二年(1250)と建長七年(1255)の二度行っています。
『五代帝王物語』には、
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さて院は建長二年三月に熊野へ御幸ありしが、同七年三月にかさねて参らせおはします。御先達は三山検校にて、桜井宮<後鳥羽皇子覚仁法親王>参り給。親王にて御先達、是がはじめなるべし。
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とあります。(『群書類従・第三輯』、p441)
『増鏡』に戻ると、都を出発する日、物見車を立てるのは禁止されていたが、大宮院だけが、女房の出し車はなく、ただ一両で御見物申されたのは尊く趣深いことであった、とのことですね。
弁内侍の歌が紹介されていますが、この場面は『弁内侍日記』の建長二年三月前後にはありません。
この歌は井上訳によると、
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「梛〔なぎ〕の葉を折って挿頭〔かざし〕にする熊野路の、その葉風、すなわち神威〔みいつ〕のおそれおおきに─物見車はみな禁止されて、女院の車一両のみだが、道にはただ一筋の小車〔おぐるま〕の跡しかついていないのは、なんとも尊いことである。
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という意味だそうですが、井上氏が特に何も書かれていないので、『増鏡』にしか見られない歌のようですね。
後嵯峨院の歌は『続古今集』巻七・神祇歌に出ているそうです。(p286)
なお、「みな人しろしめしたらん。中々にこそ」は、例によって語り手の老尼がちょっと顔を出している場面です。
その後も暫くして(五年後に)熊野御幸があったので、その時には大宮院も一緒に行かれた。「それは皆さんご存知の通りなので、お話するのもわずらわしいから省略します」、という意味ですね。
老尼が嵯峨清凉寺で語っているのは後醍醐天皇が隠岐から戻った元弘三年(1333)以降のある日、という設定ですから、建長七年(1255)に後嵯峨院が大宮院を伴って二度目の熊野御幸をしたというような、他の歴史的事象と比較して特に重要とも思われない出来事について、みなさん御存知の通り、というのはちょっと変な感じもします。
さて、これでやっと「巻五 内野の雪」は終りです。