学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「巻二 新島守」(その3)─源頼家と源実朝

2018-01-01 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月 1日(月)17時26分39秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p108以下)

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 北の方は、さきに聞えつる北条四郎時政が女なり。その腹に男子ふたりあり。太郎をば頼家といふ。弟をば実朝と聞ゆ。大将かくれて後、兄やがて立ち継ぎて、建仁元年六月廿二日従二位、同じ日、将軍の宣旨をたまはる。又の年、左衛門督になさる。かかれども、少しおちゐぬ心ばへなどありて、やうやうつはものも背き背きにぞなりにける。
 時政は遠江守といひて、故大将のありし時より、私の後見なりしを、まいて今は孫の世なれば、いよいよ身重く勢ひそふこと限りなくて、うけばりたるさまなり。子二人あり。太郎は宗時といふ。二郎義時といふは、心もたけく魂まされるが、左衛門督をばふさはしからず思ひて、弟の実朝の君につきしたがひて、思ひかまふる事もありけり。
 督は、日にそへて人にも背けられ行くに、いといみじき病ひをさへして、建仁三年九月十六日年二十二にて頭おろす。世中残り多く、何事もあたらしかるべき程なれば、さこそ口惜しかりけめ。幼き子の一万といふにぞ、世をばゆづりけれど、うけひくものなし。入道はかの病つくろはんとて、鎌倉より伊豆の国へいで湯あびに越したりける程に、かしこの修善寺といふ所にてつひに討たれぬ。一万もやがて失はれけり。これは実朝と義時と一つ心にてたばかりけるなるべし。
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北条政子が産んだ頼家(1182-1204)は第二代将軍となったものの人望がなく、建仁三年(1203)に失脚して将軍は同母弟の実朝(1192-1219)に変わり、頼家は翌年、幽閉されていた修善寺で殺害されたという一連の出来事は、実際には北条時政が主導したものですが、『増鏡』は「実朝と義時と一つ心にてたばかりけるなるべし」としていますね。
また、時政が失脚した元久二年(1205)の牧の方の一件についても『増鏡』は一切言及していません。

北条時政(1138-1215)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%94%BF

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 さて、今はひとへに、実朝、故大将のあとをうけつぎて、官・位とどこほる事なく、よろづ心のままなり。建保元年二月廿七日、正二位せしは、閑院の内裏つくれる賞とぞ聞き侍りし。同じ六年、権大納言になりて左大将を兼ねたり。左馬寮をさへぞ付けられける。その年やがて内大臣になりても、なほ大将もとのままなり。父にもややたちまさりていみじかりき。この大臣は大方心ばへうるはしく、たけくもやさしくも、よろづめやすければ、ことわりにも過ぎて武士のなびき従ふさまも代々にこえたり。いかなる時にかありけん、

 山はさけ海はあせなん世なりとも君にふた心わがあらめやも

とぞ詠みける。
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実朝は有名人ですから説明は省略します。

源頼家(1182-1204)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%AE%B6
源実朝(1192-1219)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%AE%9F%E6%9C%9D
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「巻二 新島守」(その2)─源頼朝

2018-01-01 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月 1日(月)16時47分23秒

続きです。
建久元年(1190)の頼朝上洛の記事からです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p103以下)

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 建久の初めつかた、都にのぼる。その勢ひのいかめしき事、いへばさらなり。道すがら遊びものども参る。遠江の国橋本の宿につきたるに、例の遊女おほく、えもいはず装束きて参れり。頼朝うちほほゑみて、

  橋本の君になにをか渡すべき

といへば、梶原平三景時といふ武士、とりあへず、

  ただ杣山のくれであらばや

いとあいだちなしや。馬鞍・紺くくり物など、運び出でてひけば、喜びさわぐ事限りなし。
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源頼朝(1147-99)と梶原景時(1140?-2000)の「橋本の遊君には何を祝儀にやったらよいかな」「ただ何も与えずにおきたいものです」というやり取りについて、井上氏は、「杣山は植樹林の山。榑は皮のついたままの丸太の材木。「杣山の」は「呉れ」(榑と同音)を引き出す序詞。橋は丸太を用いるので、くれは橋の縁語。当意即妙なる掛合の短連歌である」と評されていますが(p106)、まあ、しょーもないダジャレで、「いとあいだちなしや」(ほんとうに愛想のないことよ)としか言いようがない感じがしますね。

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 その年十一月九日権大納言になされて、右近大将を兼ねたり。十二月の一日ごろ、よろこび申しして、同じき四日やがて官をば返し奉る。この時ぞ諸国の総追捕使といふ事、承りて、地頭職に我が家のつはものどもなし集めけり。この日本国の衰ふるはじめはこれよりなるべし。
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頼朝が上洛して権大納言・右近衛大将に任じられ、直ぐにこれを辞したのは建久元年(1190)ですが、「諸国の総追捕使といふ事、承りて」云々がいわゆる文治の勅許のことであれば五年前の出来事であって、かなり変な記述ですね。

文治の勅許
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%B2%BB%E3%81%AE%E5%8B%85%E8%A8%B1

ま、文治の勅許に関する近年の議論はここでは紹介しませんが、私にとって非常に興味深いのは「この日本国の衰ふるはじめはこれよりなるべし」という認識です。
初めて『増鏡』を読んだとき、なるほどそういう歴史観があるのか、とちょっと感動しました。
これが南北朝時代の公家の単なるノスタルジーないし負け惜しみなのか、それとも頼朝が「諸国の総追捕使」になって「地頭職に我が家のつはものどもなし集め」、朝廷中心の秩序を破壊した時代に遡って国家のあり方を根本的に見直し、改めて古き良き秩序を回復しようとする決意の現れなのかは検討の価値がある問題であり、それは『増鏡』の成立時期に関わってくると私は考えています。
この点は後述します。

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さて東に帰り下る頃、上下いろいろのぬさ多かりし中に、年頃祈りなど行ひ給ひし吉水の僧正、かの長歌の座主のたまひ遣はしける。

  東路のかたに勿来の関の名は君を都に住めとなりけり

御返し、頼朝、

 みやこには君に逢坂近ければ勿来の関は遠きとを知れ

その後もまた上りて、東大寺の供養にもまうでたりき。かくて新院の御位の初めつかた、正治元年正月東にて頭おろして、同じ十三日に年五十三にてかくれにけり。治承四年より天の下に用ゐられて、二十年ばかりや過ぎぬらん。
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「吉水の僧正」は九条兼実の同母弟、天台座主・慈円僧正のことですね。
巻一の最後の方に慈円と藤原定家の長歌のやり取りがあったのですが、紹介は略してしまいました。

源頼朝(1147-99)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D
慈円(1155-1225)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E5%86%86
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「三十四年間もかけてたった三年足らずの分しか編纂できなかった」(by 近藤成一氏)

2018-01-01 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月 1日(月)15時13分19秒

喪中のため新年のご挨拶は控えさせていただきます。
去年、というか昨日、近藤成一氏の『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016)に若干の批判めいたことを書きましたが、この本は鎌倉時代研究の最新の成果を簡潔に纏めていて、大変良い本です。
この掲示板を御覧になって、鎌倉時代について少し勉強してみたいと思われた方から何か良い参考書を一冊だけ紹介してくれと言われたら、私は迷わずこの本をお奨めします。
同書「あとがき」には、

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 著者は三十四年間東京大学史料編纂所に在職し、一貫して『大日本史料 第五編』の編纂に従事してきた。第五編の対象年代は承久三年(一二二一)七月から正慶二年(一三三三)五月までであるが、著者が直接出版に携わったのは第二十七冊から第三十五冊までの九冊、対象となるのは宝治二年(一二四八)十月から建長三年(一二五一)七月までである。三十四年間もかけてたった三年足らずの分しか編纂できなかったことになる。本書の記述ではわずか数行分にしかならない。
 しかもこの三年に満たない分を編纂するのですら、著者と同僚がゼロからはじめたわけではなく、百年以上にわたって先輩たちが蓄積してきた材料を前提としている。逆に自分たちもまた、直接自分たち自身で出版する分のみならず、実際の出版が百年以上後になるかもしれない分も含めて、編纂材料を蓄積し、後輩に渡していくことになる。それを百年以上前から世代を超えて繰り返し、これから先も繰り返していく。
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とあり(p258)、本当に大変なお仕事ですね。

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『鎌倉幕府と朝廷 シリーズ日本中世史2』

史上初めて,京都から百里以上を隔てる僻遠の地に創られ,以後百五十年にわたって存続することになった新たな政権,鎌倉幕府.朝廷と並立する統治のあり方はなぜ生まれたのか.そのことは日本社会をどう変えたのか.源平争乱から幕府誕生,執権政治の時代,そしてモンゴル戦争を経て崩壊に至るまで,鎌倉幕府の時代を描き切る.

https://www.iwanami.co.jp/book/b226367.html

さて、二つの留意点を念頭に置きつつ『増鏡』の読み直しを始めて、原文の一部は省略して来ましたが、私の当面の関心とは関係ない内容であっても、語彙や文章表現の点で後から参照したいと思う部分が若干ありました。
そこで、今後は原文は全部載せていつでも参照できるようにし、私の関心と離れた部分の解説はあっさりと、または全然なしに済ませるようにしたいと思います。
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