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板屋の軒のむら時雨

2009-11-19 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年11月19日(木)01時15分3秒

次に「一方、北方の六波羅御所は檜皮葺であったのに対し、南方の探題居所は板屋葺であった。この点、鎌倉殿の六波羅御所が他の邸宅にくらべて際やかな存在であったことに疑いはない。」についてですが、注を見ると、「(18)『増鏡』第七、北野の雪、ならびに巻一五、むら時雨」となっていて、熊谷氏が論文執筆時に根拠として利用できたのは『増鏡』だけのようです。
ここに限らず、熊谷氏が出典や文献の該当箇所をきちんと特定しないのは、ちょっと困りますね。
さて、「第七、北野の雪」は既に紹介した部分です。
そして、「巻一五、むら時雨」は、高橋慎一朗氏が『中世の都市と武士』で引用している部分以外に、もう一箇所、関係する部分があります。
まず、倒幕計画が発覚し、後醍醐が京都を脱出した後の持明院統側の様子を描く場面です。(井上宗雄氏『増鏡(下)』p219)

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持明院殿には春宮おはしませば、思ひのほかにめでたかるべきことなれど、今日明日はいくさのまぎれにて、何の沙汰もなし。御宿直の者の、むべむべしきもなくて、離れおはしますも、あぶなき心地すればにや、せめても六波羅近くとて、六条殿へ本院・新院・春宮ひき続き移らせ給ひぬれど、日にそへて天の下騒ぎみち、恐ろしきことのみ聞ゆれば、なほこれもあやうしとて、六波羅の北に、代々の将軍の御料とて造りおける檜皮屋ひとつあるに、両院・春宮入らせ給ふ。大方はいとものしきやうなれど、よろしき時こそあれ、かばかりの際には何の儀式もなかるべし。
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ついで後醍醐が捕縛されて京都に護送されてきた場面。
こちらも丁寧に引用してみます。(同p229)

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十月三日都へ入らせ給ふも、思ひしにかはりて、いとすさまじげなる武士ども、衛府のすけの心地して、御輿近くうち囲みたり。鳳輦にはあらぬ網代輿のあやしきにぞ奉れる。六波羅の北なる檜皮屋には、もとより両院・春宮おはしませば、南の板屋のいとあやしきに、御しつらひなどしておはしまさするに、いとほしうかたじけなし。間近き程によろづ聞しめし御覧じ触るる事ごとにつけても、いかでか御心動かぬやうはあらん、口惜しう思し乱る。習はぬ御宿りに時雨の音さへはしたなくて、

  まだなれぬ板屋の軒のむら時雨音を聞くにもぬるる袖かな
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巻十五の巻名はこの歌によるものであって、作者はかなり力を込めて描写していますね。
「板屋」は『新葉集』にも掲載されている後醍醐御製に基づくとはいえ、「南の板屋のいとあやしきに」となると、後醍醐の哀れさを強調するための文学的脚色の可能性も考えられますね。
この部分だけを根拠として「南方の探題居所」が全面的に「板屋葺であった」と言い切れるのか、檜皮葺の建物がひとつもなかったと言えるのか、若干の疑問があります。
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1 コメント

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ありがとうございます (原田多加司)
2009-11-20 19:57:53
檜皮葺職人の原田です。他の事で調べものをしておりましたら、偶然、貴ブログを見つけました。拙書を随分丁寧にお読みいただいているようで、感謝申し上げます。

こういう時代だからこそ、直接に読者の反応やご意見が聞けるのでしょうね(笑) 今後ともよろしくお願いいたします。また、遊びに来ますね
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