学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

「巻五 内野の雪」(その2)─中宮(姞子)の懐妊

2018-01-08 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月 8日(月)20時46分37秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p240以下)
最初は順徳院崩御の場面です。

-------
 仁治三年九月十二日佐渡院かくれさせ給ひぬ。世の中うつりかはりしきざみ、もしやなど思されしも空しくて、いよいよ隔たり果てぬる世を、心細う思し嘆きけるつもりにや、さしもとりたてたる御悩みなどはなくてうせ給ふに、折あはれなる御事どもなり。四十六にぞならせ給ひける。
-------

四条天皇崩御後、もしかしたら自分の皇子が天皇となり、自分が帰京できるきっかけになるかもしれないと期待したであろう順徳院は、その期待を裏切られ、同じ仁治三年(1242)の九月、佐渡で崩御となります。四十六歳。

-------
 あくる年は寛元元年なり。六月十日頃に、中宮、今出川の大殿にてその御気色あれば、殿の内たち騒ぐ。白き御装ひにあらためて、母屋にうつらせたまふ程、いとおもしろし。大臣・北の方・御兄の殿ばら達そ添ひかしづき聞え給へるさま、限りなくめでたし。御修法の壇ども数しらず。医師・陰陽師・かんなぎ、各々かしがましきまで響きあひたり。いと暑き程なれば、唯ある人だに汗におしひたしたるに、后の宮いと苦しげにし給ひて、色々の御物の怪ども名乗り出でつつ、わりなくまどひ給へば、大臣・北の方、いかさまにせんと御心を惑はし給ふさま、あはれにかなし。かやうのきざみ、高きも下れるも、おろかに思ふ人やはあらん。なべてみなかうのみこそあれど、げにさしあたりたる世の気色をとり具して、たぐひなく思さるらんかし。内よりも、「いかにいかに」と御使ひ雨のあしよりもしげう走りちがふ。内の御めのと大納言二位殿、おとなおとなしき内侍のすけなど、さべき限り参り給へり。今日もなほ心もとなくて暮れぬれば、いとおそろしう思す。伊勢の御てぐらつかひなどたてらる。諸社の神馬、所々の御誦経の使ひ、四位五位数を尽して鞭をあぐるさま、いはずともおしはかるべし。大臣とりわき春日の社へ拝して、御馬、宮の御衣など奉らる。
-------

寛元元年(1243)六月十日頃、中宮の西園寺姞子(1225-92)が今出川の実氏邸で産気づきます。
たいへん暑い季節なので、普通の人でも汗びっしょりなのに、中宮は非常に苦しそうにしていて、そこに「色々の御物の怪ども」が名前を名乗って次々に登場するのだそうです。
この「色々の御物の怪ども」が誰なのかと思ってモノノケ話が好きな『五代帝王物語』を見たところ、意外なことに中宮懐妊・皇子誕生の場面は非常にあっさりしていて、モノノケは全く登場していません。
ということで、ここは『五代帝王物語』に頼っていない『増鏡』独自の叙述ですね。
さて、宮中からも「どうなのか、どうなのか」とお使いが頻繁に来ては帰って行く中で、「内の御めのとの大納言二位殿」や年輩の物なれた典侍など、然るべき者はみな参上されたとありますが、井上氏は天皇の御乳母である「大納言二位殿」について「伝不詳」とされており(p245)、河北騰氏の『増鏡全注釈』(笠間書院、2015)も「氏名不明」としています(p155)。
しかし、これは源通親の娘、親子ですね。
秋山喜代子氏の「養君にみる子どもの養育と貢献」(『史学雑誌』102-1号、1993)に次のような指摘があります。(p80)

-------
【前略】かくして後嵯峨の即位が実現したのである。その結果、大殿九条道家の勢力は後退し、代わって外戚定通の勢威が増した。定通は天皇の後見として内裏を管領したが、寛元四年院政開始後も嫡子顕定を院の執事別当の地位につけて、実際には彼が院中を統括した。
 さて、注目したいのは大納言二位こと乳母源親子(通親女で定通、通方の妹)である。親子は重要案件の取次役であって、摂関家や関東申次の西園寺家などの重臣と後嵯峨との交渉を殆ど申し次いだ。そして、そうした立場から貴族の最大の関心事である人事に深く介入した。
 この点で特筆すべきは、院宣と変らぬ女房奉書、「二品奉書」が重事、人事に関して数多く確認できることである。中世前期では、天皇(院)の乳母は天皇に密着し、その身辺の事柄、奥向きの事をとりしきる立場に位置付けられた。したがって必然的に乳母は内々の事、重事の取次役となった。とはいえ、親子のように女房奉書を多く出した者は稀である。このことは親子の政治的影響力が強大だったことを意味しているのである。こうした親子の権勢を考慮にいれるならば、後嵯峨の即位後は、政治の顧問として内裏、院の表向きのことを統括した外戚定通と、奥向きをとりしきった乳母親子の兄妹が、共に後嵯峨を支える後見だったと捉えられよう。
-------

上記引用部分中に注が五カ所あり、末尾の注記を見ると『平戸記』『葉黄記』『岡屋関白記』『明月記』など当時の諸記録が参照されています。
「乳母」「乳父」は当時の貴族社会を理解する上で相当に重要な制度なので、後で四条家と四条隆親についてまとめる際に詳しく検討します。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「巻五 内野の雪」(その1... | トップ | 「巻五 内野の雪」(その3... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

『増鏡』を読み直す。(2018)」カテゴリの最新記事