学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その7)

2017-12-23 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月23日(土)12時43分56秒

この前斎宮のエピソードは、『とはずがたり』の年表を作っている国文学者によれば文永十一年(1274)の出来事とされています。
そして『とはずがたり』でも『増鏡』でも西園寺実兼は「西園寺大納言」として出てきますが、細かいことを言うと、この当時の実兼は正確には「権大納言」ですね。
実兼は文永八年(1271年)に権大納言になった後、昇進がストップしてしまって、大納言になれたのは実に17年後、正応元年(1288年)になってからです。
一昔前の歴史学界では、東大史料編纂所の所長を長く務めた龍粛氏(1890-1964)などの研究の影響で、鎌倉時代の公家社会では西園寺家の勢威が大変なものだった、みたいに思われていたのですが、こうした「西園寺家中心史観」が歴史学界で疑問視されるようになった後でも国文学界ではけっこう長く影響力を保ち続け、西園寺実兼に関する国文学者の解説には妙なものが多いですね。
ま、それはともかくとして、『増鏡』に西園寺実兼とセットで登場する二条師忠の地位はどうかというと、文永六年(1269)に僅か十六歳で内大臣、文永八年(1271)右大臣、建治元年(1275)左大臣ですから、さすがに摂関家ならではの凄まじい昇進スピードです。
しかし、このように宮廷社会での公的な序列では五歳下の二条師忠の方が圧倒的に上であるのに、『増鏡』に描かれた二人の関係は些か妙なものです。
さて、続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p227以下)

------
 内には大納言の参り給へると思して、例は忍びたる事なれば、門の内へ車を引き入れて、対のつまよりおりて参り給ふに、門よりおり給ふに、あやしうとは思ひながら、たそがれ時のたどたどしき程、なにのあやめも見えわかで、妻戸はづして人のけしき見ゆれば、なにとなくいぶかしき心地し給ひて、中門の廊にのぼり給へれば、例なれたる事にて、をかしき程の童・女房みいでて、けしきばかりを聞こゆるを、大臣覚えなき物から、をかしと思して、尻につきて入り給ふ程に、宮もなに心なくうち向ひ聞こえ給へるに、大臣もこはいかにとは思せどなにくれとつきづきしう、日頃の心ざしありつるよし聞えなし給ひて、いとあさましう、一方ならぬ御思ひ加はり給ひにけり。
------

井上訳は、

------
 女宮のほうでは大納言が参られたのだと思われて、いつもは忍んで来られることとて、門のうちへ車を引き入れて対の屋の端のほうからいらっしゃるのに、(今夕は)門の所からお降りになるのを変だとは思いながら、夕暮時のはっきりしないころで、何の見わけもつかず、(師忠公のほうは)妻戸のかけがねを外して自分の訪れを待つ人の気配がみえるので、なんとなく不思議な気持がされて、中門の廊へ上られると、宮のほうではいつも慣れたことなので、かわいらしい童や女房が現われ出て、形ばかりお迎えの口上を申すのを、大臣は思いがけないことだが興あることに思われて、そのあとについて奥にお入りになると、女宮も何心なく対座申されたので、大臣はこれはいったいどうしたことかとは思われたが、なにかとこの場にふさわしいように、日ごろからお慕い申す気持があったことなどうまく申しあげなさって、(そこで女宮のほうは間違いに気づき)ほんとうに驚いて、ひととおりでないお悩みが加わりなさったのであった。
-------

ということで、何とも間の抜けた展開となります。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『増鏡』に描かれた二条良基... | トップ | 『増鏡』に描かれた二条良基... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』」カテゴリの最新記事