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「公儀」と師弟愛

2017-07-01 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月 1日(土)12時53分42秒

6月27日の投稿で、「渡辺氏のような、特定の概念だけに偏執的なこだわりを見せる変人が「幕府」ではなく「公儀」と呼ぶべきだと主張しても、ま、結局は誰からも相手にされずに終わるのではないかと思います」とか書いてしまいましたが、『「維新革命」への道─「文明」を求めた十九世紀日本』において、渡辺氏の弟子である苅部直氏は律儀に「公儀」を使っておられますね。
例えば、

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 ここでいったん、その否定対象となった儒学の歴史観についてふりかえってみよう。渡辺浩『近世日本社会と宋学』(東京大学出版会、増補新訂版二〇一〇年)などの研究が説くように、徳川時代においてはその初期から、公儀が支配権力を正当化するイデオロギーとして儒学(朱子学)を普及させたという理解は、現在ではほぼ否定されている。
 むしろ太平の世において、民間で活躍した儒者たちによって朱子学が広まり、伊藤仁斎や荻生徂徠に見られるような、朱子学を批判する独自の儒学思想も大きな影響を知的世界にもたらすようになった。その結果、十八世紀後半から、各地の大名が藩校を設立し、江戸の公儀も昌平坂学問所を設けて朱子学を講じさせることを通じて、儒学は「官学」と化し、知識人がものを考え、論じるさいの共通の前提となったのである。
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といった具合です。(p85)
他にも「公儀や大名家」(p120、125)、「公儀と諸大名による世襲統治」(p198)、「公儀の蕃書和解方」(p214)、「徳川の公儀」(p234)などとありますね。
そして幕府という表現を用いる場合には全て「幕府」とカギカッコ付きです。(p43、54、55)
ただ、「公儀」で徹底しているかというとそうでもなく、「徳川政権」というような曖昧な表現もありますね。
「徳川政権」は「徳川政権が崩壊」(p43)、「徳川政権最後の公方、徳川慶喜」(p43)、「徳川政権の崩壊」(p46)、「徳川政権の「瓦解」」(p47)、「徳川政権が成立」(p49)、「徳川政権から明治政府への交代」(p51)といった感じで用いられています。
徳川幕府の最初と最後に「徳川政権」を用いるのが苅部氏のこだわりなんですかね。
なお、「徳川政権最後の公方、徳川慶喜」という表現に見られるように、苅部氏は普通の人が「将軍」とするところを一貫して「公方」としており、この点も律儀に渡辺先生の教えに従っておられるようです。
さて、渡辺先生と苅部直氏の麗しい師弟愛はともかくとして、「公儀」はもともと江戸時代より前から用いられている史料用語で、しかも時代に応じて多様な変化をしていますから、講学上の用語として「公儀」(=幕府)を用いる人は決して多数派ではない、というかかなり珍しい部類に入るのではないかと思います。
このあたりの事情は近世史に疎い私には難しいので、次の投稿で、たまたま最近読んだ福田千鶴氏の「江戸幕府の成立と公儀」(『岩波講座日本歴史第10巻 近世1』、2014)を少し引用してみます。
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